7.彼女は出版ジャンキー
桐島は「後宮祈祷師」の冒頭を読んでみた。なろうのテンプレを意識した〝有能者の追放〟から始まり、主人公が金を稼ぐモチベーションもはなから記されている。
ベースはファンタジーなので、ストーリー構成の自由度は高そうだ。
「後宮ものかぁ……狙い目かもね。ブクマしとこうっと」
しかしこのエンドレス・ファイアーとやら、妙に筆が早い。
なろうに投稿してからひと月ほどの作家だが、長編ファンタジー14万字を一週間で完結させ、一万字ほどの短編を五作連続で投げた上、新連載にも意欲的だ。
(文章も上手だし、もしかしたら公募歴の長い人か、かつてプロ作家だったりするのかな)
桐島がスマートフォンを置くと、急にそれが着信音を発し始めた。慌てて再び手に取ると、それは桐島の母・美枝子からの発信だった。
嫌な予感にどきりとするが、桐島は電話に出る。母が奇妙な時間帯に電話をかけて来るのは、いつものことだ。
「はい、乙葉です」
美枝子は挨拶もなしにこう言った。
「乙葉?今、藤崎のデパ地下に来てるんだけどね、来週、信吾君に渡すお土産は何がいいかしら?」
「お母さん……私、仕事中だからそういうことはメールで」
「そうは言うけど乙葉。あんたもいい年なんだから、今の彼氏は逃さないようにしないと」
娘の交友関係に土足で踏み込んで来るのも、いつものことだ。
「もういいよ、そういうの。電話切るよ」
「だから、何が……」
「ヨックモックとかでいいでしょ?もうっ」
桐島はすぐさま「母」を着信拒否にぶち込むと、深いため息をついた。一年ぶり15度目だ。
桐島の母・美枝子は女手一つでひとり娘の乙葉を育て上げた。大学まで行かせた娘が東京の出版社で正社員として働いている、というのが美枝子の唯一の誇りなのだ。桐島は、一応その親子ごっこには応じてあげている。母の生き甲斐は、娘の成長だけだったのだから。
でも、と桐島は思う。
(そろそろ子離れして欲しいわ。一体いつまで、私はお母さんの従順な子どもでいなくちゃならないの?)
思えば、本や漫画の世界にのめり込んだのもその鬱屈がきっかけだった。
桐島は母から付き合う友人さえ制限され、母の理想の娘になるべく、習いたくもない習い事に幾度となく突っ込まれて来た。美枝子はパートを掛け持ちしていたので、親子が顔を合わせる時間は日にほとんどない。夕飯は夜の九時。美枝子のパート先の余った弁当が、ふたりの命を繋いでいた。
しかし苦痛な習い事地獄の中にも、天国が隠れていた。
桐島は、その習い事教室でたくさんの本や漫画に出会えたのだ。
通っていたピアノ教室には待ち時間の間に読む漫画雑誌が置いてあり、毎月新しい漫画にありつくことができた。書道教室の本棚には平安時代の漫画や三国志の小説があった。体操教室には体操の漫画が、英会話教室には赤毛のアンの日本語訳があった。どれも子どもにその習い事への興味を持たせる目的で置いてあったのかもしれない。だが桐島は、それらに心を救われた。
数々の習い事をやらされ、彼女が一番好きになったものは、本や漫画だったのだ。
だからある意味、桐島は母に感謝している。
こうして作家と仕事が出来るのも、本を作り上げる過程を楽しめるのも、母が習い事や勉強を続けさせてくれたおかげなのだ。そして母の影から逃れられたのも、あの頃の読んだ本に助けられたおかげだった。
絶対に母の言いなりになって、故郷には戻りたくない。
日本中の書店に、自分が作った本を並べたい。
その二大欲求が、今の桐島を支配していた。
編集者にとって、思い描いていたような本が完成し手元にやって来るのは、何にも代えがたい達成感があるものだ。そしてそれが売れたら売れただけ作家やイラストレーターと喜びを分かち合える。売り上げ実績として給与に反映される。それが嬉しくて、また新しい才能を掘り出して──その繰り返しの毎日が、桐島を出版業に陶酔させるのだ。
「そこの出版ジャンキーさん」
隣のデスクから香川がそう声をかけて来る。桐島は我に返った。
「食べる?こないだ作家さんにもらったヨックモックのシガールだよ」
桐島はちょっと恥じ入りながら菓子を貰う。
「今の話……聞いてた?」
「ああ、ヨックモックとかでいいんでしょ?」
「……!」
「美味しいよね、ヨックモック」
桐島がいじいじそれを齧っていると、香川は心配そうに尋ねた。
「ねえ、昼休憩取ってないでしょ?」
「……あ、そうだね」
「駄目だよ桐島さん、ただでさえ痩せてるのに食べないなんて」
「……食べてる時間が勿体なくて」
「死ぬよ?いつも言ってるけど……」
桐島は華奢で可憐な見た目に反し、健康にだけは自信があった。過信と言われればそれまでだが、何かあるまではどうにでもなれと思って生きている。
「桐島さん。健康はさ、一度損ねると戻らないんだよ。うちの兄貴も、一回精神ヤラれてから何度も体壊すようになっちゃったし」
「……」
「時間勿体ないなら何か買ってこようか?私、これから作家さんと喫茶店行くから」
「じゃあサンドイッチお願いしていい?私、これからイラストレーターさんとZoomで打ち合わせ」
「いいよ~。一時間後に帰って来るね」
香川は慌ただしく鞄を肩にかけて去って行った。
桐島は再びパソコンに向かい合い、作家から預かった原稿に改稿提案を入れ込んで行く。すると、またけたたましく電話が振動した。
(?お母さんは着信拒否したのに……)
そう思ってスマートフォンを手に取ると、思いがけない相手からの電話だった。
〝相良信吾〟
どきりとして桐島は電話を手に取る。
「はい、乙葉です」
しばし間があって、電話相手の相良は言った。
「ごめん。ラインしたんだけど、既読がつかなかったから」
「そうだったの?あ、本当だ……ちょっと通知が溜まっちゃって丸一日気づかなかったみたい。ごめんね」
「あの。ちょっと急な話だけどいいかな?」
「うん、何?」
「来週の、乙葉のお母さんとの食事会なんだけど……ちょっとキャンセルしたい」
少し不穏な空気が漂ったが、桐島は努めて明るく言った。
「どうしたの?何か外せない予定でも入った?」
しばらく間があって、相良は言った。
「今夜、会って話そう。大事な話がある」
桐島は急いでパソコン上のスケジュール表を確認した。今夜九時からは、作家との電話打ち合わせが入っている。
「ごめん信吾。今日の夜は外せない用事が」
「それってどんな用事?」
まるで語尾を遮るような話し方の彼に桐島はむっとしたが、
「作家さんとの打ち合わせ。忙しい兼業作家さんで、この時間しか電話出来ないって言われて」
と答えると、長い沈黙のあと相良は言った。
「別れよう」
衝撃の展開に、ぽかんと桐島は口を開けた。