57.不滅の炎
四月下旬。
初夏の陽気の、明るい朝。
穂村はパソコンと向かい合っていた。彼は手元にある扇風機の資料を何度も読み返し、文章を打ち込み続けている。
穂村の再就職先は広告代理店だった。彼が任されているのは、電子機器の取扱説明書の文章を書く仕事だった。小説を出していることと、前職が精密機械のオペレーターであったことが決定打となり、再就職先が決まったのだ。
彼は週に四日はこのように片田舎でリモートワークをし、週に一回は都内のオフィスへ出勤することになっている。
現在の穂村はそのような業務形態で働きつつ、時間があれば小説を書くという生活を送っている──
と、その時。
けたたましく私用の電話が鳴った。穂村はそれを手に取る。
角泉社の担当編集、篠原翼からだ。
穂村が電話を受けると、向こう側で篠原が興奮気味にまくし立てた。
「すみません、お休みでお忙しいところ!」
「いーえ。全然」
「早速本題なんですが、いいお知らせです!」
「……はい」
「〝転生捜査官〟重版が決定しました!」
穂村はその衝撃でスマートフォンを取り落とした。
慌てて拾い上げ、耳を疑う。
「へっ?重版……?」
「いや~、予想してなかったですね!」
「……!?ちょっ……予想はしといて下さいよ!」
「ほんとですよね~はっはっは」
篠原が向こう側で朗らかに笑う。穂村は少しイラッとしたが、篠原のことだろうから本当にそうだったのだろうと気を取り直した。
「ということは……」
「追加の印税が入ります」
「!マジで……!?」
「あとはですねー、重版に伴い続刊が決定しました」
「!」
「二巻を出しましょう、二巻!」
穂村の腰から力が抜け、彼は桂文枝のごとく大袈裟に床に寝転がった。
「に、二巻……」
「ここからはスピード勝負です。読者に忘れ去られないよう、今年中にさくっと二巻を出してしまいましょう」
「……はい。書き溜めもありますし、大丈夫です」
「期待してますよファイアーさん。そうだ、重版のお祝いにどうですか?またお食事でも」
穂村はカレンダーを見上げた。
そろそろゴールデンウィークだ。
「いいですね。ゴールデンウィークで空いてる日なんかありますか?」
「ゴールデンウィークなら、五月以降が空いております!」
「では、六日にお祝いしましょう」
「何が食べたいですか?」
「あ、焼肉以外で」
篠原は電話の向こうで首を傾げた。
「え……?や、焼肉以外……?」
「はいっ」
「??……分かりました。また連絡します」
「よろしくお願いします!」
穂村は電話を切るや、今度は桐島にメールを打つ──
『〝転生捜査官〟なんと重版決定です。
重版したら、売れっ子ってことでいいですよね?
焼肉奢ります!』
五月五日。
赤坂の片隅にある、高級焼肉店の個室にて。
あつあつの炭火で焼かれた上ロースと牛タンから滴る肉汁がはね、火の中を舞い踊っている……
「んー、おいひい……!」
穂村の前では、桐島が焼肉に舌鼓を打っている。
それを眺めながら、彼は親戚の姪を見るような目で微笑んだ。
「こうして焼き肉が食べられるのも、桐島さんのお陰ですから……」
「おいひいです」
「ここまで、本当に長かったです」
「おいひい」
「ちょっと……聞いてます?」
「聞いてます聞いてます。えーっと、そこのタン焦げますよ」
「あっ、やべ」
肉が美味し過ぎて話が広がらない。
焼き肉がおおかた片付けられ、二人にデザートのアイスケーキが運ばれて来ると、桐島はしみじみと言った。
「よかったです。ファイアーさんが売れて」
穂村は苦笑した。
「まだまだこれからですよ」
「そんなこと言ってますけど、重版なんて滅多にないことなんですよ!」
「へへへ……」
「一時はどうなることかと……よかった。でも私、ちょっとまだ後悔してることがあるんです」
「へー、何をですか?」
桐島はしばらく気まずそうに黙っていたが、小さな声で言った。
「ファイアーさんを……打ち切り後、孤独にしてしまったことです」
意外な言葉に、穂村は首を横に振る。
「孤独なんて別に……慣れっこですよ。作家なんて書いてる時も闇落ちしてる間もそんなもんですし、気にしないでください」
「あの、それがいけないんです。作家は孤独だって──出版社も、あまつさえ作家自身すら──言ってしまえるようなこの環境が」
「……?」
「ファイアーさんは、何でこの世に編集者がいるんだと思いますか?」
穂村は虚空を見上げて考えた。
「そりゃ、作家の創作の手伝いとか……出版社との橋渡しとかをするため……ですか?」
桐島は顔を上げ、まっすぐ穂村を見据えると
「それもありますけど、一番大切な仕事は……」
と言いつつ、続けた。
「作家を孤独にしないことですよ」
穂村はその言葉を受け、しばらく考え込んでしまった。
「なるほど……」
「去年の私は特に〝編集者って何なの?〟と悩み、ちょっと無力感に苛まれていました。でもファイアーさんと関わって、やっと答えに辿り着いたんです」
今までに見たことのない晴れやかな顔をした桐島が目の前にいて、穂村は息を呑む。
そんな作家の表情を見届けたかのように、桐島は続けた。
「編集者は、作家に孤独を感じさせないためにいるんです。孤独って本当に辛いけど、誰かに励まされたらちょっとは和らぐじゃないですか。そして、隣に励ましてくれる人がいれば、また書こうって思って貰える。私たちは事務作業もこなす、作家さんの応援団だったんです。そう考えるようになってから、色々悩んでいたことが腑に落ちました」
穂村は努めて微笑んだ。
「確かに……出版は、作家ひとりでは受け止め切れないことが次々起こりますもんね」
「だから、作家さんを〝孤独だ〟と思わせた時点で編集者としては失敗しているわけです」
「きっ、桐島さん……?」
「私はあの時、失敗してしまったようで……」
「ちょっと元気出して桐島さん……アイスケーキ、もう一個お替わりしていいですから」
「ふふっ」
「杏仁豆腐でもいいですよ!」
二人はひとしきり笑ってから、お互いにほっと肩の力を抜いた。
「正直、あれから私はずっとファイアーさんからの信頼を回復したいと思っていました。作家さんから〝作家の孤独なんて分からないだろう〟と言われることが多いんですが、だからこそ分かりたい、分かろうとしなければと……そのために、私に出来ることを探そうと」
「こっちだって編集者の苦労なんか分かりませんよ。そこはお互いさまでいいんじゃないですか」
穂村はそう言いながら、ふと思った。
業界の難しいことは分からないし、何をして欲しいわけでもないけれど、彼らがそこにいるということが大事なのかもしれない。
横にいて、相談に乗って貰ったり、慰め合ったり、時には蹴とばし合ったりしながら、何かひとつの作品を作り上げていく。たとえそれが商業的に失敗したとしても、編集者がいることで作家がひとりで失敗を抱え込まないようにしたり、誰かのせいに出来たりする。作家の漆黒の闇を少しだけグレーにして和らげる。血の涙をピンク色に調整する、そういった〝まぜものの白〟を担うのが編集者なのだ。
そして場合によっては、作家生命を守るための行動に出なければならない。
今回のように──
「僕の方こそ、桐島さんがいなかったら筆を折っていましたから」
「いえいえ。再び筆を取ったのは、作家さんの意思があったからです」
「たとえそうだとしても、僕にも言わせてください。桐島さんは命の恩人です。何度も僕の作家生命を助けてくれました」
すると。
桐島は神妙な顔から一転、ニッコリと笑う。
穂村が呆気に取られていると、彼女はこう言った。
「では、恩人の出版社で別の推理モノをもう一本書きませんか?うちでも、重版出しましょう!」
穂村は怪訝な顔になる。
「……桐島さん?」
「ご相談ならいくらでも受け付けますよ?一緒に悩みながら、次の異世界ミステリーを作って行きましょう!ねっ」
桐島の瞳に、炎が燃えている。
穂村は目をすがめた。
「……そういう魂胆か。出版ジャンキーめ……!」
「だから言ったでしょう?〝私はどんな作家さんにも売れて欲しいと思っています〟って」
「売れた途端、これかあ……」
「重版作家になったら、他社の目が届いてこれから一気に忙しくなりますよ。私が売れっ子エンドレス・ファイアーに執筆を依頼するなら、今がチャンス!」
「今の僕をボーナスステージみたいに言うのやめてください!」
とはいえ、穂村はどこか幸せそうに笑っている。
「じゃあ次のお話、考えましょう。今はどんなジャンルが受けてますか?」
桐島はiPadを取り出した。
「今は、これです!このジャンルでミステリー書きませんか?」
今宵も都会の片隅で、地獄の案内人が新たな地獄の蓋を開ける。
だが渾身の一冊のために落ちる地獄があるならば、今の穂村はいつだってそこに落ちていいと思っている。
作家にとっての天国は、地獄の中にあるのだから──
その業火に光を見出した穂村には、もう怖いものは何もなかった。むしろその業火が絶えず続くことを、今は祈っている。
書籍化地獄の、その先へ。
桐島に背中を押されながら、再び穂村は地獄への道を歩き始めた。