後編
悪夢の舞台は、まるで地獄の劇場だった。隆史と萌花は傷だらけで地面に這い、泣き叫びながらも絵美の命令に従わざるを得なかった。観客の野次と嘲笑が彼らをさらに追い詰め、スクリーンに映し出される彼らの愚行は、まるで終わることのない拷問のように繰り返される。
「やめて……お願い……もうやめて……!」
萌花は血と涙で顔を汚しながら懇願するが、絵美の鞭は容赦なく彼女の背中に振り下ろされる。
「やめる?」
絵美は冷たく笑う。
「あんたが隆史とホテルで笑い合ってた時、私と勉のことを考えたことあった? あんたの『仕事の延長』が、どれだけ私たちを傷つけたか、知らないよね?」
隆史は這いつくばりながら、震える声で叫ぶ。
「絵美……俺が悪かった……頼む、こんなこと……!」
「悪かった?」
絵美は隆史の髪を掴み、顔を無理やり引き上げる。
「あんたの『悪い』は、いつも口だけ。勉を殴った時も、家族を裏切った時も、いつも自分が可愛いだけよね?」
彼女が手を振り上げると、鞭が再び隆史の体を痛め付け、彼の絶叫が会場に響く。萌花は恐怖で縮こまり、ただ震えるだけだった。絵美の高笑いが、観客の歓声と混ざり合い、狂気的な熱気に会場を包む。
暗闇の観客席で、沽兎は目を細め、満足げに頷く。
「美しい……絵美様、あなたの憎悪はまさに芸術です。この狂気、この破壊衝動……私の力をさらに高めてくれる。」
彼は手を伸ばし、絵美から溢れ出す黒いオーラのようなものを掬い取り、口元に運ぶ。
「もっと、もっと復讐を。次のショーは? 火炙り? 水責め? それとも……」
絵美は一瞬、鞭を握る手を止める。彼女の胸の奥で、勉の笑顔や、かつての平凡な日々がちらつく。だが、その記憶はすぐに燃えるような憎悪に押し潰される。
「黙って、沽兎うると。あんたの甘い言葉に踊らされる気はないわ。私は私の好きなようにやるだけ!」
沽兎はクスクスと笑い、優雅に一礼する。
「踊る? 絵美様、あなたはすでに私の舞台の主役です。あなたの憎悪は、私の力の源。あなたが復讐を続ける限り、私は強くなり、あなたは……真の復讐の化身となる」
絵美の目が揺れる。彼女は確かに隆史と萌花を許せない。だが、沽兎の言葉は、彼女の心に冷たい鎖を巻きつけるようだった。この復讐の快感は、彼女を解放しているのか、それとも飲み込んでいるのか――
彼女が再び鞭を振り上げる瞬間、
「ママ……?」
幼い声が、悪夢の喧騒を切り裂いた。絵美の手が止まり、会場が一瞬静寂に包まれる。観客の顔がぼやけ、スクリーンの映像が揺らぐ。暗闇の向こうから、勉の声が再び響く。
「ママ、どこ……? 家に帰りたいよ……」
絵美の心臓が締め付けられる。彼女は鞭を落とし、呆然と立ち尽くす。
「勉……?」
「絵美様、集中してください!」
沽兎が観客席から叫ぶ。青白い顔に焦りの色が浮かぶ。
「あなたの憎悪はまだ足りません! この二人を完璧に破滅させるのです!」
だが、絵美の耳には沽兎の声よりも、勉の声が大きく響いていた。
「ママ……怖いよ……」
次の瞬間、悪夢の世界が崩れ落ち、絵美はリビングのソファで目を覚ました。目の前には、心配そうに覗き込む勉と、隣に立つ母親の姿があった。
「絵美どうしたの、急に倒れたみたいになって……。勉がママに、家に帰りたいって言うから連れてきたのよ」
母親の声は不安に満ちている。
「勉……」
絵美は震える手で勉の頬に触れる。勉の目は涙で潤み、彼女をじっと見つめていた。
「ママ……」
「絵美、あなた顔色悪いわよ? それに顔つきもきついというか…大丈夫なの?」
母親が眉を寄せる。
絵美は立ち上がり、洗面所に駆け込む。鏡に映った自分の顔に、彼女は息を呑んだ。以前より痩せ、頬はこけていたが、目は釣り上がり口元は引きつっている。まるで別人のような、憎悪に染まった顔。彼女は手を握りしめ鏡を睨む。
「私……何になってるの……?」
リビングに戻ると、勉が絵美の手を握り、そっと呟く。
「ママ、怖い顔しないで。僕、ママが笑ってる方が好きだよ」
その言葉が、絵美の心に突き刺さる。
彼女は隆史と萌花を地獄に突き落としたい衝動に駆られていた。だが、目の前の勉の純粋な瞳を見ると、このまま復讐に囚われ、勉を置き去りにすることはできないと心が動いた。
「絵美様、許すのですか?」
暗闇から沽兎の声が響く。
「あなたの憎悪は私の糧。あの二人を許すなんて、勿体ない! もっと深い復讐を!」
沽兎の声が頭にこだまする。絵美は目を閉じ、深呼吸する。
「黙って、沽兎。私は……私のやり方で決着をつける」
沽兎の笑みが暗闇で揺れる。
「ふむ……面白い選択です、絵美様。では、その『やり方』を楽しみましょう」
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隆史はホテルのベッドで何度目かの覚醒を迎えた。全身が冷や汗にまみれ、呼吸が乱れている。彼は慌てて周囲を見回し、萌花がまだ眠っているのを確認する。時計は朝の6時。悪夢の記憶は鮮明で、彼の心を締め付ける。
「何だ……これ……何なんだよ……!」
隆史は震える手でスマホを手に取り、萌花とのメッセージをすべて削除する。
「もう……こんなの、やめる……。え、絵美にバレたら、俺、終わる……!」
彼は急いでシャワーを浴び、服を着替える。だが、鏡に映る自分の顔は、まるで別人のようにやつれていた。頬には、夢で鞭を受けたような赤い痕がうっすら残っている気がして、彼は思わず後ずさる。
「冗談じゃねぇよ……」
隆史は逃げるように部屋を飛び出した。
一方、萌花もまた悪夢にうなされていた。彼女はハッと目を覚ますと、隣に隆史がいないことに気づき泣きながらスマホを手に取って驚愕した。隆史からのメッセージが消えていたのだ。
「たかちゃん……何……? まさか、私、捨てられた……?」
彼女は慌てて隆史に電話をかけるが、繋がらない。萌花の心に、悪夢で見た両親や友人の軽蔑の視線がよみがえる。
「違う……私、悪くない……! 仕事だっただけ……!」
萌花はスマホを投げ捨て、頭を抱える。
「大丈夫……夢だったんだから! 現実なんかじゃなかったんだから!」
必死に自分にそう言い聞かせてきつく目を閉じた。
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自宅のキッチンで、絵美は興信所からの追加報告書を読み終えた。萌花が他の客とも親密な関係を持ち、隆史を金づると見ていたことが明らかになっていた。絵美の唇が歪む。
「ふん、どっちもどっちね。自分勝手な人間同士、お似合いだったわけ」
数日後、絵美は冷静な決意を胸に動き始めた。
彼女は弁護士を雇い、興信所から集めた証拠――隆史と萌花の逢引の写真、ホテルの記録、スマホのやり取り――を提出。離婚を決意し、両家に隆史の浮気の証拠を送りつけた。
「なんだこれはぁ!?」
隆史の実家では義父が激怒し、隆史を電話で何度も呼び出す。しかしその日は結局繋がることはなく、隆史のスマホの留守番電話に大量のメッセージが入っていた。
絵美の両親もまた、娘と孫を裏切った隆史を許さなかった。
「いいお父さんをしているかと思っていたのに! しかも絵美が会社で大変な時になんてことをしてくれたの!?」
絵美はさらに、萌花の実家と彼女が働くガールズバーに証拠を送り、慰謝料を請求。萌花の両親は娘の行動に絶望し、彼女を地元に呼び戻そうとした。
「愛美! あんた地元を離れて何してるの!? そんな馬鹿なことしてないで戻ってきなさい!」
「え? 何?」
萌花は突然の母の電話に首を傾げる。
「うちにあんたが浮気の写真と慰謝料の請求が来てるのよ! しかもガールズバーで働いているだなんて! バカじゃないの!?」
真っ青になって呆然としていると、SNSの通知が来る。そこには萌花のパパ活が画像と共に事細かに乗っていて炎上していた。
「嘘……」
SNSでは「ビッチ」「ガルバの萌花」「愛実じゃない?」「この子、地元の子だ」というメッセージが止めど無く流れていた。
「い、いやああ! 嘘ぉ! 嘘お!!」
手が震えてスマホが落ちる。
それでも画面にはメッセージが流れ続けていた。
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隆史の職場にも証拠が送られ、社員の管理不届きとして職場に通知。隆史は同僚からの冷たい視線と、会社での立場悪化に直面した。
「浜名さんこんなことしてたんだ……ガールズバーの子と浮気って。普通にカモにされているの気づかなかったのかな?」
「普段『俺は家でも職場でもデキる』って合同会社の人たちに酒の場で豪語してたのに。さすがにこれは恥ずかしいですね」
この話は合同会社にも知れ渡り、 彼の「良き父親」「デキる男」の仮面は剥がれ、社会的な信用は地に落ちた。
一方絵美は勇気を振り絞って、ママ友の会に参加した。
母親たちの、笑いあう和気あいあいとした空気の中で、緊張しながら口を開く。
「私、これからシングルマザーになる予定なんです」
そう切り出し、隆史の裏切りと離婚の経緯を正直に話した。
興味津々のママ友たちは、絵美に同情し、彼女を応援する声をかけた。絵美はそこで初めて、孤独だった自分に味方がいることに気づいた。彼女は根回しを進め、保護者会での隆史の評判をさらに落とし、今後彼を信じないでくれと念を押した。
職場では、シングルマザーになることを上司に伝え、医者からの診断書(ストレスと鬱の症状)を提出。労働基準監督署に相談し、職場の派閥や不当な圧力の改善を会社に求めさせた。
会社は労基の介入を受け、絵美のチームへの責任押し付けを撤回し、働きやすい環境を整えることを約束した。
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数ヶ月後、絵美は離婚を成立させた。
隆史は慰謝料と養育費の支払いに同意し、アパートから追い出された。彼は職場での立場を失い、地元へ帰り、また萌花とも連絡を絶った。離婚後の生活は実家で暮らすこともできず、安いアパートに一人暮らしをして、引きこもりのような生活をしていた。
萌花はガールズバーを辞め、地元で孤立した生活を送っていた。彼女のSNSは炎上し、友人や家族からの信頼は完全に崩壊していた。実家で親の監視の下、今までのような華やかな生活とは違う、窮屈な生活を余儀なく送っていた。
絵美は隆史と萌花から得た慰謝料を使い、生活を安定させた。会社は彼女の要望を受け入れ、基本的に在宅ワークに切り替えることを許可。絵美は勉と過ごす時間を増やし、二人で新しい生活を築き始めた。
ある夜、絵美は勉と一緒に夕飯を食べながら笑い合う。勉はオムライスを頬張り、こう言う。
「ママ、最近笑ってるの、すごくいいよ。パパいなくても、僕、ママと一緒なら大丈夫!」
絵美の胸が温かくなる。彼女は勉の頭を撫で、微笑む。
「ありがとう、勉。ママ、頑張るからね」
だがその夜。寝室の暗闇で、沽兎の声が再び響く。
「絵美様、素晴らしい結末でした。……でも、あなたの憎悪はまだ燻っていますよ。職場の上司、義父、世間の偽善者たち……次の舞台は?」
絵美は目を閉じ、深く息を吐く。
「黙って沽兎。私はもう、復讐に囚われない。勉のために、普通の生活を取り戻すの」
沽兎の笑みが暗闇で揺れる。
「ふむ……本当にやめられると思いますか? あなたの憎悪は、私の力の一部。だから分かるのです。あなたが復讐を行っている時の快感を、あなたが味わっていることを。……そう、いつかまた、舞台に上がる日が来ますよ」
絵美は答えず、勉の寝息を聞きながら眠りにつく。彼女の心の奥で、自身も気づかない憎悪の小さな炎はまだ消えていなかった。だが今は勉の笑顔がその炎を抑えていた。
沽兎は笑った。
「またの復讐の機会をお待ちしております」