42.救いの手なんか来ない
穂村は早速スイミングスクールに入会した。出費は痛いが、健康には代えられない。午前中と夜八時以降なら何時間でも泳げる自由水泳コースを契約した。
久しぶりに水中で体を動かすと、いかに今まで運動不足であったかを痛感させられた。25m泳ぐのでやっとだ。子供の頃100mを平然と泳いでいたのは何だったのか。あれは夢か。
周囲を見渡せば暇そうなご老人ばかりだ。彼らは泳ぐときは若さを感じさせるが、いざ水を出ると足をひきずっていたり、腰が曲がっていたりする。誰しも健康ではないのだ。しかし、どうにか体を維持するために泳ぎに来ているようだった。
きっと今日こうして泳いでいる人間の中にも、穂村と同じ病を抱える人がいるのだろう。
穂村の病状は一進一退を繰り返していた。大倉医師の言う通り、長く付き合わなければならない病気らしい。昨日まで聞こえていても雨が降ったら一気に聞こえなくなったりするし、気温が上下すると眩暈が起こったりする。穂村は予想のつかない体調の急変に、否応なく対応させられた。治ってから職を探そうと思っていたが、そんな日は永遠にやって来ないかもしれない。
穂村は泳いでも泳いでも良くならない体調に、次第に不安感を覚え始めた。すると、また耳が塞がってしまう。泳ぐとその日は一時的に軽快するものの、次の日には立ち上がれないぐらいの眩暈に襲われる。寝ていても治らない。特効薬とされる劇マズの水薬を飲んでも治らない。
ある日、彼はハッとした。
「まさか……治らないのは、小説を書いていないからじゃないのか?」
そう言えば、日赤の医師はこう言っていた。
〝趣味なんかやれば、上手にストレス発散出来るようですよ〟
「もしかしたら、小説が書けないからストレスをため込んでいるのかも……?」
穂村は久々にパソコンを立ち上げた。小説家になろうで何か書いてみようとキーボードに向かい合ってみたが、やはり駄目だった。
小説を書くのにも体力・精神力が要る。病気の体ではまるで何も浮かんでこない。そればかりか、試行錯誤していたら水泳をした時よりも体力を消耗してしまった。穂村はうんうん唸って、ベッドにどうと倒れ込んだ。
「くそっ……どうすりゃいーんだよ」
穂村はベッドマットを力任せに叩いた。何も上手く行かない。病気になると、こうも精神力を削られて行くのか。貯金もどんどん減っている。〝後宮祈祷師〟の印税にも、その内手をつけなければならなくなるかもしれない──
穂村の心はどんどん摩耗して行った。なけなしの心が、巣から投げ出された雛鳥のように、毎日ピーピーと悲鳴を上げている。穂村は鳥の巣になった自らの頭を掻きむしった。
「どーすりゃいいんだよおおお」
このままだと危ない。本格的に心を壊してしまう。
どうにかしたいのに、体がままならない。
穂村はベッドの中に入ったというのに眠ることさえ出来なくなっていた。
いつの間にか深夜になっていた。
穂村はスマホをいじるのにも飽きて、仕方なしにベッド脇に転がっていたリモコンをテレビに向ける。
ピッ。
深夜のバラエティー番組が映し出された。マツコデラックスと星野源が、何かしみじみと話し合っている。
テレビの中のマツコが言った。
「人生の変わり目で手を差し伸べる人っているよね。そういう〝救いの手〟ってあるんだって、すごく感じてる」
星野源はそれを受け、何度も深く頷いた。
「分かります」
「その手を取ると人生って急に……すごく変わるのよ。ほんと、何があるか分かんないよね」
穂村は舌打ちをした。
マツコも星野源も、才能や愛嬌があるから人が集まってくるだけだ。才能がなく話術もない一般人にそんな〝救いの手〟が差し伸べられるとは、穂村には到底思えなかった。
星野源が言う。
「その手って、一回逃しちゃうともう来ないですよね!」
「来ないね~」
「僕に〝歌を歌いなよ〟って言ってくださったのが細野晴臣さんで、ある時一緒にやろうって言ってくださったんですよ。その時、自分はもう歌いたくないって気持ちだったんですけど、ちょうど29歳で、これ以降歌わなかったらきっと一生歌わないだろうなと思ったんですよね。だから勇気を出して、あの手を握ったんです。ホントに良かったなぁ~と、今になって思いますね」
才能の塊。
細野晴臣もきっとそう思って、星野源ならと手を差し伸べてくれたに違いないのだ。
一方、穂村は──
(俺には才能がない。売れなかった。病気になっちまった。もう書けない)
バラエティ特有の笑い声が耳につく。穂村はテレビを消すと、布団に潜り込んだ。
(〝救いの手〟なんて、こねーよバーカ)
そんなラッキーがあったなら、穂村は今頃こんなことにはならなかっただろう。
(何で俺は生きてるんだ?死んだら楽になれるのに……)
絶望の中、穂村は気を失うように寝た。
その、あくる日のことだった。
穂村はいつものようにポストを開け、首を傾げた。
「……ん?何だこれ」
そこには、見慣れない封筒の手紙が入っている──