41.無職ウォーカー
そういったわけで、穂村は無職になった。
やはりあれ以降、病状は悪化した。仕事を辞めて安心したのか、疲れがどっと出てしまったようだ。しかし穂村の悪い癖で、母に助けを求めるようなことはしなかった。
病気が治るまで、しばらくひとりで休むべきだと穂村は考えた。
薬も尽きそうなので、日赤からの紹介状を持って近所の〝大倉耳鼻科〟に足を運んでみる。
「あー、メニエールかぁ」
大倉医師は、白髪のおじいさんだった。
「うーん……聴力検査の結果も悪いねぇ」
大倉は静かに唸ってから、意外な言葉を口にした。
「えっとね。メニエールは薬で治るってわけじゃあないんだよね」
穂村は目を丸くした。
「えっ?薬で治らないんですか?」
「治ることもあるよ。でもそれは軽症の場合のみで、君みたいに繰り返す人は生活そのものを変えて貰わないと」
「はあ」
「君、定期的に運動はしてる?」
穂村は首をひねった。
「いえ、全く」
「毎日有酸素運動をしてごらんなさい。運動療法でメニエールを治す有名な病院が横浜にあってね」
「へー」
「私も、色んなメニエール患者さんに運動を勧めてるんだ。運動で軽快する人、多いんだよ。君も、仕事がないなら運動をするべきだ。毎日90分だけでいいから」
穂村の目は点になった。
「きゅ、90分……?」
「無職なら余裕だろ」
「いや、ちょっとそこまでは……すごいですね」
「若いのに何を言ってるんだ?何もしないと今後もどんどん悪化して、最後には両耳を失聴してしまうぞ」
「えっ」
穂村は青くなった。この若さで両耳が聞こえなくなるのだけはどうしても避けたい。
「動ける日を見計らって、積極的に動きなさい。メニエールはね、寝て治す病気じゃない。動いて治す病気だから」
どうやら穂村の治療への向き合い方は間違っていたらしい。
「動いて治す……?」
「そうそう。騙されたと思ってやってみて。こっちも、何年だって付き合うからさ」
「どんな運動をしたらいいんですか?」
「何でもいいけど、患者さんはお金のかからないウォーキングなんかをわりとやってるみたいだよ」
「ウォーキングかぁ……」
ふと穂村はサザエさんの伊佐坂先生を思い出した。
「あの人も小説家だったな……」
「何か言った?」
「……いえ」
穂村は大倉耳鼻科を出ると、早速歩くことにした。今日は耳は塞がっているが、眩暈はなかった。
大倉耳鼻科の周辺は、市内で一番大きな駅があるかつての繁華街だ。穂村はその辺りをぐるっと歩いてみることにした。
最近の穂村は車で国道沿いの大型店ばかりを回っていたから、徒歩で街歩きをするのは新鮮だった。久々の駅前はシャッター商店街になっていたが、ぽつぽつと居抜きの新しい店も出来ている。
商店街を行っては戻り、ぐるぐる歩くこと小一時間。
「あの、ちょっといいかな」
後ろから声を掛けられた。道でも尋ねられたのかと思い背後を振り返ると、
「身分を証明するものってある?」
そこには警官が立っていた。職務質問らしい。穂村はどきりとしたが、別に後ろめたいことは何もないので応じた。
「あ、運転免許なら持ってます」
「ご協力お願いします」
警官は免許証と彼とを見比べる。
「君、仕事は?」
「えっ?あ、あの……今は無職で」
「無職。ふーん」
警官の目の色がちょっと変わったのを見届けて、穂村は心の中ででかいため息をついた。好きで無職なわけではないのに、何か疑われでもしたのだろうか。
「最近ちょっと不審者情報が多くてね。ご協力ありがとうございました」
そう言って警官は去って行く。
穂村はそれを見送りながらひとりごちた。
「何だよ。無職はウォーキングも出来ないのかよ……」
無職男性はただ歩いているだけでも通報されかねない。
「別の運動を探さないとな……はぁ」
自宅に帰ると、穂村は暇に任せて子どもの頃を思い返した。
「そうだ。俺、中学まで水泳をやってたぞ……」
水泳だって有酸素運動だ。穂村はインターネットで近所のスイミングスクールを探す。
「市内ではここ一か所だけかぁ」
市営プールは夏季しかやっていないらしい。スイミングスクールに入会すれば冬季も温水プールに入れる。穂村は迷った。
「入会金、年会費合わせて三万円……月6000円……うーん」
無職には痛い出費だ。不審者のまま0円ウォーキングを続けるか、金を払ってお客様になるか。
穂村は大倉医師の言葉を思い出す。
〝最後には両耳を失聴してしまうぞ〟
「そうだ……失聴してから後悔しても遅い。時間に余裕のある今、治すしかない!」




