第24話 心で呼んだ名前
冷たい風に肩を撫でられて、
夢の底から引き戻された。
目の前はぼんやりして、
周囲の輪郭はまだ結ばない。
耳に届くのは、虫や鳥の声……
それから、ぱちぱちと薪のはぜる音。
ひやりとした空気に触れて、
薄明の匂いとともに――朝だと直感した。
体を起こそうとした瞬間、
水袋を背負わされたみたいに重く、
背中に鈍い痛みが走った。
指先に触れたのは――乾いた草。
少しずつ意識が澄んで、
視界が明るくなる。
けれど、まだはっきりしない。
私は手を伸ばした。
……眼鏡を探すために。
草屑と土の感触ばかりで、
肝心のそれには触れない。
胸の奥が、きゅっとすくむ。
息が詰まり、胸が苦しくなる。
無意識に草をかき分け、
体を半分まで起こしかけた、その時――
枕のすぐそばに、それはあった。
胸のこわばりがほどける。
けれど、手先はまだ震えていた。
震える指でそれを掛けた。
世界がようやく輪郭を取り戻す。
大きく息を吐き出した。
頭上には、
枝や葉や雑草で組まれた、粗末な屋根。
身をゆっくり起こすと、
周りも同じように荒い壁ばかりだ。
隅には雑多な荷物。
粗い木で作られた、小さな卓がひとつ。
……住処、なのかもしれない。
でも、
扉も家具もなく、足元はただの土。
本当に、人が暮らせる場所なのか――。
「……ここは……?」
疑問が渦を巻いた時、
脳裏にトロルの一撃がよみがえった。
思わず胸元を見る。
吐き出した血は、もう乾いている。
体は重い。
けれど――
不思議と痛みはなかった。
……私は、生き延びたのか。
頭の奥に、
まだあの一撃の尾が残っている。
吹き飛ばされたあの瞬間、
意識が遠のいていくのを、
確かに感じたはずだ。
……助けられた?
その考えがよぎった途端、背筋が凍る。
呼吸が荒くなり、
胸を掴まれたみたいに苦しく、
冷や汗が額をつたった。
もし本当に誰かに助けられたのなら――
意識を失っていた間に……
私は反射的に首を垂れた。
全身を確かめるために。
震える指先で、鎖骨から腰までなぞる。
古びた布の感触。
乾いた血、土、汗……
知らない痕跡は、どこにもなかった。
「……大丈夫……よかった……」
かすれた声が喉から漏れる。
肩がふっと緩んだ。
トロルに負わされた傷以外、
おかしな点はない。
これで完全に目が覚めた。
頭の中で、記憶の断片をつなぎ合わせる。
悠月を追って、樹海へ踏み込んだ。
そこでトロルの一撃を受け、
体は吹き飛ばされた。
……あの瞬間、死を覚悟した。
けれど、
意識が遠のく直前の光景だけは、
はっきり残っている。
――トロルが、
誰かの一閃で、真っ二つに裂けるのを。
私……まだ生きてる……
「……悠月……」
思考を整理し、
彼の名を口にした瞬間、
喉が震え、
堪えていた涙が静かに頬を伝った。
……生きてる――。
※ ※ ※
しばらくして、感情も落ち着き、
呼吸もようやく整ってきた。
……まずは状況を把握しないと。
ここは、
仮設の待合所みたいに簡素だ。
けれど、
人が暮らした痕跡が残っている。
樹海の中に、誰かがこんな小屋を……?
隅には剣がいくつも積まれていた。
一番上には――私の剣。
まだ力の戻らない体を起こし、
手を伸ばそうとしたその時。
外から、足音。
心臓が跳ねて、
反射的に剣を抱きしめる。
指先が冷たくなった。
「よっ? やっぱり目ぇ覚ましたか」
軽い声とともに現れたのは、
無精ひげの大柄な男だ。
乱れた濃紺の長髪を、
布でざっくり後ろに束ね、
三十代か、いや……四十代にも見える。
……この人が。
トロルを一刀で両断した――あの男?
けれど、この姿は……
警戒心を――さらに強くさせた。
「そんなに構えなくていいって。」
彼は何かをひょいと投げた。
思わず肩が跳ね、
反射的に手で受け止める。
「……焼いた肉、か。」
掌の上には、こんがりと焼けた肉。
まだ湯気を立て、脂が滴り、
香ばしい匂いが、一気に広がる。
「そうそう。まずは食えよ。
二日も寝てたんだからな。
喉が渇いたら、
ほら、横に水瓶がある。」
指さす先に視線を移すと、確かに水瓶。
光を受けて、
中の水面がかすかに揺れていた。
喉は焼けるように乾き、
空腹で胃もきしんでいる。
……だが、軽々しくは動けない。
これが本当に善意なのか――それとも罠か。
声を漏らした覚えはない。
なのに、目を覚ました瞬間を言い当てた。
……スキル?
それとも、ずっと私を見張っていた……?
「へいへい、力抜けって。
もしお前を害する気なら、
助けてここまで
連れて来たりしねぇよ。」
……確かに。
体を調べた時、服はそのまま。
汗も汚れも手つかずだった。
手の中の焼いた肉をじっと見ていると、
また声が飛んでくる。
「本気で何かしたいなら、
とっくにやってる。
わかるだろ? 俺は何もしてない。
毒もなけりゃ、水だって清潔だ。
さっさと食えよ。」
「……あなたが、助けてくれたの?」
「ん? ああ、そうだよ。
それがどうした?」
顔を見て、やり取りを重ねて――
やっと実感する。
私は、まだ生きている。
目頭が熱くなり、涙がまたこぼれ落ちた。
「……助けて、くれて……」
もう少しで……
悠月に会う機会を、
完全に失うところだった。
感情が抑えきれず、
肉を両手で抱きしめるように持つ。
……小さく震えて、頭を下げた。
「お、おいおい?
ただの焼いた肉だぞ?
そんな感動することかよ?」
軽い口調のままの男に、
少しだけ肩の力が抜けた。
「……ここは、どこ?」
「お? ここは樹海の中層だな。
俺が適当に組んだ草小屋さ。
家なんて呼んだら笑われるぜ。
馬小屋以下のボロだ。
ベッドが硬かったらすまんな~」
やっぱり、彼の拠点か……。
でも、樹海で小屋を建てるなんて。
ここは魔物だらけなのに……どうして。
「……あのトロル、斬ったのはあなた?」
「ん? ああ、あれか。
ただの雑魚だろ。
お前がぶっ潰されそうだったから、
ついでに切っただけさ。
それより、お前だって……
トロル一体で死にかけるとはな。
小娘が一人で樹海に何しに来た?」
「……人を、探してる。」
「樹海で? 探す?
ここにいるのは魔物ばっかだぞ。
奥には確かに
エルフの部族がいるらしいが、
その先は霧に覆われてて、
誰も辿り着けねぇ。
……まさか、
エルフを探しに
行くつもりじゃないだろうな?」
「……違う。
ただ……通り抜けたいだけ。」
「通り抜ける? 樹海を?
頭どうかしてんのか?
普通に定期馬車に乗れば済むだろ。」
答えられなくて、
うつむいたまま黙り込む。
再び顔を上げた時、
彼の表情が変わっていた。
軽さが消え――
視線が、まっすぐ私の頭に落ちる。
「……とにかくだ。
肉は早く食え。冷めたら旨くねぇぞ?」
一瞬だけ見えた鋭さ。
見間違いじゃない。
でも、次の瞬間には、
また軽薄な調子に戻っていた。
……この男、信じていいのか……?
「はぁ……
頭の中ぐちゃぐちゃだろ?
もう泣くなって。
報酬なんて取らねぇよ。
あ、あと勘違いすんなよ?
俺は小娘に惚れる趣味はねぇからな。」
「……え?」
……何を言ってるんだ、この人。
話題の飛び方が意味不明。
でも、
ここが危険だってわかってるのに、
それでも樹海で暮らしてる。
……どうして?
「……じゃあ、どうしてここに?
わざわざ小屋まで作って……」
罪人?
……そうは見えない。
実力からして、修行か何か……?
「おう!
それはもちろん、エルフのためだ!」
「……は?」
「エルフだよ! 知らねぇのか?
綺麗で、可愛くて、
活発なのもいれば優雅なのもいる。
一番すげぇのは長寿!
いつまでも若い!
だからここで出会いを待ってんだよ!
俺の夢は――エルフ嫁をもらうこと!」
身振り手振りで、まくしたてる。
私は数秒、呆然とした。
……冗談に見えない。
そのために樹海に住むなんて――ただの……
「……変態。」
気づけば、口から漏れていた。
「なんだその目! やめろって~。
エルフ嫁は全男の夢だぞ!?
お前にはわからん!
とにかく俺は小娘に興味ねぇ!
さっさと食え!」
そう言い捨てて、
そいつ――いや、この変態は、
振り返りもせず出ていった。
……静かになった。
私は手の中の温かい肉を見つめた。
そっとひと口かじり、
ゆっくりと噛みしめる。
塩気と香ばしさが
口いっぱいに広がって――
生き延びた実感といっしょに、
胸の奥へ込み上げてきた。
「……悠月……よかった……
まだ生きてる……まだ、会える……」
胸がぎゅっと締めつけられる。
肉はまだ湯気を立てているのに、
握る手は止まらず震える。
もう堪えられない。
涙が――
静かにこぼれ落ちた。
※ ※ ※
腹を満たし、水も補った。
服についた土を払って、
布で体の汚れを拭き取り、
ついでに顔と髪も洗った。
腰に剣を戻し、布袋の中身を確かめる。
荷物は全部そのまま――
触られた形跡もない。
安心して背負い、紐をきゅっと締めた。
「……行かないと。」
深く息を吸い込み、草小屋を出る。
少し離れた岩の上で、
あの変態が寝転んだまま、
こちらを斜めに見ていた。
「お? もう行くのか?」
「……うん。」
「頭イカれてんのか?
やっと死にかけから助かったのに、
今度はまた死にに行く気?」
言い返せなかった。
でも――
ここに留まるわけにはいかない。
「……私は、進みたい。」
答えた瞬間、彼はしばらく黙り、
それから岩の上からひらりと飛び降りて、
目の前に立つ。
「おいおい……
せっかく助けてやったのに、
また死にに行かれちゃ、
俺の苦労がパーだろ。
……命が有り余ってんのか?」
……それでも、足はもう止まらない。
どうすれば――。
脳裏に、あの剣閃がよぎった。
現実を思い出す。
「……あなた、強いんでしょ?
剣を……教えてくれない?」
顔を上げてそう頼むと、
彼は気持ち悪いような、
ふざけた顔をした。
「お~、つまり強くなって、
自分で樹海を抜けたいってことか?
いいぜ、ちょっと付き合ってやるよ。
……ただし、もしエルフを見つけたら――
俺は絶対、そっちを優先するけどな?」
「…………」
……やっぱり、変態だ。
※ ※ ※
どれくらい時間が経ったのか、
何度、剣を振ったのかもわからない。
耳に残るのは、葉の擦れる音と、
自分の荒い息だけ。
汗で視界は滲み、
衣服はもうびしょ濡れ。
呼吸は乱れ、両手は痺れて、
足取りはふらつき、
今にも倒れそうだった。
……どうして?
リア姉さんに教わった技術、
全部使った。出し惜しみなんてない。
振るう一太刀ごとに、
想像どおりに――むしろ鋭さを増して、
体に馴染んでいく。
それでも――通じない。
あの男は足さえ動かさず、
構えすらとらず、
片手の剣だけで私を封じ込めていた。
「……強すぎる。」
「これが剣術?つまらねぇな……
オークのほうがまだマシだぞ?」
わかってる。
だからこそ――強くならなきゃ。
その言葉を聞いた瞬間、
再び踏み込み、ためらいなく剣を振った。
全身の力を注ぎ込み、
一撃、また一撃と重ねる。
相手が現実離れした怪物だからこそ、
出し切れる。
どうせ、
すべて受け止められるはずだ――
この男になら。
構わない。これでいい。
私の剣なんて、まだ稚拙だ。
本物のオークに当たれば、必ず負ける。
なら――
この怪物を、練習台にすればいい。
勢いよく踏み込み、懐へ潜る。
身を沈め、剣を下から斜めに振り上げた。
金属音が弾ける。
彼は手首をわずかに返しただけで、
私の斬撃は力を
抜かれるように逸らされた。
すぐさま後ろへ跳び、泥を蹴り上げる。
剣先を彼の胸に向けて、
真っ直ぐ突き込む。
だが、
剣身がわずかに傾けられただけで――
まるで落ち葉を払うみたいに、
軌道を逸らされる。
歯を食いしばり、反転して横薙ぎ。
刃が届く前に――
彼の剣は、もうそこにあった。
待ち構えていたかのように、構えていた。
……強すぎる。
まるで相手にならない。
それでも――だからこそ、
胸の奥で火が燃えるみたいに、
闘志が膨らんでいった。
「おいおい、足の置き方ずれてるぞ。」
「そんなガラ空きで
真っ直ぐ振るなって。」
「死角に潜るのは悪くないけど……
遅ぇな。
腰を回せ、体ごと捻り上げろ。
そうすりゃ速くなる。」
刃と刃が何度も弾け合い、
乾いた金属音が林に響く。
彼は受け流しながら、
軽く茶化すように口を挟む。
調子は軽い。
……けど、耳を澄ませば全部的確だ。
――あれは揶揄じゃない。助言だ。
歯を食いしばり、その通りに修正する。
足はぶれず、剣筋は鋭く。
呼吸も乱れず、自然に整っていく。
振り下ろす一撃一撃に、
やっと全力を乗せられた。
待ってて……悠月。
必ず追いつく。すぐに会いに行く。
全身の力を剣に込め、
呼吸と鼓動が
リズムに合わせて速まっていく。
周囲の音は遠ざかり、
耳に残るのは剣が空を裂く音だけ。
泥を踏みしめる足ごとに、
重みだけが体にのしかかる。
思考をすべて一つの目標へ圧縮する。
――ただ、振り続けること。
だが、集中の極みにいたとき。
異変に気づいた。
あの男は、相変わらず――
片手で受け流していた。
でも……顔つきが、変わった。
軽薄な態度は、跡形もない。
代わりに浮かんだのは、
掴みきれない笑み。
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
空気が――いきなり冷え込んだ気がした。
鋭い視線がまっすぐ突き刺さる。
心臓がぎゅっと縮み、呼吸が止まる。
ふざけは一切なく――そこにあるのは、
重さを孕んだ――意味の読めない期待。
全身が固まり、
握った剣がわずかに震えた。
……この男、目の奥で――
いったい何を見ている?




