前編
絵美はいま最高に気持ちよかった。
自分を馬鹿にして裏切った男の醜態を見て悪女さながら高笑いしていた。
「ああ可笑しい!まるでボロ雑巾みたいね!」
男は裸同然の格好で縛られ、冷たい床に這いつくばっていた。
絵美はヒールを男の手の甲に思い切りグリグリと押しやった。
「ぎゃああああああああ!」
男が悲鳴を上げる。
絵美は瓶をテーブルの縁で割ると男の背中に振り下ろした。
男のアザだらけの背中に瓶が食い込むと同時に男が絶叫をあげる。
「次はあんたね」
瓶を投げ捨て椅子に縛られている女に近寄り髪を鷲掴む。
「ひっ!痛い!」
「きれいな髪ね。私がいいように整えてあげる」
ハサミを手に持ってジャキジャキと切っていく。
床に散らばる長い金髪が無残に積み重なっていく。
「いやあああああ!!」
「そうそう!もっと叫んで!」
高笑いしながら絵美は女の髪を容赦なく散切りに切っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数日前、絵美は重い頭を抱えながら医者を訪ねた。
「すいません先生。また朝起きて頭と体がだるいんです。風邪でしょうか?」
「以前も診た通り体に異常はないみたいだ。もしかしたら精神的なことかもしれないな」
「そうですか……」
絵美の職場は中小企業であるが、最近急成長したこともあり人員を増やしたのだが、たくさんの新人を入れたことで派閥が起き、人間関係にも亀裂が生じることになった。
また新システムの導入もあり職場は今までで最悪の空気となった。
医者から薬を貰って暗い顔をして帰る。
家に帰ると最近ではより憂鬱な顔をしてしまい、絵美は自己嫌悪に陥った。
「ただいま……」
「おかえりママ!」
家の中を見る。夫と子供が散らかした物で散乱している部屋。脱ぎ散らかした服に食べ終わったままの食器。そして夫の仕事道具や私物。
思わずため息が出る。
「ねぇ今日は仕事休みでしょ? 仕事道具危ないし、あなたしか片付けられないんだから片付けてよ」
「分かってるよ。今やろうとしてたんだろ」
ソファで寝転びながらスマホをいじくる夫。
やっと子供が小学生になって落ち着いてきたのに、夫の隆史は近頃スマホばかりを触って家族に顔を向けない。
「夕飯どうする? たまには外食行こうよ」
「俺作るからいいよ」
「そう?」
昔から食事は夫の担当だった。絵美は料理が苦手で、代わりに掃除・洗濯をやり、実家が弁当屋だった隆史が料理係だった。
「はい。飯」
大鍋に大量のカット野菜とソーセージが煮込んである料理。
絵美は眉を寄せる。勿論作って貰っているから感謝しなくてはならないのだが、この量を食べきるのに二日はかかる上に、あとは白米だけ。
なにより――
「じゃ、俺飲みに行ってくるから」
一緒に食べることなく飲みに出ていく。ここ二ヶ月ずっとそうだ。
「オムライス食べたいよ」
息子の勉が口を尖らす。
「パパがせっかく作ったんだから文句言っちゃダメだよ。今度ママが練習するよ!頑張るからね」
頭痛をこらえて微笑む。
もっと自分が頑張らねばと思うが、そう思うたびに絵美の頭は痛んだ。
夜11時。夫は最近朝5時に帰ってくる。仕事も夜勤だから夜いないことには慣れてはいるが、休みの日もいない日が明らかに多い。
飲むのは別に悪くはないが、子供を持ったからもっとしっかりして欲しかった。
隆史は人当たりがよく、誰とでもコミュニケーションをとるのが上手かった。対して絵美は人見知りでなかなか人に馴染むことが出来ず、保護者会やPTAは隆史を頼らざるを得なかった。
ただ隆史はお金や時間にルーズで今は義父の仕事を任されていて問題にはなっていないが、一度サラリーマンとして働いた時期は、仕事環境に馴染めずに体調を崩していた。
数年前。
「私も働いているから無理しないで、一度地元に帰ってリフレッシュしたら?」
絵美はノイローゼで落ち込む隆史を励まし、隆史は勤めていた会社を辞めて地元に帰った。
隆史は地元の家族や友達と遊び、みるみる元気になった。そこで家族の自営業に入社して支部としてまた絵美のもとへ戻ってきた。
「俺サラリーマンに向いてなかったみたいだ。これからは実家の仕事をするよ」
「分かった」
「それでさ、子供そろそろ欲しいんだよね。俺もう30だし、早めに欲しいんだ」
「え? でも貯金はまだ不十分だよ。お義父さんの会社だって入社したばかりでしょ?」
「俺が稼いでくるから大丈夫だよ! それに金はなんとかなるけど、若さはどうすることも出来ないだろ?」
正直絵美は子育てに自信がなかった。遠目から見て子供を可愛いとは思うが子供と接するのが苦手で、赤ん坊もどうやって育てて良いのか分からなかったのだ。
「俺は四人兄弟の長男で兄弟なんて俺が育ててきたも同然なんだぞ! 大丈夫だって! 俺が育てる! 絵美は産むだけでいいからさ」
その言葉に少し安心したが、やはり不安は拭えなかった。
そんなある日、仕事の帰り道を歩いている時、義父から孫の催促の電話が掛かってくるようになった。
毎日毎日、仕事で疲れている帰り道の義父の電話は堪えた。
「孫の顔が見たい。早めに産んでおいて損はないぞ。産むだけでいいんだよ。子供なんて勝手に育つんだからさ」
勘弁してよ……。
隆史にも義父の催促の電話をやめるように言った。
「仕方ないだろ。結婚しているの俺たちだけだし。お前にも期待しているんだよ」
「じゃあ私に言わないで息子であるあなたに言うべきじゃないの?」
「えー。俺にも分かんねぇし。絵美なら聞いてくれると思ってるんだよ。親父も寂しいんだよ。相手してやってくれよ」
「私仕事帰りで疲れてるんだよ?」
結局隆史はのらりくらりとして絵美の苦情を間に受けてくれなかった。
自分の母にも愚痴を零した事はあるが、遠まわしに産んでみたら? という言葉が返ってきた。そして母も産むだけでいいから、と絵美に言うのだった。
自分の兄弟も夫の兄弟も他に結婚しておらず、絵美夫婦に孫の催促が集中した。絵美はプレッシャーに耐えられず、周囲に金銭的援助と育児をしてくれることを条件に産むことを決意した。
絵美は職場に頭を下げて同僚に気を遣いながら産休を取った。子供を愛することができるか、自分も子育てできるか不安だった。
「でも大丈夫だよね。みんな助けてくれるって、育ててくれるって言ってくれたんだから」
しかしいざ勉を出産すると、周りは喜ぶばかりで育児をすることはなかった。母達は自分も仕事があると言い、隆史は育休を取らず、絵美はどうしていいか分からない中、泣きながら泣き喚く我が子をあやして一人育てることになった。
そしてそれが後の長い鬱の闘病の入口となったのだ。
現在。
家中掃除機をかけて雑巾がけをする。夫の工具があちこちに有り危なくて仕方なかった。
絵美は溜息を吐きながらそれらを脇に避けると、ふと寝室でいびきをかいている隆史に目がいった。
「夜は飲んで昼は寝ているだけなんだから」
ふと隆史のスマホの画面が光った。
「なに?」
人名ではなくウサギとハートの絵文字が送り主欄に浮かぶ。
胸騒ぎを覚えて夫のスマホをトイレで見ると絵美の顔は凍った。
【隆史:萌花ちゃんいつもありがとう、愛してる。少し遅くなっちゃったけど楽しかった。今日お客さん被ってたからヤキモチ焼いちゃったよ】
【♡:たかちゃんいつもありがとう♡。毎日来てくれるから萌助かっちゃう✩明日も会いたい】
「なにこれ? 毎日女の所に飲みに行ってたの?」
さらにメッセージを読み進める。
【隆史:嫁最近最悪。毎日ため息ばっかだし、辛気臭い顔してるし。口開けば会社の愚痴とかさ。マジうざい。優しくする気なくした】
【♡:えー! たかちゃんかわいそー! また萌が慰めてあげる✩】
私に育児押し付けて飲みに行ってたの? あれだけ私が嫌がってたのに、お義父さんからの催促電話にも庇ってくれなかったのに。
しかも事情も知らない女に私の愚痴を言って……普段こんなこと思っていたの?
隆史がサラリーマンの時、落ち込んで弱音を吐いた時に寄り添った自分の姿が脳裏に映り体が震える。
【隆史:マジ離婚したい。子供も最近可愛くないし。勉強とか自分からやらないし。誰に似たんだろうな】
【♡:本当一人で頑張ってるんだね! でも離婚はしちゃダメだよ? 奥さん可哀想だよー(つд⊂) 萌しんぱい(´;ω;`)】
怒りで手が震える。
子供に最近話しかけたことなんてなかったくせに。勉強? 飲みに行く暇あるなら勉強一緒に出来るはずなのに! しかもこの女もこんなことしておいて心配ですって? どこまで馬鹿にしてるんだろう!
【♡:またホテルのディナー食べたいなあ♡ その後また朝までイチャイチャしよう?】
【隆史:分かった。最近節約してるから金あるよ! どのホテルでも連れて行ってあげる】
【♡:じゃあここのホテルね! ロイヤルプリンセスホテル! 今週末に行こうね!】
今週末……今日の夜だ!
絵美は急いで母親に子供を預ける約束をして、その時が来るのを待った。
夜夫が出かけると、ウィッグと帽子で変装して追跡アプリで夫の後を追う。夫は電車に乗りロイヤルプリンセスホテルに向かった。
ホテル前で抱き合うふたりのシルエット。
夫と若い可愛い女性だった。怒りのあまり血の気が引いていく。
「たかちゃん会いたかった~! すごい楽しみにしてた!」
「萌ちゃん俺も楽しみにしてた~。お店の外じゃなかなか会ってくれないんだもん」
「ごめんね~萌も資格勉強とかで忙しくってー。奨学金とか返さなきゃだし」
「じゃあまた俺が支援しちゃうよ! だからまた来週にでも会おうよ」
二人は仲睦まじく腕を組むとホテルへ歩き出した。
絵美は必死に耐えた。
落ち着くの。勉もいるし、離婚なんてしても生活が苦しくなるだけ。それに食事をするだけかもしれないし。店員と客ならまだ我慢して……
「本当に?」
絵美は飛び上がった。背後に見知らぬ男が立っていたのだ。
「だ、誰ですか?」
男はタキシード姿で青白く、長身だった。
「私は悪魔見習いです」
「悪魔見習い?」
眉を寄せて男を見る。変質者か何かと絵美はたじろぐ。
「実は私、人の寿命の管理を任されていましてね。この度あなたの担当になったんですよ」
「どういうこと?」
絵美が問いかけると瞬時に男は絵美の背後に立つ。
「あなたは今、ひっどい憎悪を持っています。そりゃもう凄い。天性の憎しみ方です」
男はニヤニヤとしてホテルのレストランで談笑する隆史と萌花を指で指す。
「あの二人に痛い目に遭って欲しいでしょう?」
「どうしてそれを……」
「あなたの憎悪があの二人にたっぷり注がれています。本当に美味です。最高の憎悪です」
男は夢見るように答える。
「あなたの憎悪は人の普通よりも強力で野性的。そう本能的! 私は好きですよそういうストレートな獣みたいな憎悪」
「待ってください。変な宗教ならやめてください」
絵美が背を向けようとすると目の前に男が立ちふさがる。
「良いんですか? こんなチャンス滅多にないんですよ? あなたに復讐の力を授けようと思うんです」
「復讐の力?」
「はい。勿論条件付きですけれどね」
「た、例えば?」
男はにやりと笑って頷く。
「あなたの寿命20年です」
絵美は背筋が冷たくなった。そんな絵美に男は優しく微笑む。
「そんな顔をしないで頂きたい。あなたは本当に運がいいんです。だってあなたの寿命、100歳なんですから」
「私の寿命が100歳?」
男が満足げに微笑む。
「多少平均より短くはなりますが、いい特典が盛りだくさん! まずあなたが復讐しても証拠は残りません。人前で二人を刺そうが誰もあなただと疑いませんし証拠も出ません。そして二人はあなたに危害を加えることが出来ません。社会的制裁も含まれます。あと金銭。復讐にはお金が必要でしょう。もちろんたっぷり援助させていただきます」
呆然と男の話を聞く絵美。しばらく沈黙したあと、一瞬強く目を閉じて俯く。
「で、でもまだ肉体関係を持ったわけじゃ……」
言いかけて男が吹き出す。
「絵美様。ほら、ご主人が食事を終えますよ。ついて行きましょう」
「待って! こんな格好じゃ」
「良いじゃないですか」
男が絵美の手を取ると、上品な赤いワンピースを着て金のピンヒールを履いていた。
「え?」
「どうです?」
男が鏡を背後から取り出して絵美を映すと、そこには整った顔立ちをした見慣れない女性の顔があった。
「さぁ行きましょう」
男がエスコートするとホテルの中へ絵美を誘う。
エレベーターホールに着くとちょうど目の前に隆史と萌花が寄り添って並ぶ。
「たかちゃんディナー美味しかった~。また来ようねぇ」
「おう絶対来るし。俺らマジでラブラブだよね」
隆史が萌花の腰に手を回すと彼女も頭を寄せる。
絵美は頭の血管が切れそうだった。体が震えて叫び出しそうになるのを男がくすりと笑って宥める。
「こんなの序の口です」
耳元でぽそっと男が絵美に囁く。
エレベーターが来て二人が乗ると男に促されて絵美も続く。
「萌ちゃん」
主人が呟くと萌花の頬にキスする。
絵美はぎょっとして固まった。
「やだ~たかちゃん恥ずかしいから~」
萌花は体をくねらせながら隆史の腕に抱きつく。
エレベーターが止まると二人が降りていく。それに続いて降りると、男が静止した。
「彼らには私たちの存在はその辺にいる他人のような存在です。居てもいなくても関係ないのです」
「これもあなたの力?」
「まあね」
男がウィンクして前を向くと絵美もそれに倣う。
隆史と萌花が談笑しながら部屋へ入っていく。
「私たちも入りましょう」
「え!?」
驚いて歩き出した男に声を上げる。
「流石にそれは……」
「大丈夫です。ただし我を忘れて二人に危害を加えないように。術が解けてしまいますので」
男が品良くドアを開けると絵美を招き入れる。部屋の中から男女の笑い声が聞こえてくる。
「萌ちゃん肌キレイ~! 嫁のたるんだ肌とは大違いだわ」
「嬉しい~。たかちゃんも腕逞しいねぇ」
風呂場から響き渡るはしゃいだ声。ベッドの上には脱ぎ散らかした服と下着。
「覗かれます?」
男が口角を上げて風呂場を示す。
震える手で浴室のドアを開けるとバスタブで抱き合う二人がいた。
「マジすべすべ! あぁ早く離婚して嫁から解放されたい! 生活費とか掛からなくなるし。あいつまじ邪魔!」
「たかちゃんお口悪いよ~? 奥さん可哀想でしょう?」
クスクス笑いながら隆史にまたがる萌花。その萌花の胸に何度もキスする隆史。
――絵美の中で何かが切れた。
浴室のドアを閉める。
不思議と絵美の体も手も震えていなかった。
「契約します」
にこやかに笑う男に絵美の顔に戻った顔で言う。
「寿命をあげるから、私に復讐の力を頂戴」
「もちろんです。どうぞお楽しみください」
男と握手を交わす。
絵美の顔が暗く微笑んだ。