37.異変
その頃。
「……あれ?」
二度寝して夕方ごろに起きた穂村は、体に異変を感じていた。
「片耳が聞こえない……」
最近仕事が忙しくてろくに休んでいなかったせいだろう。耳が塞がっていたのだ。
「前もこんなことあったな。風邪の時に……」
以前片耳が聞こえなくなったのは、確か風邪をひいた時だった。しかし、横になって寝ている内に治ったのだ。
「中耳炎のなりかけかな?もっと寝貯めしなくちゃ」
しかし次の日も、月曜の朝になっても、穂村の耳は回復しなかった。
「今週は休めない……医者に行けるとしたら、次の土曜かな」
最近の穂村は隅田プラ工業にかかりきりになっていた。四月からこの工場を稼働させるためには、亀岡化学工業の仕様に作り直さなくてはならない。配送をしながら、亀岡社長と共に取引先を増やすための営業活動も進めて行く。新たな機材も導入し、小さな工場の作業量は一気に二倍に膨れ上がっていた。
それなのに、人員はなかなか増えない。社長曰く、ハローワークに求人をかけたそうだがちっとも人が集まらないらしい。事業拡大で一番難しいのは、人員の確保なのだ。日本中で若い人材は取り合いとなっている。それはこのド田舎でも同様だった。
「最近の若い子は、工場なんかに来たがらないのかな~」
穂村がトラックを運転する横で社長はため息を吐いているが、若い穂村には誰も来ない理由がはっきりと分かる。
給料が安い。仕事が地味でダサい。単調な割に労働時間は長い。常に慢性的な人材不足。
近隣の工場は最近、初任給を一万円ほど上乗せしたと聞いている。たったそれだけのことで、若い人材はそっちへ流れて行く。それなのに亀岡社長は文句を言うだけでそれすらしようとしない。パートさんだってみな最低賃金のままである。
穂村に限っては給料も増えやしないのに、この酷使のされよう。
(さもありなん)
穂村は心の中で社長に舌を出した。
穂村は家に帰ると、シャワーを浴びてすぐベッドに横になった。
耳は当初塞がったままと思われたが、耳鳴りと共に塞がった感じは消失した。穂村はそれでようやくほっとした。寝貯めが功を奏したようだ。
「やっぱ寝ないとだめだな」
そうひとりごちた瞬間、彼はふと執筆のことを思い出した。長年執筆と読書にばかり精を出して来たため、暇が出来たり体調が回復したりすると、すぐに本を読もうとか、執筆をしようとする思考回路になってしまうようだ。
穂村はその考えを打ち消した。
「やめろ……もう無駄なことなんだ、あれは」
穂村は食事も摂らず、そのまま寝てしまう。すると何やら大きな渦に巻き込まれる奇妙な感覚がして、彼はずどんと睡眠の中に入り込んで行った。
次の日、穂村は生の食パンをかじりながら工場へと向かう。
運転しているのに、なぜか頭がうつらうつらと船を漕ぐ。そこでようやく、穂村は体の異変に気づき始めた。
「体の調子がおかしいな。とりあえず、工場に行かないと……」
安全運転を心がけ何とか駐車場に辿り着くと、穂村はクラクラしながら亀岡化学工場へと入る。
「穂村君、おはよー」
「……」
穂村は急に耳が聞こえなくなったので、挨拶を無視してパートさんの横を素通りしてしまった。
「?……穂村君?」
「何アレ?」
穂村はクラクラしたまま作業着に着替える。
そして事務室に入り、タイムカードを押そうとした、その時だった。
ガタン!
なぜか穂村はタイムカードを手に持ったまま、尻もちをついていた。タイムカードの機械が床にぶつかって転がる。
彼はそれを拾おうと立ち上がるが──立ち上がれない。
「……うっ」
巨大な渦に巻き込まれるような眩暈が穂村を地面に引きとどめる。穂村は体中から力が抜け、ぐらりと床に頭を預けた。
(おかしい……やっぱり、どこかおかしい)
一旦寝転んでしまうと、もう起き上がれない。
(助けて……誰か)
しばらくするとタイムカードを押そうとやって来たパートさんが事務室にわらわらと入って来て、ようやく無様に寝転がる穂村を発見した。
「わっ、穂村君どうしたの!?」
「……」
「あれっ、聞こえてない?」
「……」
「あっ。やばいよこれ、まさか脳梗塞?やばい!」
「救急車!誰か救急車呼んでー!!」
穂村は揺さぶられながら、自分の体に何かとんでもないことが起きているのだと確証した。
それきり、穂村の意識はすうっと消えた。