38.入院
目が覚めると、穂村は見慣れぬ天井を眺めていた。
腕には点滴の針が刺さっている。ベッドに寝かされ、見たことのない病院着を着せられていた。
窓の方を向くと、そこには見慣れた人物が立っている──
「あっ。起きた?久遠」
穂村の母、響子だ。彼女は息子の目覚めを見るや、すぐにナースコールを押した。
「意識戻った!よかったねぇ」
「母さん……!」
「びっくりしたでしょ?ここ、日赤病院」
「……!?」
「あんた、ちょっと働き過ぎたんじゃない?職場で倒れて、救急車で運ばれたのよ。起きたらお医者さんから話があるってよ」
穂村は体を起こして耳をそばだてる。
母の言葉が、耳に粘土でも入ったように聞き取り辛い。
(何の病気だろう?まさか、もう二度と聴力が戻らないのでは……)
しかも、ずっと頭が重くてぐらぐらする。恐怖に怯えながら、穂村は健康を損なった自分を呪った。
ひとりの男性医師がすぐにやって来て、彼の耳へ声を張る。
「穂村さん!これね、メニエール病みたい!ここのところ、耳が聞こえ辛かったでしょう?」
穂村は頷いた。
「……はい」
「今点滴してるのはステロイド剤ね。これ打ってれば、聴力は回復傾向に向かうと思うんだけど」
「……」
「ちょっと、頭振らせてもらっていい?」
医者は穂村の頭をこれでもかと揺さぶってから、まじまじと彼の瞳を観察した。
「あー、やっぱり眩暈だね」
「……うっ」
「吐き気もある?うーんとね、とりあえず入院して様子を見ましょう」
「あの、いつ戻れますか?」
「え?」
「仕事」
穂村の言葉に、医師は困ったように笑った。
「君、典型的なメニエール患者だね。真面目で頑張り屋。それなのに、努力が報われないタイプ。そうでしょう?」
穂村は目を丸くする。
何だこの医師は。めちゃくちゃ当たる占い師か。
「は、はあ……」
「メニエールの患者さんはね、基本的には報酬不足なの。これは育児・介護中の家族や中間管理職がなりやすい病気で、そういった報われない、給与の低い仕事を懸命にやってるとなりやすいんだよね。でもまあ仕事や介護をせずに生きることは難しいから、ちょっと気晴らしなんかしながらやるようにして下さいね。趣味なんかやれば、上手にストレス発散出来るようですよ」
よく喋る医師だ。きっと、患者のストレスを緩和させようとしているのだろう。
「……分かりました」
「返答も真面目だね。とりあえず入院で点滴治療して行きましょう。仕事とか責任とかは忘れなさいね。あなたがいなくても世の中は回りますから」
「……」
「今日はゆっくりしましょう。明日は聴力検査ね」
出て行く医師を見送ると、穂村の体にどっと疲れが流れ込んだ。
病気になってしまった。
目の前の母は、ここから車で二時間かかる山奥で介護生活を送っているのだ。母も介護で忙しいのだから、ずっとこの病院に縛り付けておくわけにも行かないだろう。
穂村は言った。
「母さん、もう俺、ひとりでどうにかなるから帰ったら?」
穂村の母は息子の言動に耳を疑ってから、首を激しく横に振る。
「何を言ってるの!私、一週間はここにいるわよ。あっちはしばらくヘルパーさんを頼んだから大丈夫。お父さんと、どうにかやるはずよ」
穂村はいたたまれなくなって、顔を横に背けた。まさかこんな年になってまで、忙しい母の手を煩わせるとは。
「そうだ……会社にも連絡を」
穂村は亀岡化学工業へ電話をかけた。
電話に出るなり、亀岡社長が飛びつくようにして話して来る。
「おおっ、穂村君!大丈夫!?」
「お疲れ様です社長。あのー、僕、何やらメニエール病らしくて」
「あっ、そうなの?」
「はい。医者からは一週間の入院を言い渡されました」
「そうか~。じゃあ、一週間後にまた会えるかな?来週、水曜とか」
「はい。それぐらいに出勤します」
「まあ、とにかくゆっくり休んでね。体が資本だからね」
「……はい」
電話を切ると、また耳鳴りがして平衡感覚がなくなって来る。穂村は再び布団の中にうずもれた。
「そういうわけだから、久遠。私、今日はあんたの家に泊まるわ。鍵を貸してよ」
穂村は素直に鍵を渡した。
「下着とパジャマ、取って来て」
「はいよ。じゃあ、また明日来るわね」
「また、明日……」
個室入院なので、かなり静かだ。テレビもないから、一番安い個室だろう。
日が落ちて行く窓を眺め、穂村はひとりごちた。
「くそっ。何もかも上手く行かねえ」