1
無数のシャンデリアが、天井から光の雨を降らせるように輝いている。
その煌びやかな空間に、優雅な音楽が響き渡っていた。
パートナーチェンジの合図が鳴った。公爵令嬢エレーヌは、その音に合わせて、優雅な所作で婚約者である王太子レオニスの手を離し、上品な一礼を送った。
「レオのダンスは踊りやすいわ」
「君こそ、完璧なステップだった」
交わされる言葉は短くても、そこには互いを知り尽くした間柄ならではの安心感があった。形式に倣い、彼らは次のダンスパートナーを探して歩き出す。
舞踏会では、一曲ごとに相手が入れ替わるのが常。それは貴族社会の一種の社交であり、そして何より習慣だった。
エレーヌにとっては、もう何度も繰り返されてきた動作だった。特に意味を持たせることもなく、ただ優雅に、淀みなく身を任せていればいい――はずだった。
けれど、何の気なしに振り返った瞬間、視線の先にいた人物が、ほんの少しだけ彼女の胸を締め付けた。
レオニスの新たなパートナーは、リュミエール子爵令嬢マリアンヌ。燃えるような緋のドレスを纏っている。その存在感は、他の誰よりも際立っていて、笑い声一つとっても、場の空気を動かしてしまうような響きがあった。
そして――レオニスが、彼女に向けて笑っていた。
肩の力がすっかり抜けた、あどけなさすら感じさせる素の表情。エレーヌもよく知っている、少年の頃から変わらない、心から楽しんでいるときにだけ浮かべる笑顔だ。
だが、その笑顔を、自分はいつから見ていなかっただろう。
胸の奥に、冷たい水滴がぽたりと落ちたような感覚がよぎる。得体のしれない不安。それは、嫉妬とも、寂しさともつかない、複雑な感情だった。
だがエレーヌは、それを顔には出さない。表情は変えず、踵を返し、すぐに次の舞踏へと意識を切り替える。微笑みを浮かべたまま、その不安には蓋をする。
王太子の婚約者とは、そういうものだ。品位を重んじ、感情を表に出してはならない。疑念や嫉妬などという感情は、表に出せばそれだけで噂になる。
だから、彼女は何も言わない。
たとえレオニスの笑顔が、自分の知らない誰かに向けられたものだったとしても。
差し出された手に優雅に応じ、エレーヌはもう一度、舞踏の流れへと身を委ねる。完璧な令嬢の微笑みを浮かべて。
音楽に合わせて舞うたびに、心の奥底に出来た小さな影が、静かに形を持ちはじめていた。
◇
初夏の陽光が、石造りの回廊に淡い光を落としていた。
貴族学園の中庭は、今日も穏やかで、平和だった。
遠くから聞こえてくる笑い声に、エレーヌはふと足を止めた。
レオニスが、マリアンヌと話している。
並んで座っていたわけではない。
ほんの数歩の距離を保ちつつ、冗談を言い合いながら歩いているだけ。
それでも、互いの視線は自然と交わり、肩の力が抜けたその雰囲気に、周囲の視線が引き寄せられていた。
「また一緒にいたわね」
「この前も、書庫でふたりだけだったんですって」
背後から囁くような声。
振り返らずとも、言葉の矛先がどこに向いているのかはわかっている。
エレーヌは微笑みを浮かべたまま、歩を進めた。
心のどこかに、少しだけ居心地の悪さが残る。
けれど、彼女は自分に言い聞かせる。
せっかくの学生生活なのだ。
女の子と談笑するくらい、何もおかしくはない。
彼が楽しそうにしているなら、それはむしろ良いことではないか。
そう、彼女は思っていた。
ただ、その“余裕”が、周囲の少女たちを苛立たせているとは、気づいていなかった。
そして、マリアンヌの取り巻きたちは、彼女の微笑みに仮面のようなものを感じていた。
あんなに完璧で、あんなに何でもわかっているような顔をして、
本当は、どう思っているのか。
そんなふうに、息を潜めて探るような視線が、いつしかエレーヌの背後にまとわりつくようになっていた。
それでも、彼女は態度を変えない。
何も気づかないふりをして、優雅に、静かに、微笑みを浮かべながら。
◇
最近、学園内の空気が少しずつ変わってきている。
ふとした瞬間、廊下の隅や食堂の片隅で、女生徒たちが何かを囁き合っているのが目に入るようになった。
視線を感じることもある。それも、あからさまな敵意ではなく、どこか浮き足だった熱を孕んだもの。
(あの子たち、またマリアンヌ様の話をしているのね)
マリアンヌ・リュミエール。子爵家の令嬢。
身分こそ高くないが、よく笑い、よく喋り、周囲を楽しませるのがうまい子だ。
そして今、王太子殿下と親しげに会話を交わす姿が、少しずつ噂になってきていた。
「ねえ、もし王太子殿下がマリアンヌ様を選んだら、私たちも一緒に宮廷舞踏会に行けるかしら」
「きっと行けるわよ。だって、マリアンヌ様は私たちとずっと仲良しだもの」
「そうなったら、私たち、社交界の華になれるかもよ」と言いながら、彼女たちはきゃっきゃとはゃいでいる。
「マリアンヌ様はエレーヌ様みたいに遠い存在じゃないわ」
「そうよね。エレーヌ様は私たちとは別の世界の人間って気がするのよ。話しかける隙もないし」
「わかるわ。いくら仲良くしたくても、あれだけ上の家の方だと、気安く話しかけることすらできないし」
まるで、自分たちの夢を語るように。
ほんの少し現実味を帯び始めた“可能性”を、彼女たちは楽しげに囁き合っていた。
(夢を見ているのね)
かつては、彼女たちもエレーヌに取り入ろうとしていた。
けれど、あまりに完璧な存在には、彼女たちが入り込む余地がない。
エレーヌと仲良くなることは、下位貴族の自分たちには無理なのだと、早々に見限っていた。
けれど、マリアンヌなら違う。
彼女なら、彼女たちと同じ土俵にいる。
そして、彼女が“王妃”になれば、自分たちもその光の恩恵にあずかれる。
そんな幻想を抱きはじめた取り巻きたちは、自然とマリアンヌを担ぎ始めた。
ほんの少しの言葉を過剰に肯定し、無邪気な笑顔に歓声を上げる。
ごく当たり前の発言を「やっぱりマリアンヌさまって素敵」と褒めそやす。
そうして少女たちは、自分たちの“夢”を育てていった。
本当に叶うと信じて疑わずに。
エレーヌは、そんな彼女たちの様子を傍観していた。
怒りではない。嫉妬でもない。ただ、静かな距離を保つだけ。
(あなたたちが夢を見るのは自由よ)
でも、夢と現実は、往々にして容赦なくすれ違うものだ。
◇
午後の陽差しが、中庭に長い影を落としていた。
授業と授業の合間、学園の階段を下りていたエレーヌは、ふと聞き慣れた笑い声に足を止めた。
声の主は、レオニス。そして、マリアンヌ。
廊下の手すりに寄りかかりながら、二人は親しげに言葉を交わしていた。
(随分、楽しそうね)
足元が少しだけ揺らいだ気がした。
思わず階段の途中で立ち止まり、視線を逸らす。
この頃よく見る光景。それでも、見慣れるには、少しだけ時間がかかりそうだ。
(せっかくの学生生活なのだから、少しくらい、息抜きがあってもいいはず)
自分にそう言い聞かせるように息をついた。まさにその瞬間だった。
背後から、ほんの小さな「とん」という感触。
まるでふざけた冗談のように、誰かの手が背中に触れた。
次の瞬間、視界がぐらりと傾いた。
落ちる――!
「エレーヌっ!!」
誰よりも早く、鋭く、切迫した声で叫んだのは、先ほどまでマリアンヌと笑っていたはずのレオニスだった。
信じられないほどの速さで階段を駆け上り、こちらへ身を投げるように飛び込んできた。
がし、と強引に抱き留められた。
衝撃で身体が横に流れ、階段をレオニスと一緒に転がり落ちる。
柔らかな地面も、気の利いた着地もなく、二人してもつれ合いながら止まったのは階段の下。
エレーヌの下に、埃まみれになったレオニスがいた。
くすんだ金髪が乱れて、頬には擦り傷が走っている。
その顔が、何とも言えないほど気まずそうにゆがんだ。
「……止めきれなかった。すまない。怪我を負っていないか?」
「どこも。レオが来てくれなかったら、私、大怪我を負っていたわ。助けてくれてありがとう」
エレーヌはそう言って、レオニスから身体を離した。
「ごめん。次は格好良く助けるから」
冗談めかして言う声に、エレーヌはつい微笑む。
「次なんて、あったら困るわ」
「それはそうだ」
ふと、お互いに顔を見合わせ、笑った。
気まずさでも、気取った言葉でもない、自然な笑みだった。
レオニスの視線が、マリアンヌと話しながらも、自分に向けられていたこと。それが、エレーヌにとって階段から落ちるよりも衝撃だった。
それが、これほどまでに喜びを感じると知ったのも。
廊下の少し離れた場所では、まだマリアンヌが呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで隣で会話していたはずの彼が、迷わず別の少女へと駆け寄った光景に言葉を失ったのだ。
◇
学園では、あの日の出来事が静かに、しかし確実に波紋を広げていた。
「見た? 王太子殿下、まるで王女様を守る騎士みたいだったわ」
「やっぱり、エレーヌ様のことを大切に思っていたのね……」
「落ちたあとのあのやりとり、聞いた? 『次は格好良く助けるから』って……あれ、本気よ、絶対!」
そんな声が、昼休みの中庭でも、廊下でも、ひそひそと囁かれていた。
それまでレオニスとマリアンヌの親しさに揺れていた空気が、再びエレーヌへと傾いていく。
あの救出劇が、まるで「答え」のように受け取られ始めていた。
焦りが、マリアンヌの胸をじわじわと満たす。
あのとき、唖然としたまま何もできなかった自分。
階段の下で笑い合う二人を、ただ見つめていることしかできなかった。
「でも、殿下は今も、わたくしに優しくしてくださるわ」
そう自分に言い聞かせるように、マリアンヌは微笑んだ。
たしかに、レオニスは変わらなかった。
談話室での挨拶も、花壇の前での立ち話も、時に少し長くなる昼休みの会話も──。
レオニスは以前と変わらず、彼女の話に耳を傾け、静かに笑ってくれる。
けれど、決定的な何かが、ない。
「恋人未満」のまま、彼はとどまっている。
もっと、距離を縮めなきゃ。
マリアンヌは心の中でそう呟いた。
王子のそばにいる未来を夢見る取り巻きたちの視線も、彼女の背を押す。
「殿下のお好みに合いそうな香水、調べてみるね」
「髪型を少し変えてみるのはどうかな?」
「最近、殿下は図書室でよく見かけるわ。偶然を装って──」
偶然を装って──、それはいいかもしれない。
あちこちの場所で偶然を装って。
ささやき合う声が、次第に策略めいていくのに気づきながらも、マリアンヌは止めなかった。
それどころか、その「偶然」を起こすタイミングを、自らも密かに探り始めていた。
もう一歩。
あと一歩、近づけたら。
そのときこそ、あの救出劇の余韻を、覆すことができるはず。
(殿下が本当に見ているのは、どちら……?)
そんな問いが、マリアンヌの胸の奥で静かに渦を巻いていた。
◇
学園の昼休み、かつてレオニスとエレーヌがよく並んで歩いた石畳の庭園に、今は別の笑い声が響いていた。
レオニスとマリアンヌ。
二人は肩を並べ、芝の上に小さな敷物を広げて、お菓子を分け合っていた。
「このタルト、おいしい! さすが王宮シェフですね」
「マリアンヌの口に合ってよかった。少しは元気が出たかな」
「出ました出ました! お菓子の効果はすごいです!」
ふわりと笑うマリアンヌの声に、レオニスも柔らかく笑みを返す。
それを遠くから見つめるエレーヌは、心を鎮めるのに少し苦労した。
(いいのよ。学生生活なのだもの。友人を作って、楽しく過ごすのは、当然のこと)
自分にそう言い聞かせる。けれど、その「友人」との距離が、あまりにも近く感じられてならなかった。
最近では、学園の催し物にもレオニスはマリアンヌと連れ立って現れるようになった。
演奏会、展覧会、演劇部の発表会──
どれも「偶然を装った必然」のように、彼女が隣に立っていた。
さらには、休日までも。
「最近、殿下、よくマリアンヌ様とお出かけされているそうよ」
「ご相談事があるんですって。妹さんのこととか……」
「まあ、殿下は優しいから。力になってあげたいと思っているのかもね」
囁かれる声に、エレーヌは微笑みを返すしかなかった。
彼の優しさは知っている。家族のことで相談されると断れないかもしれない。
けれど、ふと気づくと、自分はいつから彼と会話をしていないのだろう。
日が昇って沈む、そのあいだに、自然と生まれていた距離。
目を合わせることも、言葉を交わすことも、減っていた。
そんな折。
「また殿下がマリアンヌ様と?」
「やっぱり乗り換えたのね、エレーヌ様から。だって、あれだけ仲良くしてたのに、今はもう……」
そんな噂が、まことしやかに学園内に広がり始めた。
“また”という一言が、何より胸に刺さった。
まるで、彼が軽薄な人間であるかのように。
まるで、前の出来事──エレーヌが受けた屈辱──が繰り返されているかのように。
けれどエレーヌは、どこまでも気高く、毅然としていた。
噂に動じた素振りは見せず、教室でも、図書室でも、いつも通りにふるまった。
ただ、心の奥で、ふと立ち止まってしまうときがある。
誰もいない廊下、ふとした瞬間、胸を過るのだ。
(私のこと、もう見ていないのかしら)
それは、決して声に出せない問いだった。
だってエレーヌは、王太子の婚約者。
選ばれた者として、誰よりも強くあらねばならないのだから。
◇
中庭に橙色の光が差し込んで、静けさのなかにどこか寂しげな空気が漂っていた。
エレーヌは、図書館で読んでいた書物を返し終えた帰り道、ふと裏庭のほうへ足を向けた。
そこは人通りが少なく、静けさがある場所だった。
けれど、今日は違った。
低く押し殺された声。
涙を含んだような嗚咽。
「マリアンヌ?」
思わず立ち止まり、茂み越しに声の主を見る。
そこには、泣きじゃくるマリアンヌと、それを抱きとめるレオニスの姿があった。
「……ごめんなさい、殿下……。でも、私、本当に……もう、つらくて……」
「君の気持ちはわかる。無理はしなくていい」
彼の声は優しかった。
そっと彼女の背に手を回し、支えるようにしていた。
その腕の中で、マリアンヌは小さく震えていた。
その姿が、あまりにも儚げで、親密に見えた。
この距離、この声音、この仕草。
かつて彼女だけが向けられていたはずのものが、いま別の誰かのものになっていた。
「隠さずに言えばいいんだよ、マリアンヌ」
その声音を聞いた瞬間だった。
エレーヌは飛び出していた。
「どういうこと? こんなところで抱き合って、何をされているの?」
躊躇いなく、二人の前にエレーヌは割って入った。レオニスがなんと言い訳するのか、それをどうしても聞きたかった。
それとも、言い訳せずに、『マリアンヌを好きになった』とでも言うのだろうか。
目を見開くマリアンヌ。驚愕に硬直するレオニス。
「エレーヌ……! 違うんだ、これは……っ」
「ちゃんと説明してもらいたいわ、レオ」
その冷静な瞳に見つめられて、レオニスは口ごもった。
「マリアンヌの相談に乗っていたんだ。そして、彼女が泣くから慰めていただけだ。決して、愛を囁いていたわけでも、抱き合っていたわけではない」
レオニスの言葉が詰まる。
「そう。それにしては婚約者のいる身としては、ちょっと距離が近すぎないかしら」
エレーヌは深く息を吸い、ゆっくりと立ち去った。
この状況はどう考えていいのか、エレーヌにはわからなかった。