中編
下品な表現注意。
「うわぁあああ!!」
隆史は飛び起きた。
汗だくになりながら辺りを見回す。
「あ……ホテル?」
いつも萌花と逢引に使うホテルだった。
時計を見ればまだ朝の4時。ふぅとため息が出る。
とんでもない悪夢を見た。美しいが残忍な女に拷問を受ける夢だった。今でも手の甲にヒールの踵が食い込んだ跡があるんじゃないかと見つめてしまう。
「た、たかちゃん……」
隣を見る。萌花が顔色悪そうに起き上がる。
「大丈夫?」
「うん、なんかちょっと怖い夢を見たの……」
「萌ちゃんも?」
二人して顔を見合わせて気まずい空気が流れる。
しばらくして萌花は作り笑いをすると「シャワー浴びてくる」と呟いて浴室に消えた。
「せっかくのいい時間なのに……」
隆史はまた溜息を吐くと脱ぎ捨てた下着に手を伸ばした。
「なんであんな夢見たんだろうな。はぁ~帰りたくねぇ……」
隆史はスマホを見る。今やスマホの中でのやりとりは萌花でいっぱいだ。写真にも二人で撮ったものがファイルにぎっしりある。
「絵美も付き合ってた頃は体つきよくて若かったのになぁ。今や太ったババアだよな。出産してきちんとダイエットしねぇから。俺、可哀想」
隆史は舌打ちして頭を掻いた。
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「ただいま……」
「おかえり」
隆史はびくっとした。
いつもはまだ寝ているはずの絵美が起きて玄関に立っていたのだ。
「な、なんだよ。こんな時間に起きてるなんて」
「目覚めが良くてそのまま起きてたの。そろそろ帰ってくる頃だと思って待ってたの」
くすくす絵美が笑うと、隆史は鬱陶しそうに頭を掻いて横をすり抜けた。
「俺疲れてるから寝る」
「お疲れ様。シャワーは良いの?」
「え?」
不審そうに顔を歪ませる隆史に絵美が気遣うように微笑む。
「仕事仲間と飲んできたんでしょ?」
隆史は「あぁ」と呟いて服を脱ぎ始める。
「これも付き合いだし仕方ないよな。とにかく疲れてるから寝るわ」
そういうとその場に脱ぎ捨てた服をそのままにして寝室に消えた。
隆史の服からは酒ではなく、家とは違う石鹸の香りしかしなかった。
「そうよね。お楽しみだったものね」
絵美は冷たい眼差しで床に散らばる服を見下ろした。
あんなに夢の中で罰したのに、さっきの隆史の顔はケロリとしたいつもの不機嫌な顔だった。
「結局……唯の夢…‥」
散々遊び果てて眠った二人を絵美は悪魔見習いの力を使って悪夢に引きずり込んだ。
そして思いつく限りの暴力を浴びせたのだ。
目を閉じれば今でもふたりの叫び声と痛めつけた手の感触が残っている。
「あんなに痛めつけても……反省の顔すらしない」
ギュッと口を閉じる。ホテルでのやり取りが頭を何度もよぎる。
ずっと仕事で頑張っているんだと思っていた。辛い時期もあったから支えになって頑張ろうと。
育児も実家を頼りにしてなるべく隆史に負担をかけまいと絵美は必死に勉を育てた。だから勉が小学生になった頃に、隆史が積極的に保護者会やPTAに参加してくれるのが嬉しかった。
しかし最近笑顔を浮かべるのはそんな第三者の目があるときだけ。
ほかの保護者や教師の目がなくなると彼は無表情でスマホを触り、子供が声をかけてもぞんざいに扱った。それどころか鬱陶しいように「勉強しろ」と通信教材を指差すだけだった。
「赤ん坊の頃はあんなに可愛がって、構っていたのに。小学校に入ったばかりの時も一緒に宿題してあげたりしてたのに……」
絵美は拳を作り、思い切り壁を殴りたいのを我慢して目の前を睨みつけた。
多少の火遊びはまだ目を瞑れる。だけど家庭をないがしろにしたことだけは許せない。
絵美の青筋だった表情に暗闇から男が満足げに頷いた。
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「ご当選おめでとうございます」
昼休みの銀行で通帳を受け取る。通帳の新しい入金額には五千万の数字。
手にしたことがない大きな金額に思わず手が震える。
「ね? 言ったでしょう? 支援致しますって」
そう言って悪魔見習いの男、沽兎はニコリと微笑んだ。
「まさか本当に大金が入るだなんて……」
絵美は沽兎が言った通りに福引券を買った。そして当選のその日に五千万を手にしたのだ。
「これで興信所に行くわ。証拠を集めないと」
絵美は事前に下調べをしていた。
二人が会う店。待ち合わせする時間。これらは家の各部屋に小型カメラと小型マイクを仕込んでおいて入手した情報と、非番の日に昼間いびきをかいて寝ている隆史のスマホからLINEを読んだものだ。
「あとは弁護士にも相談に行かなきゃ」
絵美は先に興信所に行き、二人の調査をお願いすることにした。
実家の親に電話して勉の夕飯をまず任せる。それから仕事を早々に切り上げて会社を出ると、目をつけていた興信所に向かい、持っていたLINEの内容、録音していた音声を提出した。
「それでは今週の日時は毎週水曜日と金曜日、土日の夜八時から翌朝の五時までですね」
「はい。それから相手の素性も調べてください」
怒りで手が震えるのをこらえながら絵美は調査員に依頼した。
「この文面のやり取りですと、恐らくガールズバーなどの店員だと思いますね。旦那様は客のようです」
「ガールズバー? 飲み屋ですか?」
「女性がカウンター越しに接客を行うバーです。旦那さんたまに同伴などして店以外でもお会いしているようですね。他にもお休の日とか」
一気に頭に血が上り、先日見たホテルの光景が浮かび上がる。
「まずは調べて証拠を撮ります」
「はい。徹底的に調べてください」
絵美は震えを抑えて声を絞り出した。
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「ご自分の目で確かめなくて良いんですか?」
数日後、沽兎が通勤途中の絵美に声をかける。
「したいけど子供を置いていけないわ。それにあなたが支援してくれたお金があるもの。証拠も手に入るしなんとかなる」
信号待ちになり絵美が足を止める。
同じく足を止める人々はそれぞれの世界に入り込み、ふたりの会話に気にも止めない。
「本当にそんな簡単に手に入りますかね? それにお金はかけられても時間まではどうにもなりません。ご主人がまた愛しの彼女とデートするか分かりませんよ?」
行き交う車を見て絵美は一瞬黙ると、息を吐いた。
「もしかしたら、証拠を見せたら改心して家庭を見てくれるかも知れないじゃない。勉から父親を取り上げたくないし……それにお金じゃ解決できないこともあるのよ」
脳裏によぎるのはママ友や他の保護者とのやり取り。
学生時代の時ですらいつも一人で、今現在も友人の一人もいない絵美にとっては憂鬱なことだった。
「それに……私いま会社で上手くいってなくて、最悪休職しなきゃいけなくなるかもしれないし」
実際そんなことは出来ないのだが嫌な展開が頭を占める。
もしそんなことになれば自分の預金が減る。隆史と絵美は結婚してからも別々で預金を管理していた為、自分の収入が減ると隆史に頼らざるを得ない。
「水道光熱費と家賃は私が出してるし、携帯代とネット回線と食費は隆史が出してる。さすがに甘えられない」
信号が青になり歩き出す。
「隆史のしたことは許せないけど、きちんと家庭を、勉を大事にしてくれるなら私は頑張るわ」
正直寿命を20年安易に差し出した自分を馬鹿だと思いそうになるが、あの大金がなければ自分は動けずにいた。絵美はそう己を納得させて会社に向かった。
仕事から帰ると家の雰囲気がおかしいことに気づき、眉を寄せる。
リビングに入ると、泣きながら勉が散らばった通信教材をゴミ袋に入れていたのだ。
「勉! どうしたの!? 何をしているの!?」
「パパが……勉強しないなら捨てろって、僕に投げてきて……」
「パパがこれ全部?」
「うん……」
絵美が腰を落として勉の涙を拭く。
「どうしてこうなったの? どうしてパパが怒ったの?」
「パパと前一緒に遊んだゲーム、一人でクリア出来たから、見てって言ったらうるさいって怒鳴られて、お前は黙って勉強しろって言って、勉強道具投げてきて、一人でやらないなら自分で捨てろってぶってきた……」
「ぶってきた!? 勉が話しかけた時パパは何してたの?」
「ずっとソファで寝てスマホ触ってた……」
絵美の心臓はバクバクしていた。
勉を怒鳴りつけて叩いた? しかも教材を勉の手で捨てさせるなんて……。絵美は信じられない思いで唇を噛んだ。
「勉。そんなことしなくて良いよ。怖かったね」
絵美は優しく勉を抱きしめてゴミ袋から手を離させた。そして頭を撫でて落ち着かせると、一緒に勉強道具を片付け始めた。
隆史のしたことは間違っているのだろうか? 勉強もしないでゲームをしていた勉も悪いが、ここまでする必要があるのか? どの程度の強さで怒鳴って叩いたのか分からないし、と絵美は悩む。
「あ、そうだ。まだカメラそのままにしていたからあとで確認しよう」
絵美は頷いて散らばったノートを手にとった。
片付けも終わった頃スマホに隆史からメッセージが届く。
【隆史:夕飯適当に食べてて。今日帰らない】
「家にいないと思ったら外に居たのね」
分かったと返信して顔を上げる。
「勉、今日はお外で食べようか。オムライス食べに行こう」
その日の夜、勉が眠ったあとパソコンで録画したデータを再生する。
そこには遠慮がちに声をかけた勉を振り払い罵声を浴びせる隆史の姿があった。
「るっせぇんだよぉ! ロクに勉強もしないくせによぉ! ふざけてんのかテメェ! やることやれよ!!」
音割れするぐらいの罵声がイヤホンに響く。
「ご、ごめ」
「あぁ!? なんだよ!? お前がやるつったからコレ始めたんだろ!? 誰がカネ払ってると思ってんだよ!? 俺を舐めてんのかぁ!? あぁ!?」
隆史が通信教材を掴むと勉に向かって投げつける。勉は怯えきって頭を腕で庇い萎縮している。
「オラ! てめぇ自分で捨てろよな! どうせやらねぇんだからよ!」
キッチンから持ってきたゴミ袋を突き出し隆史の拳が勉の頭に落とされる。勉はひたすら下を向いて肩を震わせている。
隆史は怒鳴り散らしながらそのまま玄関に向かって画面の外に行った。
「こんな父親いらない……」
絵美の手は小刻みに震え、指先は冷え切っていた。
画面の中で泣く我が子に自分も涙を流し、強く歯を食いしばった。
「沽兎! どこ!?」
「はい絵美様」
部屋の暗闇から音もなく沽兎が現れる。
「今から隆史のところに行きたい! 瞬間移動して連れてって! 場所なら分かる!」
追跡アプリを突き出して彼に言うと、沽兎は首を振った。
「残念ながら私にはそのような力はありません。なんせ見習いなもので」
「どうしてよ!? あの人はあんな酷いことを勉にしたのよ!?」
「ふむ。では今どうしているのかだけお見せすることなら出来ますよ」
沽兎がパチンと指を鳴らすと窓のカーテンが開き、そこから家の外ではない景色を映し出す。
豪華なクラブに仕事仲間だと思われる男たちと一緒になってきらびやかな女性の肩を抱きながら酒を飲む隆史の姿があった。
「あーマジ今日だるかったっすよ!」
「なんだよまた家庭の愚痴かよ~」
「なんだよ隆史ぃ」
「いや、そりゃ嫁は昔は世間知らずで可愛かったけど、今やたるんだ頭の悪いおばさんですからね? そのせいか子供まで馬鹿で」
「ぎゃははは! お前ひっでーな!」
「遺伝ですよ遺伝! 俺はデキる男っすから! 嫁と違って!」
そう言ってシャンパンを飲み、女の子の肩にもたれ掛かる。
「そういやお前最近萌ちゃんとどうよ? 付き合ってんだろ?」
「めっちゃあのこいい子っす! あの子と結婚したいっすわぁ!」
「いやお前みたいなオヤジじゃ無理っしょ!」
「俺今や金ありますから! 大黒柱っすから! この間もティファニーのネックレスあの子にあげましたからね」
「つかヤったの?」
「そりゃもう! 俺らラブラブですよ! いやぁマジ離婚して再婚したい! あの子のほうがいい子でエロいし顔もどタイプですもん!」
男たちの笑い声が響き渡る。
カーテンが締まると絵美の心臓の音だけが彼女の耳に残る。そして次第に息が荒くなり立ち上がっていた。
「絵美様。お気を確かに」
ひどい憎悪が渦巻く。隆史はこうして家庭の話を馬鹿にして笑いものにしていたのか。家族との食事を粗末にして自分は豪遊して毎晩遊び呆けていたのか。
「許さない……」
絵美が血が滲むほど唇を噛むと机に拳を叩きつけた。
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暗闇の中、隆史は鎖で繋がれて立っていた。
「な、なんだここ……?」
突如天井からスポットライトが降り注ぐ。中央には隆史がいつも萌花に会う時の服装で立ち鎖の先は天井へと伸びていた。
「目が覚めた?」
暗闇の向こうから聞き慣れた声がする。
「……絵美か?」
足音が近づいて来ると光の下に出会った頃の絵美が現れた。
ピンクのストライプシャツに白いタイトスカート、白いヒール。
「え、絵美……」
「この格好で会うの久しぶりね。あ、でも――」
ニヤリと微笑んで目を細める。
「萌花ちゃんには敵わないかぁ~」
心臓が凍りつく。汗が吹き出てよろめく。
「私が気づくの遅くなっちゃってごめんねぇ? ほら、私頭悪いから気づくのが遅かったみたい」
「は、はぁ? な、何言ってんだよ? 面倒臭ぇな」
「あなたが離婚したがってるの、気づくのが遅かったって……言ってんだよ糞がァ!」
走り寄って思い切り隆史の頭を殴る。途端に隆史の意識が揺れる。
「ぐは……っ」
女の力とは思えない強い拳に隆史が地面に膝をつく。
「あんたが萌花とやりとりしてる時に話しかけてきた勉が邪魔だったんでしょ? ほんとに最低だわ!」
もう一度隆史の頭を殴る。隆史の頭から血が滲む。
「ふっざけんなクソが!」
隆史が立ち上がり絵美に蹴りを飛ばすが、絵美はびくともしなかった。絵美は隆史の足を掴むと、そのまま捻り足首を曲げた。
「ぎゃああああああああ!!」
絶叫を上げながら隆史は地面に崩れる。足を押さえてひぃひぃと喘ぐ。
「これを他の保護者に見せたらどう思われるかしらね?」
絵美が合図すると大型スクリーンに勉を怒鳴りつけた映像が流される。そしてその直前やりとりしていた萌花とのメッセージも。
「あ、後この映像もね?」
また別の映像が暗闇に浮かび上がる。
【いや、そりゃ嫁は昔は世間知らずで可愛かったけど、今やたるんだ頭の悪いおばさんですからね? そのせいか子供まで馬鹿で】
【遺伝ですよ遺伝! 俺はデキる男っすから! 嫁と違って!】
周囲の暗闇からざわざわと人の囁き声がする。
そして隆史に集まる視線も。
「や、やめろ……」
【そういやお前最近萌ちゃんとどうよ? 付き合ってんだろ?】
【めっちゃあのこいい子っす! あの子と再婚したいっすわぁ!】
「やめてくれ……」
【いやお前みたいなオヤジじゃ無理っしょ!】
【俺今や金ありますから! 大黒柱っすから! この間もティファニーのネックレスあの子にあげましたからね】
【つかヤったの?】
「おいよせ……」
【そりゃもう! 俺らラブラブですよ! いやぁマジ離婚して再婚したい! あの子のほうがいい子でエロいし顔もどタイプですもん!】
周囲から一際大きなどよめきが上がる。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
暗闇から非難の声が飛び、石が投げ込まれる。
軽蔑という軽蔑の視線が隆史を縛り上げ、隆史を萎縮させた。
「あーあ。外では面倒見の良い良きパパだったのにね? 皆さんにバレちゃったね。あなたが我が子より若い女の子の上に跨って腰を振るのに夢中な中年男だって」
くすくす笑う絵美の声が隆史の耳元にこだました。