14.恐怖の副業申請
それから桐島とは、メールでの応酬が続いた。
日曜の午後。
『ペンドリー出版では書籍化作業の前に契約を締結します』というメールが届く。穂村はそこでふと我に返った。
「あっ。うちの工場って、副業オッケーだっけ……?」
しまった、このことを今まで失念していた。穂村は家に保管していた労働契約書の社則を確認する。
「ああー、事前申請が必要かあ……」
ということは、書籍化作業の前に副業申請が必要となる。
「マジか……作家バレすんのかよ」
穂村は一瞬落ち込んだが、我に返って顔を上げる。
「ええい、これが恥ずかしくて兼業作家なんて出来るかっ」
〝後宮祈祷師〟は、どこに出しても恥ずかしくない本だ。穂村の場合どちらかと言うと、ペンネームをばらす方に勇気が要る。
「〝パンがなければ海苔を食べればいいじゃない〟を書いた上、ペンネームが〝明石のり男〟とかいう作家……アイツただもんじゃねーな」
穂村は、鋼の心臓を持つ明石に再び畏敬の念を抱くのだった。
「まあいい。作家は俺の長年の夢だ。出版出来ずに死ねるかよ」
穂村は覚悟を決めた。笑われても、反対されても、地べたを這いつくばっても〝後宮祈祷師〟を出版してやる。
次の日。
「ちょっとお時間よろしいでしょうか……」
穂村は社長がいる時間を見計らって事務室に入った。社長の亀岡は何かの契約書から顔を上げる。
「穂村君か、どうした?」
「あの、副業申請を出したいんですが」
ああ、と亀岡は軽く頷く。
「農業でも始めるのか?」
この地域の会社員の副業といえば、農業である。地方あるあるだが、石を投げれば兼業農家に当たるぐらいに多い。地方の忙しそうな奴は大体が兼業農家である。
「いえ、農業ではないです」
「じゃあ何だ?」
まさか、こんなに業種を掘り下げに来るとは思っていなかった。農業以外は副業禁止と言われるのかもしれない。穂村は全てを投げうつ覚悟で亀岡に言った。
「……出版します。本を出すんです」
すると、どこか訝し気だった亀岡の顔が意外にもほころんだ。
「おおっ、そうか。どんな本だ?」
「えーっと……小説です」
「へー。いつ発売?」
「すいません、それはまだ未定なんです」
「凄いじゃないか。確か君は文学部出身だったよね?」
「はい……」
どうやら、印象は悪くないようだ。穂村はほっと胸を撫で下ろした。亀岡は興奮気味に言う。
「働きながらも勉強を続けて来たんだ、穂村君は。偉いよ」
「いやあ……ははは」
「出版ならば重労働ではなさそうだから、問題はない。業務に支障を来さなければ副業は自由だ。本が出版されたら教えてくれ」
「ありがとうございます」
穂村はその場で副業申請の書類を書き、社長に提出した。
これで心置きなく書籍化作業に入れる。
「……早速、桐島さんに連絡しないとな」
数日後、穂村は電子契約書で出版契約を締結した。
これで、晴れて穂村は出版社と契約した〝作家〟になったのだ。
「今日から小説家になった……ってコト!?」
穂村はそう言って、自宅でひとりではしゃいだ。
「印税入ったら何買おうかなー……」
Amazonのサイトを開いてそうひとりごち、よく考えれば出版してからでないと印税は振り込まれないことに彼は気づく。
「危ない。無駄遣いするところだった」
穂村はハイテンションになっている自分を深呼吸で落ち着かせた。
桐島からメールが返って来る。
『契約締結ありがとうございました。早速ですが、出版に差し当たって今後の方針やスケジュールなどの打ち合わせをしたいと考えております。お電話かZoomでの打ち合わせが出来ればと思うのですが、ご都合のいい日を教えて頂けますか?』
穂村は急に我に返る。
「ん?電話?」
当たり前のことだが、メールをくれる編集者は機械などではなく生身の人間である。仮想空間で文字だけのコミュニケーションを取っていたため、現実感が薄れていた。名前からして桐島は女性のようだ。工場勤めで接客経験なし、小説がトモダチという人見知りの権化・穂村は見知らぬ女性と「電話で話す」と聞いて急に緊張して来た。
「まあ確かに、メールよりは電話の方が意思疎通が早く出来るもんな……?」
穂村は想像する。
出版社勤めの女性。きっと、とんでもないインテリに違いない。
〝後宮祈祷師〟の問題点を暴き、ビシバシと新人作家のなまくらな文章を校閲し、ジャンプの伝説の編集者のように複数回のボツなどを言い渡して来るに違いない。
「くっ……そうはさせねえ」
穂村は架空の大女〝桐島乙葉〟を睨み上げた。
「俺は俺の小説を守るぞ……ぽっと出の編集者なんかに負けてたまるか!」
架空の出来事に怒りを露にし、穂村は挑戦状を受け取った猛者の貫録をたたえ桐島に返信した。
『田舎町ではZoomはすぐフリーズするので、電話での打ち合わせだとありがたいです!』