第26話 聞きそびれた名前
朝霧はまだ晴れない。
枝葉の露が落ち、
光が隙間から少しずつ滲む。
俺は草屋の前の石に座り、
一晩じゅう――眠れなかった。
頭の中で、
あの一閃が、何度も反芻される。
刀を抜く音、銀光が空気を裂く感触、
喉に触れた氷みたいな冷気――
……思い出しただけで、汗が滲む。
「……ククッ。」
指先が、無意識に首筋をなぞった。
昨夜、彼女が消えた方角を見る。
灰色の霧と、木々の影だけ。
本来なら――ここで待つつもりだった。
何年でも。
エルフの女を、捕まえるまで。
なのに現れたのは、
俺の首を刎ねかけた、狂った小娘。
死にかけたはずなのに、
胸の奥が、まだ熱を帯びていた。
両手は、かすかに震えていた。
「……エルフは今じゃねぇ。
……あとだ。」
独り笑いが、
人気のない草屋に虚しく響いた。
座ってても仕方がない。
俺は立ち上がり、
生活の道具と、拾い集めた剣を布で包む。
ぎゅっと縛って、肩に担いだ。
背に、相棒を負う。
「出るか。……ここに、未練はない。」
踏み出した瞬間――視線を感じた。
思わず顔を上げる。
高い枝の上。
細い影が、静かに腰を下ろしていた。
長い耳。
銀の髪。
緑の衣。
――エルフだ。
本物の……。
噂でも幻でもない。
本物が目の前にいる。
朝の光に照らされた横顔は、
彫像みたいに整っていた。
ただ座っているだけで、
森そのものよりも眩しく見えた。
息が詰まる。
鼓動が速い。
喉が乾く。
……馬鹿みたいに綺麗だ。
伝説は――嘘じゃなかった。
――だが。
脳裏に、あの黒髪の一閃が走る。
光が迫る。
喉が冷える。
死が近い。
声はない。
ただ見下ろしている。
その目は獣を見る目だ。
羨望も憐憫もない。
ただの観察。
――喉の奥が焼けた。
敵意はない。
親愛もない。
……ただ、見ている。
「……クソッ。
エルフ嫁の夢は、また今度だ!」
ただ吐き捨てるように叫んだ、
それでも足は止まらない。
胸の奥で、
さっきの視線がまだ疼いている。
羨望を押し殺して、
……憎まれ口でしか隠せなかった。
土を蹴り、
濡れた匂いの森を抜ける。
背後で葉が揺れる気配。
それでも振り返らない。
「……次は、逃さねぇ。」
歪んだ笑みを浮かべた、
俺は草屋を後にした。
※ ※ ※
港へ向かう道はぬかるんでいた。
けれど、足取りは妙に軽い。
エルフのせいじゃない。
――頭に、別の光景がこびりついている。
あの一閃。
黒髪の少女が抜いた瞬間、
空気が――断ち切れた。
速すぎる。
反射で受け止められたのは、ただの偶然。
柄を握った指がまだ痺れている。
半拍でも遅れていたら、首は飛んでいた。
「……まだ首が疼く。」
ふっと笑いが漏れる。
思えば、あいつは未熟だった。
動きは粗い。
呼吸は乱れる。
構えも甘い。
なのに、もう――“速い”。
――もし、研ぎ続けたら?
――数年、積み上げたら?
同じ動作、同じ斬撃。
でも、速さが異常で、目が追えない。
俺の剣が動く前に、喉が裂ける。
背中を汗が伝う。
首が落ちる幻が、妙に生々しい。
「クハッ……いいじゃねぇか。」
震えと昂ぶり。
女を知らない俺には、
喉を焼く酒のような痺れ。
その時、茂みが割れた。
ドゴッ――。
木の棍棒を振り上げる、トロル。
涎を垂らし、血走った目で突進してくる。
……気づいていた。
正面から見る必要すらねぇ。
一歩。
一閃。
首が飛ぶ。
巨体が惰性のまま倒れかかる。
肩をずらして抜ける。
こんな雑魚、どんな剣でも斬れる。
相棒の出番ですらない。
「……なるほど。解けるな。」
あの一閃を、何度も巻き戻す。
速い。だが――軌道は固定だ。
柄に手がかかった瞬間、
先を読んでそこに刃を置く。
それで受け止められる。
――それが、答え。
口角が、吊り上がる。
……でも、もし。
起こりが消えたら?
抜刀から落刃まで、
始動が――見えなかったら?
その時、俺は耐えられるか?
胸が締まる。
心臓がうるさい。
また幻が来る。
目の前に彼女。
瞬きの間に、喉が裂ける。
世界が反転し、首が転がる。
「……ハハッ。考えるほど、昂ぶるな。」
影が落ちた。
空に――ワイバーン。
風が巻き、翼が唸る。
「考え事の邪魔すんなよ、クソトカゲ。」
背の剣を抜き、踏み込む。
ズバァ――ッ。
轟音。
首が飛び、血雨が降る。
死骸が木々をなぎ倒し、大地が震える。
刀身を払って、納刀。
「つまらねぇクソトカゲだ。……臭ぇ。」
足は止めない。
頭の中では、まだ一閃が回る。
速さの極致。
――面白ぇ。
乾いた唇を舐め、ぬかるみを軽く蹴った。
※ ※ ※
樹海を抜け、数日の道のりを越えて――。
潮の匂い。
干した縄と、鉄の錆。
波が、船腹を叩く音。
荷を放り、船倉に寝転ぶ。
目を閉じ、時間を潰そうとした時――
「青髪じゃないか。」
肩が、びくりと跳ねる。
差し込む日差しの中、灰色の短髪の女。
ギルドの制服、刃みたいな目。
フェイ――あの女の影。
その気配だけは、
一度たりとも読めたことがない。
いちばん嫌いな相手だ。
顔を背け、知らないふりをする。
「寝てろ。S級も、そのまま終わりだ。」
「ハッ……何が言いてぇ?」
言い返した直後――甲板が騒ぐ。
「海賊だ――ッ! 海賊が来たぞ!!」
怒号。悲鳴。
走る足音。
泣き声が、風に溶ける。
船員は短槍を震える手で構え、
乗客は泣き叫びながら、
甲板の隅に固まった。
……護衛? 契約してない。
……船? そう簡単に沈まない。
……海賊? うるせぇ。
フェイは腕を組み、
無表情のまま、刃みたいに言う。
「今月も未達か。
……運がいいな、現場だ。
動かないのか?」
黙る俺へ、追い打ち。
「怠けるなら、私が片付ける。」
……クソッ。
歯を軋ませ、
跳ね起きる。
剣を背負って、甲板へ。
強烈な日差しと、混乱。
黒帆の海賊船が、すれすれで舷を擦る。
ヒュン――鉤縄が飛び、
刃と鎖が、乱舞する。
「厄介事ばかりだ。」
吐き捨てて、跳ぶ。
風の音だけが、残った。
振り下ろす。
――ドゴォォォォン!!!
船体が、真っ二つに裂ける。
木片と鉄釘が、空に弾け飛んだ。
悲鳴ごと、海へ落ちる。
白い飛沫に、血が混じる。
地獄絵図だ。
海賊の顔を軽く踏み、甲板へ、ひらり。
振り払い、納刀。
「護衛と殲滅。……二つでいいな?」
フェイは冊子をパタンと閉じ、
淡々と頷く。
「乗客護衛と海賊殲滅。二件。
詳細、報告する。」
「終わりだな。寝る。
……面倒くせぇ。
エルフの方がまだマシだった。」
俺は船倉へ戻り、横になる。
外の騒ぎは遠のき、波だけが、残った。
※ ※ ※
港の喧騒は、潮みたいに押し寄せる。
馬車の軋み。商人の声。汽笛。
――自由の都。
俺は、冒険者ギルド本部へ向かう。
あの男は、そこにいる。
正面玄関の前で、足が止まる。
人が多い。
申請が面倒。
階段と廊下は迷路。
そして――あの女。
……顔を合わせるだけで、気が滅入る。
やめだ。
大門は通らない。
外壁を見上げ、
――駆け上がる方が早い。
足場を探す。
なければ――壁を蹴って作る。
一気に跳ね上がり、
最上層の窓へ。
「……この部屋だな。」
――ガシャァン。
厚いガラスが、弾け飛ぶ。
窓枠を踏んで、室内へ。
絨毯が音を吸った。
砕けたガラスを踏む音だけ。
机の向こうで、男が顔を上げた。
金髪が光り、
赤い瞳は、無機質に冷たい。
公文書を袋に収め、
彼は、静かに嘆息した。
「……また窓からか。
大門は飾りじゃないぞ、
『蒼鉄の斬竜剣魔』。」
「誰があの階段上るかよ。
申請は面倒だし……
下には“例の女”もいる。」
軽口。
だが、手はもう、柄に乗る。
彼は、かすかに口角を上げた。
「フェイか。来ていたか。」
――ギルド本部総長、ノエル。
世界最強の男。
俺は、抜く。
ギャリッ――
風圧が紙束を舞い上げ、
刃先が、まっすぐ彼を射抜く。
「――手合わせしろ!」
彼は瞬きもしない。
文書を整え、袋を軽く叩く。
それから、目を上げる。
「怪物のお前が、
まだ手合わせを求めるのか。
……エルフの女はどうした。
……仕事に戻れ。」
「エルフは会った。
だが、それ以上を見つけた。」
「へぇ?
どこの騎士団長だ。闘技場の王者か。」
興味だけは、本物らしい。
「違う。
……二十にも満たない、
黒髪の――小娘だ。」
苦笑しか出なかった。
彼の赤い瞳の瞳孔がわずかに細まり、
すぐに平静を取り戻した。
「黒髪……伝承の、か。」
笑みは薄い。
それでも、寒気が走る。
呼吸が荒くなり、握る手に力が入る。
「……あいつを越えなきゃ、
いつか俺は、追い抜かれる。」
「悪いな。今は暇じゃない。」
袋を手に取り、淡々。
「帝国と獣人の国境が、燻っている。
抑えに行く。
民が苦しむし、物流も止まる。」
背筋が冷える。
戦を止める話を、まるで――
菓子でも買いに行くみたいに言う。
「クソッ……なら、俺はどう強くなる?」
彼は、わずかに笑った。
「俺の妹に会え。知ってるだろ。
相手にしてくれるかは、知らんが。」
「……今どこだ。」
「リュゼルナで、支部長をしている。」
胸の奥で、火花が散る。
――リュゼルナ。
――剣聖。
荷を背負い、背を向ける。
「そうだ。ひとつ聞く。
――その小娘、名前は?」
足が止まる。
空白が、二拍。
「……あぁ。聞き忘れた。」
風が、割れた窓から吹き込む。
紙が、ひらりと舞う。
「……お前ってやつは。」




