8.大事な話
相良信吾とは、大学時代から付き合って来た仲だった。
相良は百貨店に就職し、現在は外商の仕事をしている。桐島は出版社の編集者。お互い激務ではあったがどうにか時間を見つけ、会おうと頑張って来た。
もうお互い30歳になるのでそろそろ結婚を、と、両家へ挨拶に行こうと話していた矢先の別れ話だった。
「えっ、別れ……?」
「だから言っただろ、大事な話だって」
「あのっ。夜……十一時ぐらいでいい?」
「……」
「信吾」
「……もういいよ」
電話は切れた。
桐島は呆然とスマートフォンの画面を見つめた。
(……なんで?え?)
急すぎて、心がついて行かない。
しかし、仕事はしなければならない。
Zoomの画面に、約束通りイラストレーターの女性の姿が映し出される。
「桐島さんこんにちはー!作家さんから貰った資料を確認したんですけど、髪色に関しまして……印刷だと暗めに出るので、もうちょっと明るくしたいと言う作家さんからの要望がありましたよね」
「……はい」
「なので、表紙のヒロインの髪色について三案用意しました。①明るめの色にするか、②彩度を上げるか、③陰影に高低差をつけてあげるか……桐島さん的にはどれが良いですか?」
「……」
「桐島さん?聞こえてます?」
「あ、はい。聞こえてますよ~」
「さあ、選んでくださいっ」
桐島は自分の中の陰影を隠すように言った。
「③……ですかね。メリハリがあっていいかも」
人生には、メリハリなんかない方がいいけれど。
次の日、桐島はどうにか時間を作って相良と会った。
夜七時の、街角の小さなレストランで。
背が高く、大学時代からおしゃれだった相良は、今日も百貨店で仕立てたスーツに身を包み隙の無い雰囲気を醸し出していた。桐島は、今はそんな彼を恐れるようにうつむいている。
「別れるって……どうして?」
ようやく口に出来たのは、そんな言葉だった。相良は呆れたように問い返す。
「自分でも解ってるよね?」
桐島はぐっと言葉を飲み込んだ。
「仕事が忙しくて……ごめんなさい」
「そうじゃないだろ」
息が継げなかった。桐島は少し窒息気味になる。
「優先順位がおかしいんだよ」
それは桐島も分かっている。分かっているが──
「ごめん……」
繰り返される画一的な謝罪に、相良は苛立つように太く息を吐いた。
「仕事が忙しいのは俺もそうだし、そっちの事情もよく分かってるよ。でも、最近の乙葉は……明らかに人生より仕事を優先してるだろ」
「……」
「このままだと、結婚してもどうせ何かと理由をつけては乙葉は仕事を優先する。俺は、それはちょっと違うだろと思ってる」
彼の言いたいことはよく分かる。
けど──
「〝人生〟より?」
相良は桐島の言葉に顔を上げる。
「そうだろ。仕事って人生を豊かにするための手段じゃん。目的じゃないだろ」
「……そうかな」
「は?」
相良にとって、それは思わぬ返答だったらしい。訝し気に顔を覗き込んで来た彼に、桐島はきっぱりと言った。
「私は──本を作るのは、私の人生最大の目的だと思ってる」
相良はそれを聞いてより眉間の皺を深くした。
「何を言ってるんだ?」
「私は、本を作って暮らしていたいの。物語は作れないから、せめて本を作ることに携わっていたい」
「……」
相良は頷いた。
「そうか。それじゃあ、やっぱり付き合えないよ」
桐島は泣きそうだったが──それでも彼の意見に何度か頷いた。
「乙葉は昔から本の虫だったもんな。こうなるのは時間の問題だったのかもしれない」
「……ごめん」
「仕方ない。優先順位がおかしい、と言った事は忘れてくれ。お互い優先順位が違っていて、俺が君の基準を許せなくなったというだけなんだ。……今まで付き合ってくれてありがとう」
「……ごめんね」
想い合って暮らした六年の歳月を捨てるのは辛かったが、年齢を重ねて経験が増えるにつれ、お互い譲れない線引きが増えてしまったのだ。それ自体、誰を責めるべくもない。
そうなってしまった。ただそれだけなのだ。
相良とはそこで別れ、二人は別々の道を歩き出した。
桐島の化粧は、今宵、全て涙で剥がれた。
化粧落としもしないまま泣き続け、彼女は次の日の朝を迎えた。
土曜の朝日を浴びながら、桐島は呟く。
「……仕事、しなくっちゃ」