私の居場所
天然の木材が香る古い窓から、まだ白く靄のかかった朝日が作業場を照らしていた。十分すぎるほど明るくても部屋のライトは常に灯り、自分の影で製品に影ができることなく作業は進められる。
ミシンの動いては止まりを繰り返す音に、アイロンの蒸気が噴き出す音、台車に乗せた製品を運ぶ音に、指示を出す人の声。
私は作業台で針を手に、垂直にボタンの穴を通って生地へと刺した。決して斜めに刺してはいけない。
生産性よりも確実に「良い品」を作ることが求められる、オーダーメイドスーツの作業工程はそういうものだった。
ボタンが付いたら次はアイロンで仕上げに入る。つまり私の作業は製造過程において、最後の締めというわけだ。
机の上には、50近くもある番号のふられた小さな引き出しの付いた棚がある。中に入っているのは、もちろんボタン。
その他に企画書とハサミと針。それ以外の余計な物は置かず、背もたれのない丸椅子に座り今日もこの日常を淡々とこなす。
10時を知らせるメロディーがスピーカーから流れてきた。
この音はこの辺で作業をしている人達が、休憩に入る合図だった。工場全体で働く200人近くが一斉に休憩を取ると、休憩所となっている食堂に入りけれなくなってしまうので、時間差で休憩に入ることになっているのだ。
「真央ちゃん、行くわよ」
隣で作業をしているネーム担当の日向さんは、いつも何かと私の面倒をみようとしてくれる。
息子さんは私よりも年上のようだ。
「ほらほら、行きましょ。仕事がしたくてしょうがないのはわかるけど」
『はい』
このくらいの年の人は普通にユーモアが出てきて羨ましい。私もいずれおばさんになったら、こうなるのだろうか。
後ろでアイロン作業をやっていた金井さんが機械のスイッチを切って、『やあ 、おつかれさん』と手袋のままで手で合図を送ってきた。
『お疲れ様です』
金井さんは私と同じ二十代くらいの男性で、彼は耳が聞こえないらしい。だから口の動きだけで何と言っているのか読まないといけないが、挨拶程度であれば普通に口の動きだけで言葉を交わせていた。
耳が聞こえない人に適切な表現ではないかもしれないけど、彼はすごく明るくて、幸せそうで、私とは違って見えた。
休憩所に着くと、みんな暗黙の了解で、いつもの席にいつもの人が座っていて、雑談や笑い声が広がっていた。
「真央ちゃん、これ。はい、どうぞ」
私もいつもの席に着くと、日向さんがお茶の準備をしていた。このテーブルに座っているのは、私を含め6人。最初は私も手伝おうとしたのだけど、誰が何をするのかも何年も前から決まっているらしく、私はみんなが飲み終えたマグカップを洗うのを手伝っている。
「はい、これは私から」
みんなが持ち寄ったお菓子が、それぞれに配られる。
「私はね、のど飴。これしか家になかったもんだから。でも丁度いいわね。真央ちゃんの喉が早く良くなりますようにってお願いしなきゃ」
「そうそう、若いんだから大丈夫よ。年寄りはこうはいかないんだから。一度あっちが痛くなると次はこっちって、ねぇ」
「ほんとほんと」
「真央ちゃん、どんな声してるのかしらねえ。美人さんだから楽しみ」
『いや、そんな』
「こらこら、プレッシャーかけないの。ゆっくりでいいのよ。いつか良くなるのは間違いないんだから」
『だと良いんですけど』
私はある日急に声が出なくなって、もう1年が過ぎようとしていた。
それまでやっていた販売の仕事を辞めたものの、休養を取ってゆっくり休むわけにはいかなかった。
だから、ここでは職業安定所の人に紹介してもらって働くことができている。
みんなの話を聞くのは楽しい。
息子が反抗期でとか、姑とこんな事があって、なんて話も同世代と居るだけでは普段聞くことなんてない。
ただ残念なのは、私は会話に入れないことだ。
短い相槌を打ったり、挨拶を交わす程度しか通じない。ノートとペンを持ってきて、なんてことは考えない。話のテンポを狂わせてしまうだろうし、それに何より、世代が違いすぎる。
こうして仲間に入れてくれるだけでもありがたく思わないと、と自分に言い聞かせた。
金井さんは休憩所にはいなかった。金井さんはいつも外の花壇のブロックに腰掛け、同じ耳が聞こえない人と手話で会話をしている。
私には彼らの苦労はわからない。
どういう感じなんだろう。
私も 、このまま口がきけないままなら手話が必要になるのだろうかと考えることもある。
今のところ、全く治る様子がないから。
「この仕事はどう?年寄りばかりで退屈でしょう?」
『いいえ』声が出せたら、もっといろんなことが伝えられるのに。いつもそれが出来ない事がもどかしい。
「こんなボロい工場で高級スーツを作ってるなんて、誰も思わないでしょうね」
「ほんと。お客さんが見たら『いや、ちょっと』とか言われちゃいそうよね」
みんな「ほんとね」と言いながら笑ってる。
「逆に味があっていいって言ってくれるかもよ。機械じゃなくて人の手で一枚一枚作ってるんだから、ねぇ?」
うんうん、と頷いた。ボロいとかどうとかではなく、こんなに優しい人たちが作っているから良い物が出来てきているんじゃないか、なんて思いたくなる。
それに、ここは何十年も続く工場だ。きっとお客さんからの確かな信用もあるのだろう。
みんなが飲み終えたカップを流しに運んで、スポンジで流していく。隣で拭き上げてくれる人がいて、そして終わると、また作業場へと戻る。
カーテンも付いていない格子の窓を見上げる。
透き通った雲が、風に流され形を変えた。もうすぐ春だ。
スーツの生地にアイロンが当たる香り。
規則正しく、まっすぐに糸を紡ぐミシンの音。
私も、針と糸を出し作業の準備に取りかかる。
《お前、バチが当たったんだよ》
《ほら、いつも偉そうな事ばかり言って、結局何も残んなかったじゃない》
《いつも人を見下すような事ばかり言ってたくせに、自業自得でしょ》
みんな……私が声が出なくなった途端、好き勝手言ってたな。
いや、どうなんだろう。いつも好き勝手言ってきたのは私か?
私は本当にバチが当たったの?
医学的には違うみたいだけど、普通に病名付いてるし。
どうして急に声が出なくなったのか?わかりません。
何かを見て特別ショックを受けたわけでもない。犯罪に巻き込まれたわけでもない。ある日、急に。
疲れてた?仕事しすぎった?そうだっかな。
これはバチが当たった説も否定出来なくなってきた。
ただ、いいバチだったな。
口が悪い人にはよくある話なのかもしれないけど、みんな味方になってほしい時にはすり寄ってきて、病気になった途端、これまでの言動を批判された。
そんな奴は、もうみんな居なくなっちゃったけど。
ここへ来てからは何も喋らず、ただ大人しく人の話を聞いていると、特に誰が誰とも争ったりしていなくて私が思ってた以上に世界は平和だった。その中にいる私はまるで異物のような違和感だ。
私はいつも、誰かより優位に立たなきゃ気がすまなかったのかな。
だからもう少し、この世界にいたい。
声が出なくならなければ決して出会うことのなかった世界。
バチが当たってせっかく与えられたこの場所で、私も幸せになれる気がした。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。