46.救いの手
「そりゃ、売れるなら書きたいですよ!」
穂村は苛立ちを露にした。
「でも現状、必ず売れる話なんて書けないじゃないですか」
「ならばこう言い換えましょう。打診が来やすいお話なら、どうですか?」
「……!」
ここまで来ると、編集者というよりもはや商材を売りつける詐欺業者のようである。堕天使のような笑顔で甘美な言葉を囁く彼女は、穂村の才能を刈り取ろうとする悪魔のように見えて来る。
「……そんなウマい話が、あるんですか?」
「あると言ったらどうします?ちょっとは小説を書きたくなるんじゃないですか?」
穂村の心が少し揺らいだ──そんな時。
そろそろと店員がやって来た。
「お客様、ラストオーダーのお時間です」
桐島は頷いた。
「分かりました」
予約していたコースの二時間は、あっという間に過ぎてしまったのだ。
「……僕は、あまり食欲がないのでもうオーダーしません」
「私も、これがあるからもういいかな」
桐島はぐい飲みを覗いて呟いた。
「これを飲んだら、出ましょう」
「そうですね」
桐島はきゅーっと胃に日本酒を流し込むと、何やらすっきりした顔をして立ち上がった。
店を出ると、桐島は一転して喋ることなく、喧噪の中を無言で駅まで歩き始めた。
穂村は後をついて行きながら、桐島のまとう空気がちょっとひりついたものに変わって行くのを感じていた。
人波を潜り抜け駅に着くと、穂村は桐島にぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「……いえ」
「今まで、ありがとうございました」
「……」
穂村のお礼に返事もせず、桐島は黙っている。
「桐島さんとの書籍化作業、楽しかったです。じゃあ、僕はこれで」
桐島は黙っている──
が、穂村がくるりと背を向けたその時だった。
「待ってください」
どこか切迫した桐島の声が穂村を呼び止める。彼はおっかなびっくり振り返った。
桐島は、まっすぐ彼に問う。
「ファイアーさん。次は、いつ東京に来ますか?」
穂村の時が止まった。
「は……?」
「たまになら、来られそうですか?」
「えーっと……まあ、そうですね。たまになら……」
桐島は数度頷くと、はっきりと言った。
「また、連絡ください。あの、もちろん電話でもいいですし、今日みたいに対面でもいいんです。とにかく、話題は何でもいいので、話しましょう。話せば、色々と前に進むはずですから」
穂村はぽかんと口を開ける。
「事前におっしゃっていただければ、必ず時間は作ります。私、ファイアーさんにお伝えしたいことが、まだまだたくさんあるんです」
その時だった。
穂村はふと、彼女の真剣な眼差しに引っ張られるように、あの言葉を思い出したのだ。
〝人生の変わり目で手を差し伸べる人っているよね。そういう救いの手──〟
テレビ番組で耳にした、あの言葉。
それが今、なぜか穂村の耳に鳴り響いている。
(ん?まさかこれが、人生に一度っていう、例の〝救いの手〟……?)
「手放したら二度と来ない」とマツコ・デラックスや星野源が言っていたあの言葉。
それが今、穂村に差し出されている──
才能はない。
病気になってしまった。
無職になってしまった。
先のことなど、何も分からない。
けれど、手を差し伸べてくれる人がここにいる。
穂村はまた失敗するのではと恐れを抱いたが──桐島の熱意に押され、覚悟を決めた。
「……じゃあ、また連絡します」
桐島の顔が、ぱっと輝いた。
「本当ですか!?」
「……はい」
「約束ですよ、ファイアーさんっ」
穂村は、ちょっと泣きそうになった。
それから、なぜこんなことが自分の身に起きているのか、彼にはまだ理解が及んでいなかった。
(まあ、あっちがそう言ってくれてるし、いっか……)
とりあえずそう考え、彼はふがいない自分を攻撃するのはひとまずやめにした。
自分を責めているのは自分だけだったのである。今日、それがはっきりとした。桐島の方は、穂村の失敗など別に何とも思っていなかったのだ。
むしろ彼女はこうして、作家エンドレス・ファイアーに再起を促してくれている──
穂村は桐島と別れると、電車に乗り込んだ。
電車内のモニターでは、ラノベのアニメ化が必死に宣伝されていた。
それをぼんやり眺めながら、穂村は何だか自分が物語の主人公に組み込まれたかのような、不思議な感覚を味わっていた。
(もし桐島さんが何か役に立つ情報を教えてくれても、それを活かせなければ、俺の作家人生はまた終了なんだろうな)
病気をしているので、どうしてもそんな弱音が彼の頭をかすめるが、
(でもこれをきっかけにして俺が書籍化を叶えれば、きっと彼女は喜んでくれる)
という希望が、彼の心を温かくした。
(もう一回だけ……今度は自分のためだけじゃなく、桐島さんのためにも頑張ってみるかな……)
穂村は電車内で繰り返されるラノベ原作アニメの宣伝CMを眺めながら、そう決意するのだった。