《幕間:岩淵綾香──初めての嘘》
「これ、あげる。気をつけてね」
──あれが、はじめてだった。
自分がまだ生きていると感じたのは。
私は、あまり話さない。
というより、話す必要がない。
もっと正確に言うと、
話しちゃいけない気がしていた。
物心ついたときから、
ほとんど口を開いたことがない。
だって──誰も、
私に話しかけてこなかったから。
私の生活圏はとても狭い。
でも、それもちょっと違う。
だって私の生活圏は、
二つしかなかったから。
家と、学校。
でもあそこは、
本当に「家」と呼べる場所だったのかな?
……わからない。
学校の教科書には、
毎日帰る場所を「家」と呼ぶとある。
でも、私が帰る場所は、
教科書の「家」とはまるで違っていた。
「家」って、なんだろう?
学校ではこう教わった──
「家」とは、いちばん安心できる場所。
一人暮らしの子もいれば、
おじいちゃんやおばあちゃんと
暮らす子もいる。
人それぞれ、いろんな「家」があるって。
アンケートには、こういう質問がある──
あなたの「家」には誰がいますか?
「家」で何をしますか?
「家」でいちばん楽しい時間は
どんなときですか?
「家」とは、ただの居場所ではなくて、
いちばん好きな人たちと暮らす、
大切な場所──だって。
──私は、それが理解できなかった。
定義上、
私が帰っていた場所は「家」だった。
でも、安心なんてしたことなかったし、
楽しいと感じたことも一度もない。
そこでは何もせず、何もしなくてよくて、
ただ静かに、座っているだけだった。
そして、
夜になったら布団をかぶって、
目を閉じる。
「好きな人と暮らす」って、
どういう意味なのか、
私にはわからなかった。
お母さんは、「大切」な人なのかな?
「大切」って、どういう意味?
わからない。
誰も教えてくれなかった。
※ ※ ※
私はお父さんがいない。
生まれたときから、いなかった。
……いや、いるのかもしれない。
保健体育で教わった。
人間は、そうやって生まれるって。
お母さんは、家には帰ってくる。
でも、お父さんを見たことは一度もない。
お母さんは何も言わなかったし、
私も何も聞かなかった。
生まれたあと、
私は何をすればよかったんだろう?
誰も教えてくれなかった。
お母さんが私に話しかけてくることは、
ほとんどなかった。
本当に、ほとんどない。
もし話しかけられても、
それは決まってこうだった。
「なんでまだここにいるの?」
何度もそう言われた。
私も、何度も考えた。
でも今でも、答えはわからない。
私は、なぜここにいるの?
家では毎日、何もせずに過ごしていた。
ただ座って、
夜になるのを待って、
寝るだけ。
私が食べるご飯は、
いつもお母さんが食べ残したものだった。
テーブルに少しだけ残った食べ物。
お腹が空いたら、それを自分で食べる。
たまに、
お母さんが男の人を連れて帰ってくる。
部屋で食べたり、飲んだり、笑ったりして
──そういうことをする。
私はいつも隅で、黙って座っている。
朝になると、
その人たちは笑って帰っていく。
もしテーブルに料理が残っていたら、
それが私の朝ごはんになる。
そして、時間を見て、学校に行く。
※ ※ ※
学校では、よくいじめられていた。
でも、理由はわからなかった。
教科書には
「いじめはいけないこと」って
書いてある。
じゃあ、
どうして彼らはそんなことをするの?
どうして、私なの?
……わからない。
ほんとうに、何もわからなかった。
そのうち、いじめられなくなった。
誰からも、話しかけられなくなった。
みんな、私のことを「変だ」って言った。
どこが変なの?
教えてくれなきゃ、わかるはずがない。
……もしかしたら、
わかってたのかもしれない。
だって、教科書にもこう書いてあった──
「お父さんがいない子は、ちょっと変」
でも、私はお父さんがいる。
……誰かは知らないけど。
「お母さんがいない子は、かわいそう」
私はお母さんがいる。
ただ、誰も聞いてこなかっただけ。
私自身も知らないことを、
どうして他人に説明できるの?
「なんで学校に来るの?」って
聞かれたこともある。
……義務教育でしょ? 知らないの?
結局、みんなが私に聞いてくるのは、
私には答えられないことばかりだった。
だから私は、話すのをやめた。
そして最後には、
誰も私に話しかけなくなった。
※ ※ ※
中学生になって、
お母さんはようやく別の質問をしてきた。
その質問には、ちゃんと答えられた。
「……テーブルのごはんを食べるため。」
私は真面目に、そう答えた。
お母さんは、それきり何も言わなかった。
……この答えは、正しかったのかな。
会話は、それで終わってしまった。
私は、自分がまだちゃんと
喋れることを確認した。
ただ……たぶん、
お母さんには伝わらなかった。
それから先、
お母さんが私に話しかけてくることは、
もう二度となかった。
※ ※ ※
中学の試験期間中も、
私はいつものように
部屋の隅で本を読んでいた。
学校では、
「勉強すればいい成績がとれる」と
教わった。
それが何の役に立つのかは、
よくわからなかった。
それでも、毎日ページをめくっていた。
そのとき、お母さんが口を開いた。
「……なんで、まだ生きてるの?」
私は少し考えて、答えた。
「ごはん食べて、水飲んでるから。」
お母さんは目を見開いたまま、
何も言わずに家を出ていった。
私はまた、ずっと考えていた。
今度の答えも、間違っていたの?
どうして?
その日から、
あの言葉を何度も、何度も、
頭の中で繰り返した。
──どうして私は、生きてるんだろう。
どうして、私はまだ生きてるんだろう。
※ ※ ※
高校に入ってから、ようやく少しだけ、
お母さんの意図がわかった気がした。
きっと彼女が聞きたかったのは──
「どうして、
まだこの世界にいるの?」ってこと。
……でも、それでも私はわからなかった。
学校では、
「人生には目標が必要だ」と教わった。
目標がある人だけが、
「本当に生きてる」と言えるらしい。
でも、私は目標なんて持ってない。
なくても、私はこうして生きてる。
それって……ダメ、なのかな。
他の人にも聞いてみた。もしかしたら、
何か知ってるかもしれないと思って。
「……そんなの、俺が知るわけないじゃん」
……そっか。
やっぱり、誰もわからないんだ。
私が、どうして生きてるのか。
※ ※ ※
そんな私が、
はじめて答えを見つけたのは、
あの日だった。
放課後、雨が降り始めた。
それも、どんどん強くなっていく。
下校のチャイムが鳴り、
私はいつものように学校を
出ようとしたとき──
ひとりの男子が、私を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って!
外、めっちゃ雨降ってるよ!?
傘は?」
「持ってない。」
「持ってないって……それで帰るの?
びしょ濡れになるよ?」
「わかってる。」
「わかってるなら、
先生に傘借りるとか……」
「傘がなくても、帰れる。」
「……君、女の子でしょ?
雨に濡れたらダメだよ!」
「女の子は、雨に濡れちゃいけないの?」
「そ、そうだよ!」
「どうして?」
「えっと……服が透けるとか……?」
「それで?」
「と、とにかくさっ!」
「……うん?」
「これ、あげる。気をつけてね」
彼は私の手に傘を押し付けて、
私が何も言う前に、
雨の中へ走っていった。
──どうして、私に傘をくれたんだろう?
家に帰ると、
お母さんが雨を嫌がりながら
靴を脱いでいた。
「玄関の傘、誰のよ?」
「学校の同級生にもらった。」
私は、そのまま答えた。
お母さんは私の顔を見て、こう言った。
「へぇ、
あんたみたいなのでも、
好かれることあるんだね」
──好かれる?
あの男の子が、私のことを?
だから、傘をくれたの?
私は何も聞かなかったし、
返しもしなかった。
だって、
どうやって言葉を伝えればいいか、
教わったことがなかったから。
※ ※ ※
なぜか、私は異世界に来ていた。
クラスメイトも一緒だった。
みんな忙しそうに動いていたけど、
私は何をすればいいのかわからなかった。
だから、
今までと同じように──隅に座っていた。
ある日、彼が声をかけてくれた。
「岩淵、お肉と果物も食べなよ。
食べないとお腹空くよ?」
たしかに、私はお腹が空いていた。
でも──
なんで、彼はそれを知ってるの?
どうして、私に食べ物をくれるの?
『あんたみたいなのでも、
好かれることあるんだね』
ああ……そうか、
これが「好き」ってこと、なのかな。
だから、私はもらった。
数日後、
彼と何人かのクラスメイトは出発した。
私はまた、隅に座っていた。
お腹が空いたら、
何か食べられそうなものを探した。
そして──知らない大人たちが現れた。
彼らが何をしていたのか、
私はわかっていた。
でも、誰も私のことを見ていなかった。
そのあと、みんながいなくなった。
残されたのは、私ひとりだけ。
※ ※ ※
しばらくして、彼らが戻ってきた。
「岩淵!?」
久しぶりに聞いたその声。
なんだか、胸の奥がふわっとした。
これって、「嬉しい」ってこと?
「何があったの!? みんなどこ?」
「……枯川が裏切った。
みんな、奴隷商人に連れていかれた」
私は、見たことをそのまま伝えた。
「綾香!
月は!? 月はどうなったの!?」
月って、夜見悠月のこと?
本当のことを言ったら、
彼女はきっと、彼を探しに行こうとする。
それは、危険すぎる。
私のことを好きになった人は、
死んでしまう。
昔、教わったことがある。
「自分のことを好きになってくれる人は、
大事にしなきゃいけない」
私は、それを覚えていた。
だから、私はこう言った。
「……彼は、殺されたよ」
それは──嘘だった。
教科書には、
「嘘をついてはいけません」
と書かれていた。
でも、同じ教科書には、
「好きでいてくれる人は、
大事にして、守らなきゃいけない」
とも書いてあった。
守るためなら──
嘘をついても、
いいんじゃないかって、
思った。
これが、私にとって初めての嘘だった。
私は普段、あまり話さない。
だから、
今まで嘘をつく機会なんてなかった。
一度も、嘘をついたことなんてなかった。
……今日、までは。




