27.校正地獄
穂村は桐島から送られて来た校正用原稿に目を通し、全ての文章をチェックする。
彼は次第に文章添削の赤い渦に飲み込まれ、気が遠くなって来た。これを普段の勤務もしながら一週間で完璧にやるとなると、食事や睡眠の時間を削らないといけないだろう。
ここに来てようやく、穂村は気だるい明石の様子に合点が行った。
「確かに小説に何の情熱もなければ、これを五回も経験するのは辛いな……」
書籍化する前の穂村は、本が一冊出せるならどんな苦痛にでも耐えられると思っていた。しかしいざ12万字を全て見直すという段になると、億劫で仕方がない。しかしこれがそのまま本になってしまうのだから、間違いは許されない。
穂村はキッと前を向いた。
「買ってもらうからには、完璧なものを出したい」
初めて出版する作品には、全力を注ぎたい。
中途半端なことをして、後悔したくない。
「それにしても……校正さんって凄いな。赤の他人の文章にここまで向き合えるなんて」
校正からの赤字のメッセージに、穂村はひとつひとつ返事をして行く。
「うーん。締め切りに間に合うかな……」
かつて様々な作者の嘆いていた〝締め切り〟という言葉が、ひしひしと我が身に迫って来る。
「桐島さんに嫌われたくないし、ちゃんと約束を守らないと……」
妙に静かな部屋に、キーボード音が絶え間なく鳴り響く。
夕飯はカップ麺で済ませ、この土曜の時間は全て校正に当てる。常に赤字に選択を迫られる。
「締め切り何本も抱えてる作家って頭おかしいだろ。こんなの一年に何回もやったら死ぬぞ……」
自分が気ままに書いた小説だったが、今更ながらつまらない間違いを放置していたツケが回って来ているようた。
「あー……」
穂村は頭を掻きむしった。
「なろう版、もうちょっと真剣に書いておけばよかったぁ……」
ふと、先程の桐島との会話を思い出す。
「桐島さん、か……」
何だかんだと半年以上、二人三脚でやって来た編集者だった。
「今更だけど……会うの億劫だな」
穂村は正直、桐島と食事に行って何を話せばいいのか分からなかった。職場は社員のおじさんとパートのおばちゃんばかりだ。思い返せば大学卒業以降、同じぐらいの女性と何かがあったことはない。会ったところで何を話していいのか全く分からない。
「顔を合わせた途端、嫌われたらどうしよう……」
相手は異性なので、明石と会った時とは比べ物にならない不安が頭をよぎる。なぜ自分があの時桐島の誘いに乗ったのか──今となってはよく分からなかった。
「はあ……編集者恐い」
けれど、と穂村は思い直す。
「きっと桐島さんは、新人作家に気を遣ってくれたんだ。親切でああ言ってくれたんだから、俺は何も怯えることはないはずだ。余計なことは考えるな……」
あれは作家が仕事をやりやすくなるよう、桐島なりに送ってくれたエール、または新人作家への声掛け儀礼の一種なのだ。桐島が、心から穂村に会いたいというわけではなかろう。
「……何食べようかな」
まずはご飯を楽しむことを考える。色んな食事を妄想している内に穂村の目は冴えて行き、先ほどまで眠気で飛びそうだった意識は戻った。
一週間後。
穂村は夜の十時にPDFファイルと睨み合っていた。
校正ゲラは既に十回ほど見直している。間違いはない。穂村は震える手でマウスをクリックした。
「……送信!」
シュン!という効果音と共に、添付ファイルが送信される。
穂村はほっとして仰向けに寝転んだ。
「うあああああ!終わったああああ!!」
本当は大声で叫びたかったが、アパートなのであえてかすれ声で叫んだ。
桐島からメールが来る。
『校正ゲラ、拝領しました。ゲラのPDFデータはしばらくそちらでも消さないようにお願いいたします。余裕を持っての提出、ありがとうございました』
穂村はそれを見るや、ようやく呼吸が出来るような気がした。この一週間は睡眠どころか呼吸すら切り詰めている状態で、まるで生きた心地がしていなかったのだ。
肩の荷が一気に落ちて、彼にもようやく出版の実感が湧いて来た。
桐島からのメールの続きを読む。
『それから、表紙の絵が上がって来ましたので一度目を通して頂けますか?』
メールに添付されていたのは、〝後宮祈祷師〟の表紙イラストだった。道士風の装束の少女が、宦官の青年、時の皇帝と共に背中合わせに立っている。凛としたたたずまいの主人公に、穂村は目を奪われた。
「かーわいっ」
思わず乙女のような声を上げる。sunaoの繊細な線が、主人公の聡明さを際立たせているようだ。
『いいですね。文句なしです。この表紙でお願いします!』
穂村はそう送信して、体中が〝実感〟で満たされて行くのを感じていた。
「いよいよ大詰めだ。一か月後には、もう……」
幼い頃からの夢が叶う。
例の大学教授の呪いも、これで打ち破った。
本好きとして歩んで来た彼の人生に、新たな一頁が加わることになる。
出版したと言う事実。
自分が書いた紙の本を手に取れるという僥倖。
エンドレス・ファイアーは長い時を経て、作家になれたのだ。
「あー、生きててよかったぁ……」
穂村は天井を見上げ、感慨深く呟いた。