9.私たちが残すもの
今日はまた、作家との打ち合わせだ。
桐島はペンドリー出版オフィス近くの喫茶店にいた。
今日打ち合わせをする作家は「グレース」だ。異世界恋愛をあまた書いて来た女性の作家で、既に多くのファンを得ており、彼女の本は何を出してもよく売れる。桐島は彼女の担当編集者であり、以前ファンタジー作品を一緒に作ったことがあった。
グレースの正体はベールに包まれているが、桐島は知っている。
グレースは実は、三人の子持ちの40代シングルマザーなのである。割に太ってはいるがふんわりとした優しい雰囲気の女性で、服装のみならず指先もいつだって美しく整えられていた。
桐島はグレースに内心憧れている。
彼女の小説の特徴といえば、流麗な文章、派手な世界観、それでいて繊細なキャラクターの描写、テーマの奥深さ──
ラノベと一言で言っても、彼女の作品は頭抜けている。単にヒットメーカーなどという言葉では言い表せない、作品の根底に流れる独自の哲学は女性たちから絶大な支持を寄せられていた。いわゆる〝信者の多い〟作家なのだった。
グレースは小花柄のワンピースを着、のっしりと現れた。既にその片手にはアパレルのショッパーをぶら下げている。早速買い物をして来たらしい。
「お世話になります、桐島さん!」
「グレースさん、またご一緒出来てよかったです」
グレースの初稿はもう仕上がっている。
二巻確約の契約なので、二巻の展開をどうするかをこれから話し合うのだ。
「引き延ばすのは読者にすぐ見切られてしまうから、もうひとつエピソードを入れようと思うの。三巻への引きが欲しいわけ」
話し合いは終始グレースが引っ張る。十年も作家を続け、作家業一本で生きて来た彼女は、そこらへんの編集者よりも読者や本のことを分かっているのだ。
桐島が安心して話を聞いていると、ふとグレースが何かに気づいた。
「あらどうしたの?桐島さん。今日、元気ないじゃない」
桐島はどきりとして顔を上げた。さすがは大作家──恐ろしいまでの観察眼がある。
「な、何で分かるんですかっ」
「だってお目めが腫れてる」
「うっ……」
桐島はたじたじになってから、グレースの優し気な微笑みに導かれてつい言ってしまった。
「……実は私、フラれちゃって」
「あら、そうなの?お付き合いしてたのは、男性?」
「そうです。結構長く付き合って来たので……」
「あらら大変。でも、そんなこともあるわよね」
こともなげにさらりと言ってのけ、グレースは運ばれて来た紅茶をゆったりと飲んだ。桐島は失恋話を余りにも軽く流され、きょとんとする。
「……さすがグレースさんですね。私も、そんな風に流せたらいいんですけど」
すると、グレースは秘密を共有でもするようにふふっと笑った。
「桐島さん。お別れって悲しいけど、でもね……出会えたことの方が重要なのよ」
「はあ……」
桐島がそう言って首をひねると、大作家は続けた。
「ほら、私たちもそうじゃない。何の関係も接点もなかった二人が、作家と編集者として出会ったの。そしてどんなに仲良くなったからと言っても、書籍販売が継続不可になると関係は一旦解消される。でも……作品は残り続けるでしょう?」
グレースの言わんことが分かって来て、桐島は力強く頷いた。
「そうですね。何かが終わっても、何かが残りますね」
「そう。その残った部分が大事なのよ。離れていても──何かがお互いに残ったと言う事実が、人生にとっては一番重要なの。出会いこそ、ものすごい偶然で、奇跡なのよ」
関係は消えても、心には残る。
「グレースさん、すごいな。私はそんな風に考えたこと、なかったです」
「私はそういうことを作品に書いて来たつもりよ。悲恋の物語だって、結末はあれでも、逆境に負けずに交換し合ったその時の感情が素晴らしいから読まれるんじゃない」
昨日恋人に自らの考えを否定された桐島は、グレースと話し合ってちょっと元気を取り戻した。
グレースに心の棘を何本か抜いてもらった桐島は、朝よりは軽い足取りで自宅へ帰って来た。
ベッドに寝転んで仮眠を取ろうとした、その時。
スマホがけたたましく鳴った。叔母の理枝子からだ。何だろうと思いつつ、桐島はちょっと苛立ちながら電話を取る。
「ちょっと乙葉!また着信拒否したでしょう」
桐島はその声を聞くや、頭を抱えた。
「お、お母さん……?」
「理枝子の携帯からかけてるのよっ。来週の、信吾君との食事会のことなんだけど」
「あっ」と桐島は青くなった。
「お母さん、それなんだけど」
「何?」
「私、信吾君と別れることになった。だから……食事会はもうしないの」
すると、急に美枝子が怒髪天を突いた。
「な、なんですってええええええ!?」
「お母さん、声おっき……」
「じゃあ、あんたその歳で独り身になっちゃったっていうことなの!?」
桐島はカチンと来た。
「……!何よその言い方」
「あーあ。前から思ってたけど、乙葉、ちょっと仕事のし過ぎなんじゃない?くだらないライトノベルなんか作ってないで、さっさと婚活に身を入れた方がいいわよ」
桐島は目を見開く。
「……今、何て言ったの?お母さん」