55.約束
そのようにして三ヶ月かけてどうにか十五万字を投げた穂村だったが、やはり書籍化打診は来なかった。
穂村は〝転生捜査官〟を一度エタらせ、放置することにした。
推理小説は書き上げるまでの難易度が高い。
穂村の無職期間も長期化し、貯金が底をつき始めていた。
時間は有限だ。仕方がない──
「アンラッキーな俺の人生だもん。そんなに上手く行くわけないか……」
某日。都内某所。
再び穂村と桐島は喫茶店にて向かい合っていた。
「ダメでした、推理」
意気消沈の穂村に、桐島は取り成すように笑う。
「〝転生捜査官〟面白かったんですけどね……」
「まあ、これが今の実力ですよ」
「でも、推理の勉強をした経験は出来ましたよ!」
「……」
穂村はうなだれた。
「いえ、書籍化出来ないっていうのも辛いんですけど、それよりも今は生活費がヤバくて」
「……あっ」
穂村の無職期間が、来月でいよいよ半年を迎えようとしている。
「そう……ですか」
「そろそろ就職活動をしなきゃと思ってるんです。だから、一旦執筆を中止しなきゃと思っていて」
「……」
誰しも、やりたいことをやりたい時に出来るわけではない。
転職、結婚、育児、介護、病気……人生はままならないことの連続だ。
桐島にも、それはよく分かっている──
それでも、彼女は穂村に言いたいことがあった。
「あの、ファイアーさん。いつでもいいんです。また、書いてくれますよね?」
穂村は少し悲し気に笑ったが、今日ばかりはこくりと頷いた。
「ブランクが出来ちゃうかもしれないんですけど……創作を再開したら、また相談してもいいですか?」
「はい。作品の契約期間内であれば、いつでも連絡して下さって構いませんよ」
「すいませんでした、色々とご迷惑を……」
「とんでもないです!あの、男性は仕事が途切れると色々と不安に思うことが多いかもしれませんが……特に女性作家さんなんかは、出産育児でブランクあってからでも出版なさってる方、多いんですよ」
穂村は目から鱗を落とした。
「あー。そっか、女の人は出産が……!」
「赤ちゃんの面倒を見ていると、どうしても保育園や幼稚園に預けるまでにブランクが出来てしまうんです。それでも頭にアイデアを溜めておいて、名前を変えて新人賞に応募される方、なろうに投稿して再デビューされる方、いっぱいいます」
「……へー」
「だから、ファイアーさん。創作のともしびを消さないでいて欲しいんです。いつかきっと、また書ける日が来ますから」
穂村はじっと桐島の顔を見つめると、静かに言った。
「桐島さんこそ、編集者辞めないで下さいね」
桐島は、ちょっと怖気づいた。確かに、自分もいつか何かが起きて、編集者を辞めなければいけない日が来るかもしれない。
未来のことは誰にも分からないのだ。
「はい、じゃあ……辞めないように頑張ります」
「お願いしますね。あ、そうそう。桐島さん、何か転職先の伝手ありませんか?」
桐島は笑った。
「ファイアーさん、ひょっとして東京で就活するつもりですか」
「選択肢としては、全然アリです!」
「編集者なんかになったら絶ッ対小説書く時間ないのでお勧めしません」
「椎名誠……」
「大分昔の話ですよそれ」
「とりあえず次は、書くことが得意な人間が輝ける就職先がいいですね。本を出したことがプラスになるような……前の工場みたいに、理解がないどころかマイナス評価に繋がるところは、もう避けたいんですよ」
小説の相談のはずが、転職相談になって来ている。
桐島は話を戻した。
「異世界恋愛を書くのはどうですか?一冊分書いて、次に繋げては」
「でも今激戦区でしょ?」
「激戦区ですが読者が多いので見てもらえますよ。そこで名を売ってもいいんじゃないですか?」
「あー、そこから完結作品に誘導するのか」
「ついでに〝転生捜査官〟も発見してもらえるかも知れませんよ」
「……考えておきます」
穂村はそうは言ったが、心ここにあらずだった。
何だか、妙にすっきりしてしまっている。
結果はどうあれ、穂村はここまで這い上がって来た自分にどこか満足していた。あの時やれることをやって、完遂した。目の前の編集者と。
(いい思い出になった)
それが穂村の偽らざる心境だった。
「じゃあ、桐島さん。今までお世話になりました」
穂村は深々と礼をした。桐島もぺこりと頭を下げる。
「またいつか会いましょう。いつになるか分かんないですけど」
そんな作家のあっさりした表情をまじまじと観察し、桐島はあえてこう言った。
「ファイアーさん、次に会う時は焼肉へ行きましょうよ」
穂村は目を丸くした。
「……は?焼肉?」
「ファイアーさんのおごりで」
「えっ……何で?」
「ファイアーさんが小説を書いて、売れたら私に恩を返しに来てください。私、印税1%の方は泣く泣く諦めますから」
「えええええ……!?」
「ふふっ。この前、赤坂でいい焼肉屋さん見つけたんですよ」
「赤坂?絶対高いですよねそこ」
「高いです」
「うわっ。でも断り切れないな……確かに恩があるからな……」
二人はゲラゲラ笑い合い、ふと黙りこくった。
何もかも上手く行くわけではない……
「約束ですよ」
それを合図に二人は立ち上がった。
いつものように新宿東口駅前で別れる。
いつもはすぐに踵を返してしまう桐島だったが、その日の彼女は、改札を通り抜けて行く穂村の背中をずっと見送っていた。




