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⑴ひだまりヶ丘の微笑

 新築の塗料の香りがまだほのかに鼻腔をくすぐる白い壁。


 入念にワックスがけされた床には、光が滑るように反射し、眩しいほどの輝きを放っていた。


 窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえ、新緑の葉が風にそよぐ音が聞こえる。


 一見、完璧なまでに平和な新居。しかし、その完璧さこそが、湊の心を不穏にさせていた。



 菜穂は、真新しいシステムキッチンに目を輝かせ、広々としたリビングをうっとりと眺めていた。


 無垢材の床の感触を確かめるように、裸足で一歩踏み出す。


 隣では、光希が新しいおもちゃの車で楽しそうに遊んでいる。


 その無邪気な笑顔を見て、菜穂は幸せを噛み締めていた。



 隣人たちの歓迎は、あまりにも完璧だった。


 笑顔はまるで型に嵌めたように均一で、言葉の一つ一つに計算された優しさが感じられた。


 特に、隣家の美佐子の微笑みは、まるで蝋人形のように完璧で、生気が感じられなかった。


 自治会長の近藤の挨拶は、丁寧ながらもどこか慇懃無礼で、その瞳はまるで湊の心の奥底まで見透かしているようだった。



 歓迎パーティーの夜、近藤から手渡された「ひだまりヶ丘住民手帳」。


 表紙には、不気味に笑う太陽のマークが刻印され、湊は鳥肌が立った。


 手帳のページをめくるたびに、言い知れぬ不安が彼を襲った。


 それは、住民たちを管理するための道具のようだった。


 この「ひだまりヶ丘住民手帳」は、一体何のために存在するのか?



 新居での生活が始まり、菜穂は真新しいキッチンで料理をするたびに、隣人たちがくれた大量の食材に戸惑っていた。


 笑顔で受け取ったものの、その押し付けがましいほどの親切と、常に完璧であろうとする姿に、彼女は息苦しさを感じ始めていた。




 ある日、光希が「ママ、お隣のおばちゃん、いつも笑ってるけど、目が笑ってないよ」と呟いた。


 その言葉に、菜穂はハッとした。


 子供ならではの純粋な感性が、彼女が感じていた違和感の本質を言い当てたのだった。



「みんな、少し変わってると思わない? あの笑顔も、親切すぎるのも…」


 彼女は恐る恐る湊に打ち明けたが、彼は取り合おうとしなかった。



「考えすぎだよ、菜穂。新しい環境に慣れるのに時間がかかるだけさ」


 湊は、そう言って無理やり笑ってみせた。


 しかし、彼の心は恐怖と不安で張り裂けそうだった。


 妻を心配させたくない一心で、彼は平静を装っていた。



 しかし、ゴミ捨て場で偶然耳にした近藤と美佐子の会話は、湊の疑念を決定的なものにした。


「例の件、うまく処理できたのか?」


 近藤の低い声は、まるで毒蛇が獲物に忍び寄る時のように静かで不気味だった。


「ええ、でも...」


 美佐子の声は震え、恐怖に満ちていた。


「大丈夫だ。誰も気づいていない。我々の平和を守るためには、必要な犠牲だったのだ」


 近藤の言葉は、まるで氷の刃のように湊の心を突き刺した。



 湊は、この出来事を菜穂に話そうとした。


 しかし、彼女は聞く耳を持たなかった。


「湊、またそんなこと言って。近藤さんは、みんなのために頑張ってるのよ。疑うなんて失礼だわ」


 菜穂の言葉は、まるで別人のように冷たく響いた。


 湊は、妻との間に深い溝が生まれていることを実感し、孤独感に苛まれた。




 ある日、美佐子から夕食への招待を受けた。家族3人で美佐子の家を訪れると、彼女は温かい笑顔で迎えてくれた。


 しかし、その笑顔の裏に隠された悲しみと孤独を感じ取った湊は、彼女に対して特別な感情を抱き始めた。



 夕食後、光希がリビングに飾られた絵に興味を示した。


 それは、美しい少年が草原で微笑む姿を描いたものだった。


「この絵、綺麗だね」


 光希が指をさして言うと、美佐子の表情が一瞬にして曇った。


「これはね…」


 美佐子は言葉を詰まらせ、光希の頭を優しく撫でた。


「私の息子なの。あなたと同じくらいの歳だった時に…いなくなってしまったの」



 その瞬間、美佐子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 彼女の震える声と、溢れ出す感情に、菜穂は息をのんだ。


 光希は、何も言わずに美佐子の膝に寄り添い、小さな手で彼女の涙を拭った。



 その光景を見て、湊の心は締め付けられるように痛んだ。


 美佐子の悲しみは、彼自身の抱える不安と共鳴し、彼を突き動かした。


 彼は、このコミュニティの異変に対する疑念を捨てきれず、たった一人で真実を暴こうと決意する。


 美佐子の息子が失踪した原因が、このコミュニティの闇と深く関わっていることを確信した湊は、彼女から真実を聞き出すことを決意する。


 その涙は、息子を失った悲しみと、近藤への恐怖、そして、娘への愛情が入り混じった、複雑な感情を表していた。



 その瞬間、菜穂もまた、コミュニティの異変に気づき、夫と共にこの悪夢から抜け出すことを決意する。


 菜穂の心は激しく揺さぶられた。


 美佐子の涙、そして、それを見て何も言えずに立ち尽くす夫の姿。


 彼女は、自分がいかに無知で、愚かだったかを痛感した。


 菜穂は、美佐子の涙を見て、それまで目を背けてきた現実に直面せざるを得なくなった。


 彼女は、夫の言葉に耳を傾けなかったことを深く後悔し、彼と共にこのコミュニティの闇に立ち向かうことを決意する。


 強さと決意を秘めた瞳で、彼女は湊を見つめた。



「一緒に、この闇を暴こう」


 湊は、菜穂と光希を抱きしめ、力強く頷いた。


「ああ、必ずここから出してやる」


 彼の決意は、鋼のように固く、そして、燃えるような情熱に満ちていた。


 家族を守るため、そして、このコミュニティに隠された真実を暴くため、彼は孤独な戦いに身を投じる覚悟を決めたのだった。


 湊の決意は、菜穂と光希の心に希望の光を灯した。



 引っ越し荷物の整理中に偶然見つけた古い新聞記事には、「ひだまりヶ丘で少年失踪」の見出し。


 それは5年前の未解決事件だった。


 少年失踪事件だけでなく、自治会費の不可解な使途、夜中に響く奇妙な物音…。


 まるでパズルのピースのように、いくつもの謎が湊の周囲に散らばっていた。


「ひだまりヶ丘住民手帳」に記された住民たちの情報と、これらの謎が、どこかで繋がっているような気がしてならない。



 ひだまりヶ丘の夜は、漆黒の闇に包まれ、虫の音だけが不気味に響く。


 家々の窓から漏れる暖色の光は、まるで外界を拒絶するかのように、内側へと閉じこもっていた。


 ある夜、湊は、鼻をつくような生臭い匂いに顔をしかめた。


 それは、どこからともなく漂ってくる、得体の知れない悪臭だった。


 生温かい風が頬を撫で、それはまるで誰かの吐息のように感じられた。


 夜風は、まるで誰かのすすり泣く声のように、不気味に家の隙間を通り抜けていく。


 家々の窓から漏れる光は、まるで監視の目のように、湊たちをじっと見つめているかのようだ。



 真夜中、光希が突然目を覚まし、怯えた声で湊を呼んだ。


「パパ、怖い音がする…」


 湊は光希を抱き寄せ、窓の外を見た。


 すると、遠くの方で人々が集まっているのが見えた。


 彼らは、松明を掲げ、不気味な歌を歌いながら、ゆっくりと広場へと向かっていた。



 湊は、好奇心に駆られながらも、恐怖に震える光希を安心させるために、彼を寝室に残し、こっそりと外の様子を伺うことにした。


 広場に近づくと、住民たちが円になって集まり、中央には不気味に笑う太陽のマークが描かれた祭壇が置かれていた。


 近藤が祭壇の前に立ち、何かを唱え始めると、住民たちは一斉に跪き、祈りを捧げ始めた。


 彼らの表情は虚ろで、まるで魂が抜けたかのようだった。


 歌声は次第に高まり、異様な熱気を帯びていく。


 恐怖に震える湊の耳には、彼らの歌声が呪文のように響き渡り、心臓の鼓動が高鳴るのを抑えきれなかった。


 汗ばんだ手のひらで、湊はそっと窓枠を握りしめた。


 夜のひだまりヶ丘は、昼間の穏やかな顔とは全く異なる表情を見せていた。


 家々の窓からは、暖色の光が漏れ出ているが、それはまるで外界を拒絶するかのように、内側へと閉じこもっているようだった。


 遠くから聞こえる不気味な歌声と、時折、獣の遠吠えのような声が、静寂を切り裂いていた。



 湊は、息子の身を案じながらも、この異常な光景から目を離すことができなかった。


 得体の知れない恐怖が彼を支配し、逃げ出したい衝動に駆られた。


 しかし、同時に、この奇妙な儀式の意味を知りたいという好奇心も湧き上がってきた。



 広場の中央、祭壇の上に横たわるのは、紛れもなく美佐子の息子だった。


 一体、彼に何が起こったのか?


 そして、この儀式は何のために行われているのか?


 湊は、数々の疑問を抱えながらも、その答えを求めて、さらに広場へと近づいた。



 住民たちの輪の中に、近藤の姿を見つけた。


 彼は、黒いローブを纏い、不気味な笑みを浮かべながら、住民たちを扇動していた。



「さあ、共に祈りましょう。我らが神、太陽神アポロンに! 彼が、我々に永遠の楽園をもたらしてくれるでしょう!」



 近藤の声は、狂気に満ちていた。


 住民たちは、彼の言葉に呼応するかのように、さらに熱狂的に歌い始めた。


 その光景は、まるで異教の儀式を見ているようだった。



 その時、祭壇の上の少年の体が、微かに動いた。


 彼の周りには、淡い光が揺らめき始め、それは次第に強さを増していった。


 湊は、息を呑んだ。


 これは、光希の予知夢で見た光景と酷似していた。



「まさか…!」


 湊は、恐怖で体が硬直した。


 このままでは、光希の予知夢が現実のものとなってしまう。


 彼は、何かをしなければ…しかし、どうすればいいのかわからない。無力感と焦燥感が、彼を襲った。



 その時、湊の胸に、鋭い痛みが走った。


 それは、息子への強い愛情と、彼を危険から守りたいという父親としての本能から生まれた、理屈では説明できない確信だった。


 湊は、光希の身に危険が迫っていることを悟り、いてもたってもいられなくなった。



「光希!」


 彼は、叫び声を上げながら、住民たちの輪の中に飛び込んでいった。

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