28.発売日
〝後宮祈祷師〟の発売日が決まり、ついにAmazonでの予約も始まった。
穂村は表紙イラストを活動報告に貼り付け、Amazonのリンクも設定する。準備は万端だ。
活動報告に書籍の詳細を書くと、早速明石のり男からメッセージが届く。
『予約しました!表紙イラストも素晴らしくて、今から読むのが楽しみです!』
さすが明石である。投稿からものの5分での返信。エンドレス・ファイアーを張っているのではないかとすら思う。穂村はスマホを見ながらくすくすと笑った。
桐島との会食は、書籍発売の二週間後に決まった。
こんな機会は滅多にない。桐島に出版業界に関することをどんどん質問してみよう、と穂村は考えた。編集者から有益な情報を得られるかもしれない。これが苦労して作家になったお釣りと言えるのではないか。
ネットで得た情報によると、書籍化を一度でもすると次も書籍化しやすくなるという。一連の面倒な作業を出版社と揉めることなく終えた作家、という保障がつくからだ。せっかく掴んだチャンスは次に繋げたい。穂村の野望は、編集者との会食を前に大きく燃え上がっていた。
穂村は早速Amazonランキングを見てみた。何やら予約の時点で既にライトノベル部門1000位の順位がついている。その数字を眺め、穂村は首をひねった。
「これって……高い数値?低い数値?」
初めて出す書籍なので、何位であれば〝売れている〟とされているのかがよく分からない。
「出版社はこの数字を重要視するのかな?」
それについても、よく分からない。
悲しいかな、穂村は晴れて〝作家〟になったことで、別の不安を抱えるようになっていた。
彼は他のサイトも回ってみた。現実の書店と違ってこのインターネットショップの本には、どれにも売上順位が表示されている。目まぐるしい数字の波に目を乾かされ、穂村はハッと我に返った。
「……いかんいかん!」
これはとんでもない時間泥棒だ。
「こんな暇があったら、さっさと次の話を考えないと……」
作家の肩書を得た穂村には、奇妙な焦りが生まれていた。
「書籍を出した今がチャンスだ。次の機会に繋げなければ……」
しかし発売日が近くなると妙にそわそわして、新作の構想どころではない。
勤め先でも穂村は気がそぞろになった。現実ではない世界に迷い込んだような、重力が軽い惑星に突き飛ばされたような、奇妙な感覚が常に付きまとう。これが書籍化。出版が近づいて嬉しいはずなのに、彼の心はむしろ重しを乗せられたように苦しかった。
そしてついに、発売日がやって来た。
朝から胃がキリキリする。穂村は朝から冷や汗をかいていた。
「おかしいな……書籍の発売日って、もっと嬉しいもんだと思ってたのに……」
新人作家の癖に謎のプレッシャーと戦っている、自意識過剰な自分にも嫌気がさす。
こんな日でも、大人は何でもない顔で出勤しなければならない。
穂村が亀岡化学工業に到着すると、社長がそろそろとにじり寄って来た。
「おい」
そして脇を小突かれる。穂村が不思議そうな顔をしていると、社長は言った。
「いつ発売なんだ?君の書籍とやらは」
穂村は苦笑いした。そうだった、社長にまだ書籍の発売日を伝えていなかった。
穂村は声をひそめた。
「ああ、それなら……実は今日、発売日なんです」
すると亀岡社長は「へえ~」とひとしきり感心して、急にさっと手を差し出した。
「?」
「献本、あるでしょ。ちょうだいよ」
穂村は内心憮然とした。
社長のくせに、従業員に新刊のカツアゲとは。
「いやー、献本……ないですね」
「そうなの?でも今日が発売日ってことは、その内来るんだよね?」
「うーん、どうですかね」
桐島から特に連絡はなかった。来るかもしれないし来ないかもしれない、というのが正直なところだった。
すると、なぜか社長の方が憮然とした。
「何だ、くれないのか」
「そんなつもりじゃ……本当に、手元にないんです」
「本当に?」
疑われているようで穂村はイラッとしたが、愛想笑いでやり過ごした。
「もちろん、来たらあげますよ」
「ふーん。最近の出版社ってケチなんだね」
穂村は更に苛々した。桐島及び出版社を悪く言われたような気がして腹が立ったのだ。
亀岡社長はやれやれと言いたげに肩をすくめると、その場を去って行く。
(ケッ。何だよ)
穂村は声に出さず毒づいた。従業員の出版した本が欲しい気持ちは分かるし応えてあげたいとも思うが、あのような言い方をされるとさすがに気分が悪い。
昼休みにAmazonランキングを覗くと、〝後宮祈祷師〟の順位は500位ぐらいになっていた。
思ったような上昇具合ではない。穂村は気になってライトノベルの新刊ランキングを覗いた。
今週発売のライトノベルは、妙に後宮ものが多かった。
(うーん、これじゃ埋もれるのも無理はないか……)
しかし、穂村は気を取り直した。
(いや、まだまだこれからだ。桐島さんも内容を褒めてくれていたし、〝後宮祈祷師〟は後半にかけて盛り上がって行く内容だから、これからじわじわ順位を上げて行くのかも……)
焦るにはまだ早いと己を鼓舞しつつも、穂村の胃はキリキリしている。心は騙せても、体はついて行かないようだ。
帰り道。
穂村は地元の大型書店に寄ってみた。
ライトノベルのコーナーに行くと、平積みにされた新刊コーナーにあの〝後宮祈祷師〟が並べられていた。
胃はまだ痛いが、それを見るや彼の中の何かが癒されて行く。
小さい頃、本ばかり読んでいると苦言を呈して来た教師を見返してやった気がした。本ばかり読んでいる内向的だった幼い自分に「そのままでいいんだよ」と言ってやれる気がした。あの大学教授に見せびらかしてやりたいような気がした。
穂村は震える手で自らの本を取る。周囲の人間は、まさかこの冴えない男がこの煌びやかな本の作者とは気づいていないであろう。その秘密を知っているのがこの書店で自分だけというのが、彼の心には愉快だった。
アパートへ帰ると、ちょうど配達員に出くわした。
「穂村さんですか?お届け物です」
穂村は玄関から印鑑を持って来て押した。「ちょっと重いですよ」と渡されたダンボール箱には、〝ペンドリー出版〟〝献本〟の文字が踊っている。
よもやと思って中を開けると、そこには〝後宮祈祷師〟の単行本が10冊ほど入っていた。
それから──
箱の隅には、小さな手紙と紅茶のティーバッグセットが転がっている。
穂村は手紙を開けて読んだ。
『お疲れ様でした!ティーブレイクしてほっとひと息つきましょう♡ 桐島乙葉』
穂村は早速ピンクのウサギの小分け包装を破くと、湯を沸かした。
マグカップにティーパックを入れて湯を注ぐと、甘い桃の香りが広がって行く。
少し飲んでみる。
穂村の肩から、ようやく少し力が抜けた。




