40.お遊びの副業
退院した次の日から、穂村は職場に復帰した。
早速事務室に入ると、彼は奥のデスクに座っている亀岡社長に挨拶する。
「おはようございます。先日は大変ご迷惑おかけしました」
亀岡は苦笑いをすると、
「まあちょっとそこにかけてよ」
と椅子を勧める。穂村は社長の前に座った。
「これからのことなんだけどね」
「はい」
「四月までにあっちの工場も稼働させたいっていう説明はしたよね?」
「はあ……」
今日で二月。新工場の稼働まで、あと二か月しかない。
「ちょっと、遅れを取り戻して欲しいんだ。作業量、増やせそう?」
穂村はどきりとした。母の声が頭の中に響く。
〝……もっと人の力を借りた方がいいと思うの……仕事もストレスも、ひとりで抱え込まず誰かに手伝ってもらって、負担を分散させなければ駄目よ……〟
穂村はじっと考え込み、少しの勇気を出した。
「あのっ。病気もしてしまったし、仕事量はちょっと増やせそうにないです」
ここではっきり言っておかなければ、仕事を増やされ再び病状は悪化するだろう。下手に安請け合いして、今後働けなくなっても困る。
すると、亀岡社長はやれやれと首を横に振った。
「あのさあ、前から言おうと思ってたんだけど」
「……?何ですか?」
亀岡は何を思ったか引き出しから〝後宮祈祷師〟を取り出すと、デスクの上にぽんと放った。
穂村は目を丸くしている。社長はそんな作者の目の前でぺちぺち〝後宮祈祷師〟の表紙を叩くと、
「こんなのにかまけてるから、病気になっちゃったんじゃないの?」
と続ける。穂村は耳を疑った。
「……は?」
「だーかーら。業務外でこんなものに時間を取られて、ろくに休まなかったんだろう君は」
「!」
「副業は、業務に支障がないなら許可ってことになってるんだよ。もしこんなもののせいで業務がおろそかになっているなら、ちょっとこっちも許可の取り下げを考えさせてもらうから」
「……こんなもの?」
彼がそう社長に問い返すと、亀岡はきょとんとした顔で応えた。
「ああ。これって少女向けの小説なんでしょ?」
「だから……〝こんなもの〟って、どういうことですか?」
「えっ?」
亀岡社長はちっとも意に介していない。
穂村は立ち上がって激昂した。
「答えて下さい!」
彼は自分が今まで作品に捧げて来た努力を、涙を、馬鹿にされたと感じた。
「こ、答えろったって、君ねえ……」
社長はしどろもどろになりながらも言う。
「お遊びにうつつを抜かされると困っちゃうんだよな。君も大人なら分かるよね?」
「……社長?あなたは、出版は遊びか何かだと?」
「えっ!?そりゃそうでしょ。遊びの延長でしょ、小説を書くなんてのは」
穂村は病気もあいまってくらくらして来た。
自分が人生をかけて取り組んだことは、誰かに軽んじられるために存在しているわけではない。
ぺちぺちと叩かれ、〝こんなもの〟だとか〝遊びの延長〟だとか言われ、あげく他人から勝手に禁じられていいものではない。
この作品は、穂村にとって命だった。
売れなくても、読まれなくても、忘れ去られても、彼が生み出した命そのものだった。
どんなに出来の悪い小説でも、可愛くてたまらなかった。
それを、この男は──
穂村の頭に上った血は、急激に腑に落ちて行く。
彼は言った。
「僕はこの会社を辞めます」
穂村の突然の退職宣言を受け、亀岡社長は「え?」と怪訝な顔になる。
「おい、何だって?辞め……?」
「僕にとっては工場よりこの本の方が大事です。だからその本、返して下さい」
「……な、何を言ってるんだ君は?」
「あんたこそ何を言ってるんだよ。返せよ、俺の本。遊びで書いたこんなもの、あんたには価値がないんだろ!」
亀岡は穂村の口調でようやく状況を理解したのか、一気に青ざめる。
「ちょっ……引継ぎもしないで辞めるのは大人げないなあ」
「は?こちとら仕事のし過ぎで病気までしたんですけど?」
「あのね、社会人としての自覚を……」
「もう二度とここには来ませんから、二週間経ったら退職ということで」
「お、おいっ。うちで働けない程度の人間は、別のところに行ったって続かないぞ!」
「それ、同じこと学生時代バイト先のコンビニで言われましたよ。そんでここに入ったんスけど」
「……!」
「ここも続かなかったみたいですね。あとは頑張ってください」
社長の必死の引き止めも、穂村の耳には入らなかった。
耳がまたストレスで塞がって行くようだ。
彼の作品を侮辱することは、彼そのものへの侮辱にほかならない。なぜ社長にはそれが分からないのだろう。
自分の一番大事なものを蔑ろにした雇い主に用はない。穂村はロッカーを綺麗にすると、さっさと車に乗って自宅へと戻って行った。
穂村は社長の手から救い出した〝後宮祈祷師〟を自室の本棚に戻すと、全ての夢から醒めたように布団に潜り込んだ。
棚に差さった自分の本の背表紙を見つめる。
「お前は……悪くないぞ」
穂村は本棚にいる自分の魂に話しかけた。
「ただ、誰にも見てもらえなかっただけだ……お前は悪くない。お前の命は……俺が守るぞ。誰にも蔑ろにはさせない……!」