39.母の言葉
次の日、穂村は聴力検査を受けた。
ヘッドフォンをつけられ、音を聞けたらボタンを押すという検査だ。右耳、左耳とやってみたが、どちらも高音しか聞こえなかった。
検査を終えて病室に戻ってしばらく時間があって、穂村の病室に医師がやって来た。
「昨日のMRIの結果ですが……幸いなことに、脳に異常はありませんでした」
穂村はほっとする。
「でもまあ、やはり耳の中に水が溜まってるね。水腫って言うのね。メニエール病の典型的な症状だけど、もしかしたらもっと別の病気の可能性もある。どちらにせよ治療法はあるので安心して下さい。対処療法としては、薬を飲んでもらいます」
看護婦がやって来て、何か透明なシロップの入ったコップを持って来る。
「この水薬を、一日三回飲んでね。これは体全体の水分の排出を促す薬。とりあえず一度、飲んでみて」
穂村は飲んでみた。苦くて甘くて死ぬほどマズかった。
「キツイでしょう?これはこの世で一番嫌われてる薬らしいです」
咳込む穂村に、看護婦は水を差し出した。それを飲んでもやっぱり舌に苦味が残る。
「うえっ……」
「これ、とりあえず続けましょう。退院後は、町の耳鼻科で処方してもらえるから」
「うえっ……」
「マズいけど、メニエールの特効薬だから。頑張って飲みましょうね」
穂村は水薬のマズさに目を白黒させながらベッドに横になった。
耳は、昨日より軽くなった気がする。
体に問題はないのでシャワーを浴びる。穂村はふと、亀岡化学工業のことを思い出した。
(一週間も休んだら、仕事溜まってるんだろうなー)
そう考えた時、不思議なことが起こった。
また、眩暈発作に襲われたのだ。耳も塞がり、症状が一気に後戻りする。
「……ぐっ」
穂村は慌ててシャワー室を出て、体を拭いて寝巻に着替え横になった。
バクバクする心臓を押さえ、一気に不安になる。
「何だ今の……?不安になっただけで、症状が悪化しやがる」
仕事どころか、不安になることすら許されない体になってしまったらしい。
「……どうしたらいいんだ?」
あのマズい水薬を思い出す。
「あれさえ飲んでいれば、どうにかなるのかな……」
穂村は、考えれば考えるほど不安になって来た。スマホを立ち上げ〝メニエール病〟と検索すると、いの一番に飛び込んで来た文字に穂村は衝撃を受けた。
『メニエール病を治すには、ストレス源から離れなければなりません。しかしメニエール患者さんの多くは仕事や介護、育児など、離れられないストレスを抱えています。介護や育児ならばその限りではありませんが、仕事や人間関係がストレスの場合、断ち切ってみるのもひとつの方法かもしれません』
穂村はふんと鼻を鳴らした。
「それが出来れば苦労しないっつーの」
この病を検索すると、大体が人生そのものを変えるように進言され話が締めくくられている。要は、このメニエール病というのは難治性の生活習慣病であり、完全に治すにはどうしても生活を変えるしかないらしい。
果たして、そんなことが出来る社会人が日本に何人いるだろうか。
「適当に言ってくれるよな。ストレスのない生活なんか出来るわけないだろ!」
穂村はスマホを放り投げると、さっさとふて寝した。
とにかく、安静と点滴と水薬で治しながら働くしかない。
それから不安を感じないように、心を殺して生きるしかない。
そう考えた時、穂村は急に自分の人生を振り返って悲しくなって来た。
昔の自分は、感情が出ないように生きたかっただろうか。
社会人は結果を求められる。しかし、結果を求めた結果この病に行き着くのだとしたら、自分は一体何のために今まで頑張って来たのか──
病気は、穂村の人生の根本を問うてくる。
穂村には耳の痛いことだらけで、だから耳を病んだのではないかとさえ思うのだった。
一週間後、退院の日がやって来た。
母の運転で、穂村はようやくいつもの部屋に帰った。あの味気ない病院生活にうんざりしていた穂村は、部屋に帰ってほっと息をつく。
点滴と水薬のおかげで聴力はかなり戻った。しかしこの病は慢性病であり、きっかけさえあればいつでもぶり返すので、彼は近所の耳鼻科に定期的に通うことになった。
冷凍庫を覗くと、作り置きの食材がぎっしりと詰まっている。
「……母さん」
「そんだけあれば、しばらく体を休められるでしょ。少しでも負担を軽くしないとね」
穂村は微笑む母を見て、急に心が落ち込んだ。母が作っておいてくれたのだ。
これ以上迷惑はかけられない。
「ありがとう。俺さ、もう大丈夫だから」
そう口走った息子を見るや、穂村の母はその顔をしげしげと眺め、意外なことを言った。
「あんた、もっと人を頼んなさい」
穂村は怪訝な顔になる。
「何だよそれ……」
「お母さんでもいいけどさ。お友達とか、上司とか……もっと人の力を借りた方がいいと思うの。あんたって、いつもひとりで抱え込んでは自己完結する癖があるでしょ」
「……!」
「仕事もストレスも、ひとりで抱え込まず誰かに手伝ってもらって、負担を分散させなければ駄目よ。私だって、ヘルパーさんに頼りながらじいちゃんばあちゃんの介護生活してるんだからさ」
穂村はしばらく考えてから、静かに頷いた。
「……分かった」
「こっちも、いつだって頼っていいのよ。正直、無理してぶっ倒れられる方がこっちだって肝を潰すんだから」
正論である。穂村は恥じ入った。
「……分かった」
「じゃあ、上手いことやってね。下手打って死んだら、元も子もないからね」
母はそう言い置いて、部屋を出て行った。
夕飯は、早速母の作り置きしたビーフシチューをいただく。
穂村はそれをかき込みながら、ごしごしと目をこすった。




