29.二人の初対面
その頃。
ペンドリー出版のオフィスでは桐島が、完成した書籍〝後宮祈祷師〟を手に取り眺めていた。
本をパラパラとめくる。新刊特有の紙の香りが広がり、彼女は胸をときめかせた。
「あ~いい匂い!」
新刊というものは、いつだって桐島に満足感を与えてくれる。それが自ら手掛けた本であれ、他人が手掛けた本であれ。
横から香川が手を出して来た。
「ちょっと見せてよ」
桐島は持っていた本を渡す。
「うわ~、かわいい!めっちゃいい本じゃん。sunaoさんのカラー原稿って、水彩画っぽくて乙女心くすぐられるよね」
中のモノクロイラストも、こだわりの場面が名場面集のように、いいところに並んでいる。香川が言った。
「これさあ、最近のうちの本では出色の出来じゃない?」
「ふふっ。やっぱりそう思う?」
「うちは後宮もの、ちっとも出してなかったもんね。これが売れたら、もっと中華風ラノベを増やしていいかも」
すると、桐島の元にメールが届いた。
『献本と紅茶、ありがとうございました!とっても美味しかったです』
sunaoからだ。桐島はどれどれとメールを読む。
『ところで、二巻に出て来るキャラクターについてご相談なのですが──』
それ以降は、つらつらと次巻の設定についての質問が続いている。桐島はちょっと考えて返信した。
『〝後宮祈祷師〟は二巻確約ではありません。一巻の売り上げ次第で次巻発売するかどうかが決まります。なので正確な売り上げが判明するまで、sunaoさんのスケジュールは仮押さえのままでよろしくお願い致します』
それきりsunaoからの返信はなかった。
香川が再び話し出す。
「発売から二週間が勝負よね」
新刊本は発売から二週間の売り上げで重版するかどうかが決まる。初動というのは出版において非常に重要で、この売り上げが今後の売り上げ冊数の指標となるのだ。二巻・三巻と発売出来るかは、全てこの初動で決まる。例外はない。
つまり一気に駆け上がれない作品は、その後も売れないであろうと判断される、ということなのだ。
「そうね。売れるといいな~」
「〝後宮祈祷師〟はきっと売れるよ。いい話にいいイラストついてるんだもん、これ」
「そ、そうだよね……」
ひとつ作品が完成したことで、桐島の意識は次の新刊へと移行する。
「そろそろグレースさんの三巻を始めなきゃ間に合わない」
桐島はグレースの小説の改稿提案をしながら、二週間後のことを思い出した。
「そうだ。ファイアーさんとの打ち上げの店も決めないと……」
桐島は穂村に『打ち上げはどういったお店がいいですか?』とメールを送信した。
返事はすぐにやって来た。
二週間後。
穂村は再び夕方の新宿駅東口に来ていた。
今日、ついに穂村は桐島と初対面する。彼は明石と会う時より、そわそわと緊張していた。
(失礼のないようにしなければ……!)
友人ではない仕事上の付き合いの女性。繋がりが絶たれれば、二度と出版出来ない力関係にある女性。どんな人間なのか想像がつかず、かなり気を使う。一体、何を話せばいいのだろう。
改札周辺をきょろきょろと見回していると、ふいに電話が鳴った。
「!はい、穂村です」
「……ファイアーさんでよろしいでしょうか?」
「あ、ハイ」
「今どこらへんにいます?」
「改札の真ん前ですよ」
すると、電話を耳に当てた女性が近づいて来る──
黒く長い髪に、半袖ニットとスカートという出で立ちの、清楚な印象の女性。その肩には、重たそうな黒革のバッグをかけている。
電話を耳に当てた男女二人が対面し、同時に電話を切った。
「あなたがエンドレス・ファイアーさんですか?」
「はい」
「どうも、桐島です。いつもお世話になっております」
「あっ、こちらこそ……!」
二人はぺこぺこと頭を下げ合った。
若干気まずい空気が流れる。
「あ、書店行ってみます?」
「……早速行きますか?」
桐島が颯爽とパンプスの踵を返し、穂村はその後を子鴨のようについて行った。
東口を出てすぐそこにある、紀伊国屋書店の新刊コーナーに二人は降り立つ。
〝後宮祈祷師〟が平積みになっていた。
二人はしげしげと黙ってその本を見つめる。
「流通……してますね」
「そうですね」
新刊コーナーを見渡すと、今月は後宮モノの新作がかなり出ていることが分かる。
「後宮モノ、たくさんありますね」
「そうですね……今月は特に多かったのではないかと」
「後宮モノ、流行ってるんですか?」
「はい、とても」
謎の男女二人組がそれだけを確認し、書店をすごすごと出る。
すえた匂いの新宿界隈を歩いて行く。二人はとあるビルのエレベーターに乗ると、その八階まで上がった。
ここまで会話のキャッチボールは特になし。穂村は気まずさで既に死にそうになっていた。
着いたのは、穂村が行きたいと返信した串焼きの店だった。最近ワイドショーで見て、美味しそうだと思ったのだ。
席に鞄を下ろしながら桐島が言う。
「私、以前ここに来たことがあって。焼き鳥も勿論美味しいんですけど、創作串焼きも美味しいんですよ。チーズの丸揚げとか、山菜の串焼きも……今日は二時間のコースを予約しておきました」
穂村が「はい……」と生返事をすると、彼女はくすくす笑って続けた。
「緊張しますよね?」
見透かされた気がして穂村はぐっと言葉に詰まった。しかしそれを見越していたように
「私もです」
と彼女が重ねて言う。穂村はそれを聞いてようやく息を吹き返した。
「あ。桐島さんもでしたか」
「本好きなんて、基本全員人見知りでしょう?」
その言い草に、穂村は思わず吹き出した。
「決めつけが激しいですね」
「私もあんまり最近は作家さんに会えていなくて、余計に人見知りが加速してまして……みんな会ってくれないんですよ。以前より、皆さんコロナ禍もあって出辛くなってしまったみたいで」
「それはありますね」
やっと、二人は流れるように話し出した。よくあることだが、本好き同士は互いに初めて会ったような気がしないものである。本を大量に読んできたせいで、同時代の創作物における既視感・世界観のようなものを共有しているからかもしれない。
とりあえず二人はビールを注文し、串と一緒に運ばれて来たジョッキを掲げた。
「それでは、ファイアーさんの出版を祝しまして──乾杯!」
照明の加減で、香ばしい串焼きの上に琥珀色の影が落ちる。
二人は一気にビールをあおると、ほっとしたように微笑み合った。