第20話 辿る河、揺るがぬ証
夜、ギルドの共用寝室で、
出された温かい食事を口に運ぶ。
ここ数日の逃避行と狩り、
長く揺られた馬車の旅。
ようやくまともに食べ、
休める時間が来る。
全身の力が――
少しずつ、抜けていく。
洗面所で濡れた髪を撫でる。
リアさん、言ってたな。
黒髪は珍しいけど、いるって。
悠月も……笑ってた。
「長い髪の子が好きだ」って。
指先が毛先をすべり、
染めない、切らない……そう決めた。
朝は野兎を追い、昼は霧狼を待ち伏せし、
夜になってようやく、
疲れを抱えてギルドの共用寝室へ戻る。
――そんな日々を繰り返した。
一度の対峙で、あの冒険者の姉さん――
リアさんの動きを、無意識に真似ていた。
斬り込む角度、
地面をかすめる足運び、迷いのない一撃。
斬撃のたび……刃が空を裂いて低く唸り、
次の動きへと、すっと繋がっていく。
霧狼の爪が肩すれすれを掠め、
布地が裂けた。
反転しざま、
光のように一閃――消える影。
汗が頬を伝い、胸が熱で脈打つ。
空を切る刃の感触は、
少しずつ鋭さを増していた。
※ ※ ※
ギルド受付のカウンターに歩み寄り、
野兎や霧狼の毛皮、
魔石を一つずつ並べる。
受付の兄さんが顔を上げた瞬間、
思わず目を止めた。
鼻梁の眼鏡が、
灯りを受けて懐かしい光を返していた。
形は違っても、金属の枠線と反射が、
一瞬だけ心を安らげる。
――この世界にも……眼鏡、あるんだ……。
私の眼鏡は、
悠月と一緒に選びに行ったもの。
彼が選んでくれた形を掛けていると、
まだそばにいるような気がする。
報酬を受け取り、隅の席に腰を下ろす。
眼鏡拭きを取り出し、
慎重にレンズを磨く。
透き通るまで拭き上げて耳に掛け、
その重みを確かめる。
――この重みが教えてくれる。
悠月は、まだ生きている。
※ ※ ※
それからしばらくして――
ある日、街でリアさんと出くわした。
腕いっぱいに果物を抱え、
気負いのない笑顔。
そのまま――
市場を案内してくれると言い出した。
屋台がずらりと並び、
果物の甘酸っぱさと……
焼き立ての肉串の匂いが混ざり、
熱気がむわっと空中を渦巻いている。
リアさんは歩きながら、
顔なじみらしい商人たちに、
次々と声をかける。
まるで自分の家みたいな馴染み方だ。
振り返って私に好物を尋ね、
しまいには、小さく切った焼き肉を、
そのまま手に押し込んできた。
……口元が緩むのを、必死で抑える。
こんな空気、ずいぶん久しぶりだ。
――そのとき、ふと視界に入った。
豪奢な服を着て、
腰に獣皮袋を提げた男。
岩淵さんが話していた奴隷商人に、
あまりにもよく似ている。
心臓が一瞬で強く締まり、
耳の奥で血が鳴る。
指先が勝手に刀の柄を探っていた。
……だが、
その男の目には冷たさも欲もない。
代わりに、どこか柔らかい色があった。
私を上から下まで見た後、
はっとしたように視線を逸らし、
微笑んで言う。
「悪いね、お嬢ちゃん。
ずっと見ちゃって。
君は……黒髪の民族の末裔かい?
いやあ……何年も見てなかったよ。
これ、お詫びに菓子でもどうだい?」
その声が胸を打ち――
そこで初めて、
自分が息を詰め、
肩を強張らせていたことに気づく。
リアさんは私の反応を逃さず、
安心させるように視線を向け、
静かに言った。
「大丈夫、私がいる」
言葉を返す間もなく、
リアさんは肩を軽く叩き、
「行こう」と低く告げ、
私を人混みから連れ出した。
※ ※ ※
数日後、登録料がようやく貯まった。
――「リュカ」。迷わずペンを走らせる。
前の町のギルドで聞いたが、
登録時の名前は自由に書けるらしい。
偽名……もし彼なら、きっとそうする。
本名は目立つし、疑いを招く。
だからずっと考えていた。
悠月なら、どんな偽名にするだろう。
「ユニ」――それだけは外さないはず。
翠がそう呼んでいた、大切な音。
彼が一番切りたくないもの。
……じゃあ後ろは?「ユニ○ン」?
だめだ。
口にした瞬間、
機械の展開音が頭に流れる。
あの人なら、恥ずかしさで――
顔をしかめるだろう。
これは却下。
「ユニク」――
短くて切れ味はいいけれど、
あまりに短く、
彼が名付けるときの収まりがない。
保留にはするが、第一候補じゃない。
……残るのはひとつ。
「ユニクス」
音のバランスがよく、
派手すぎず、「ユニ」を自然に隠せる。
……たぶん……これこそ、
彼が選ぶ偽名だ。
――じゃあ、私の名は……「リュカ」。
誰にも見えない机の下で、
手のひらがほんのわずかに
握り締められた。
※ ※ ※
町を離れる最終日、
再びリアさんと市場を歩き、
旅に必要な物を尋ねた。
「道中、気をつけてね。
困ったら必ず休むこと。
一人旅は、思ったより疲れるから。」
笑顔でそう言うと、
彼女の姿は人波に紛れて消えた。
樹海の方角の空気を深く吸い込む。
湿った土の匂いが、
別の世界への入口のように感じられる。
背後には安全な街並み、
前方には未知の森。
――待ってて。
心の中で小さくそう呟き、
一歩を踏み出した。
町を出てからは、
ほとんど振り返らなかった。
自分の変化はよく分かっている。
呼吸は安定し、走っても胸の痛みはなく、
膝をついても素早く立ち上がれる。
剣の重みは、もはや鉄塊ではなく、
体の一部のようだ。
手は自然に角度を探し、
足は自然に均衡を取る。
毎日の朝夕の鍛錬、
そして頭の中で何度も繰り返した、
あの姉さんの動き。
体が同じ言葉を話せるようになるまで。
納刀時は刃先をわずかに下げ、
血を自然に落とす。
回避のときは全身を引かず、
急所だけを相手の軌道から外す。
振る前に息を吸わない――
肩が上がり、一拍遅れるから。
彼女が言っていたことを、
全部覚えている。
季節は蒸し暑くなり、
額の髪が汗に貼りつく。
後ろへ払おうとした指が、
耳元のフレームに触れるたび――
一瞬だけ心が静まる。
午後、暑さがやわらぐ頃、
林縁に足を踏み入れる。
ここにいる霧狼は、平原のよりも獰猛だ。
一頭目が低く唸ったとき、
私は退かず、一歩踏み込む。
予想外だったのか、
頸の側面に隙ができ、
刃が毛並みに沿って滑り込む。
感触は鋭く、迷いがない。
……誇る暇もなく。
二頭目の影が横から飛びかかる。
重心を後ろに、踵で地を軽く蹴り、
肩を左に沈める――
牙は衣の端をかすめ、すっとかわす。
納刀――再び間合いへ。
そして締める。
練習で幾度も描いた円の通りに。
血の匂いを含んだ風が林道を抜ける。
顔を拭い、舌に塩味を感じた。
まだ息は乱れていない。
手も震えていない。
……だから。
小物は狩らない。
体力は、狼と猪に残す。
猪は藪から突進するときは速いが、
方向転換は鈍い。
道を空けてから、
長剣で脇腹を突けば簡単に仕留められる。
戦い方が、少しずつ分かってきた。
日が沈む前、
爪痕で木肌が削れた林に迷い込む。
鼻腔に濃い鉄臭が広がる。
足音を軽くし、痕を辿ると――闇の穴。
熊の巣だった。
無理にでも倒せば、
しばらく食料に困らない。
夜は巣を使って休める。
刀の柄を握り、呼吸を整え、
低く身を沈めて近づく。
想像よりも大きく、
肩背は動く壁のようだ。
初撃の爪が胸をかすめ、
体ごと横へ弾かれる。
背中を泥に打ちつけ、肺が塞がる。
耳の奥が鳴る中、
慌てず重心を探し、地を蹴る。
力では勝てない。
頼れるのは、間と呼吸。
鼻から白い熱気を吐き、
再び突進してくる。
中線を外し、刀身で力を滑らせる。
前脚が落ちた瞬間――
肋に斜めに突き立てた。
何度も繰り返すうちに、
熊の息は乱れ、私の脚も重くなる。
最後は、突進に合わせて背後の幹を蹴り、
熊の上方を飛び越え。
その後頸に長剣を押し込んだ。
数秒間……
世界は、心臓の音だけになった。
やがて、葉のざわめきが戻ってきた。
熊肉と魔石を処理し、刀を洗う。
水面に触れた指先が微かに震える。
錯覚じゃない。
頭の中で、
さっきの戦いがまだ回っている。
……まだ荒い。
でも、確かに成長は感じられる。
※ ※ ※
ついに――
私たちが使っていたキャンプに
辿り着いた。
前に離れた時と、
ほとんど変わっていない。
けれど、
あの時は細かく探す時間がなかった。
今回は……
何か見つけられるかもしれない。
周囲を歩き回り、目を凝らす。
そして、重要な事実に気づいた。
売れる魔石が、
全部なくなっている。
……誰かが来た?
すぐに
悠月が作った簡易シャワーへ向かう。
そこにあるはずの、
シャワー用の霧狼の魔石も、
跡形もない。
これで確信した。
事件のあと、彼は戻ってきた。
そして使える物、
持てる物を――すべて持ち去った。
――生きている……
そして、
生き延びる気持ちを、
まだ捨てていない。
胸の奥が熱くなる。
それを息と一緒に押し下げ、
長く吐き出す。
まだ前にいるのなら、
私も歩みを速めるだけだ。
※ ※ ※
川沿いを走りながら、
途中で
ドリルラビットに何度か出くわしたが、
相手にしている暇はない。
二時間ほど経った頃、
森の空気が変わった。
まるで呼吸をやめたかのような、
不自然な静けさ。
魔物の気配が、一斉に消えていた。
足を止め、右手側の林を探る。
次の瞬間――
茂みが裂け、湿った息を吐きながら
黒塊が飛び出してきた。
剣を横に構えるのがやっとで、
そのまま巨大な重みが体を弾き飛ばす。
背中が幹に叩きつけられ、
胸が岩に押し潰されたように苦しい。
視界の端が白く霞み、耳に耳鳴りが響く。
ゆっくりと――姿を現した影。
ミシミシ……バキッ。
幹が裂け、
無理やり押し分けられていく。
地面がわずかに震え、
足元の土がざらざらと崩れ落ちた。
その口から、
濁った呼気が吐き出された。
獣臭と血の匂いが混ざり、
熱気となって肌を撫でる。
オークではない。
それよりも高く……巨大で……
知っている。
――トロル
意識が水底に沈むように遠のき、
咳き込むと血の味が広がった。
恐怖すら薄れ、力が抜けていく。
直感が告げる――終わった、と。
もし、
もう一度だけ彼に会えるなら……。
闇が視界を覆い、呼吸も心音も遠のく。
その瞬間、
横合いから細い閃光が走った。
空気が裂ける音が、一拍遅れて耳に届く。
トロルの体が上下に割れ、
そのまま地面に崩れ落ちた。
血の滴る剣を握った背中が見える。
言葉はなく、振り返りもしない。
顔を見ようとした。
……けれど、まぶたが鉛のように重い。
世界が急に遠ざかり、
音は厚い布越しのようにぼやける。
足音が近づき、私のそばで止まった。
そして……何も聞こえなくなった。




