7日目 市街地へ
レイジはzip圧縮を検討するほどの知識を叩き込まれて、頭がパンクしかけていた。例えパンクしたとしても、ここがどこで何と、なんのために争っているのかを知っておかなければならない。それは戦うためにどうしても必要な情報だからだ。
まず、レイジがいるのはアリエス聖王国という沿岸国で、その首都であるカレリア中心部の市街地である。
それがどうして戦争になっているのだという疑問が生まれたが、それはすぐにパスカルが解決してくれた。それはゆっくりと火が燃え始まり、急に爆発したかのような内乱だったという。
税金の削減や外交問題、理由は様々だったらしい。首都で頻繁にデモが起き、ついに武装勢力による反政府運動、内戦へと発展した。
そして、カレリアを脱出しようとした王族が道中で囚われたものの、次女のリディ・ル=ヴェリエのみ脱獄に成功。市内を逃げ回る彼女を確保しようとしていたのがアリエス聖王国軍の傭兵、パスカル・エマニュエルだった。
「で、昨日の議決であのゴロツキどもはアリエス国民軍とやらになって、反政府勢力は一丁前に国民議会を名乗り始めたと」
レイジは溜息混じりに吐き捨てると、水溜りを飛び越える。雨上がりの水溜まりなら踏んでも気にしなかったと思うが、これは下水道の水溜まりだ。犬のフンの次に踏みたくない。
血が固まった上着は着るに堪えなかったので、パスカルに貰った黒のジャケットを着て、その上からプレートキャリアを着こんでいる。急遽で新しい装備の調達をする余裕もなかったから、上着以外は持っていた装備をそのまま使っているのだ。
「そしてオマケだ。拡張政策をとるノールディア連邦に支援要請をしながら、今日には王族を処刑するらしいぞ」
「誰が手を引いているのか、見えてきた気がする」
「陰謀を語るは2流だぞ。証拠がない」
「俺がやり合った奴が証拠…‥と言いたいが、見ただけじゃ証拠にならねえよな」
「死体があればいいんだがな。兎も角、グレーの部隊を見たら連邦軍と思え」
レイジを狙撃し、アギラールを殺してリディを連れ去っていった灰色の軍団が連邦軍だったらしい。道理で失神する間際に見た連中の練度が高く見えたわけだ。
連携し、規則正しく進む彼らはレイジの目に特殊部隊のように映っていた。それを相手にして、よく死者1名で済んだものだと思う。
「ここだ。そこのマンホールを上がれば目的の4番通りに出る」
「で、俺はタンプル塔で狙撃と」
あと1時間後にカレリアの中心にある広場で王族の処刑が行われる。レイジとパスカルはそれを阻止し、最低でもリディを救出すべく動き出していた。
作戦目標はリディの救出で、副次目標はその他王族の救出。広場へ突入して王族を奪還するパスカルをレイジが付近の鐘楼から狙撃で援護する、シンプルかつ高難度の作戦になる。
それでも、レイジが不安に思うことはなかった。スナイパーライフルの弾道特性と照準の状態は前回の狙撃で把握している。想定される300メートル程度の狙撃ならば、寸分たがわず眉間を撃ち抜ける自信があるからだ。
観測手がいない、射手だけの孤独な狙撃任務。高揚も陰鬱ともせず、凍り付いたような心で戦場を俯瞰するような気分になる。
梯子を上がってマンホールをくぐったパスカルに続き、レイジも地上へ這い出す。
暗闇が終わり、遠くに響く教会の鐘と、赤を基調としたレンガ造りの街が2人を出迎える。この建物の向こうに目的の広場があり、響く喧騒が血を待っているのだろう。
すぐに血を見せてやるさ。その血飛沫の出元が変わるだけだ。
「俺は先に行くから、何かあれば呼び出せ」
パスカルはレイジの左耳へ手を当てる。何をするのかと思った刹那、レイジは左耳を襲う僅かなノイズに眩み、少しだけ姿勢を崩した。
しかしそれは一瞬の出来事で、すぐに聴覚はクリアに戻る。叩かれたのかと思ったが、本当に手を添えただけのようだ。
「これで聞こえるだろう」
パスカルは聞こえない程小声で、それこそ口だけ僅かに動くのが分かる程度の声量で話している。それなのにどうして、レイジにはそれが耳元で話されているように聞こえるのかが分からない。男に至近距離で囁かれるようで、気持ち悪いのは確かだ。
「どうやってんだよ?」
「音伝えの暗号だ。話したい相手を思い浮かべて話せ」
「無線機の代わりか」
「使い手は限られるがな。使えるように細工をしてやった俺に感謝しろよ」
パスカルはレイジの左手を差す。レイジが試しにグローブを取ってよく見ると、手の甲の中心に淡い緑の光が浮かんでいた。小豆程度に小さいけれど、何か埋め込まれているのだろうか。
「何しやがった」
「細かい説明は後でしてやるが、魔晶石という特殊な石を入れた。生まれつきノードがない奴はこれを代用にする事で、暗号が使えるし効果を受けるようになるんだ」
ならば、言葉が通じるようになったことも、傷を治したのもこれを体に埋め込んだからだというのだろうか。そういうことは早く言って欲しいものだ。
「早く言えよ。あと、ノードってなんだ」
「それは後回しでも困らん。先にリディだ」
パスカルはそう言って話を切り上げると、1人で通りを駆けていく。纏ったケープのたなびく姿は駆ける駿馬にも劣らず、もしかすれば5分程度で広場へ辿り着けるのではないかとも思えた。
「状況開始。仕事に移ろう」
気合を入れなおし、まずはアサルトライフルを手に駆け足で進む。パスカルの移動を支援するのに最適な場所から場所へ移りつつ、タンプル塔を目指すのだ。
レイジの目的はリディの救出であって、狙撃は手段に過ぎない。1人タンプル塔へ辿り着いたとしても、途中でパスカルが脱落したらその目的を果たせなくなるかもしれないのだ。だから、彼の道中を守るのも忘れてはならない。
まずは狙撃地点を確保するため、レイジはもぬけの殻となったアパートの最上階へ足を運ぶ。
通りに面したアパートは5階建てで良好な視界を確保できるので、パスカルの援護に都合がいい。
バルコニーへ陣取ってスナイパーライフルを構え、スコープを単眼鏡の代わりにして周辺を偵察する。通りはもぬけの殻で、パスカルがダストボックスに身を隠しているのだけが見える。
「パスカル、こっちはアパート最上階。周辺はクリアだが死角に気を付けろ」
いくら見晴らしがよくてもここは市街地。死角なんていくらでもあるから、レイジが周辺の安全を確認しても無警戒に進めるわけではない。
「前進する」
「しばらく援護するが、死角にだけは注意しろよ」
「分かっている。俺に見えない場所は任せた」
レイジは時々スコープから目を離す。等倍で不鮮明な実像の世界へ帰還を果たすと、視野が大きく広がった。
偵察の時は肉眼の広い視野で見回して、異常や気になることがあったらスコープや双眼鏡で観察すると敵を見つけやすい。本能的にではあるが、レイジはその基本を守りながら索敵を続ける。
動くのはパスカルだけ。遠くから聞こえる喧噪も、このエリアでは遠い世界の話に思える。
レイジにはそれが不気味で仕方なくて、貧乏ゆすりでもしたくなるほどに落ち着かないけれど、それを堪えて監視の役目に意識を向ける。
だからこそ、道路上に置かれた木組みのバリケードに気付いたと思うべきか。パスカルの居場所から2ブロック先、50から100メートル程度の場所で、バリケードの前には2人の歩哨もいる。
グレーの軍服を着た兵士はリディを攫って行った敵兵と重なって見えるが、観察は後回しにする。
直線ならこの検問をパスカルが自分で見つけていただろうが、生憎道が緩く湾曲しているせいで建物の死角になっているようだ。
「パスカル、前方2ブロック先に検問がある。歩哨2名。手前で待機」
「どうする気だ」
「排除する」
無茶な、というパスカルの声は聞いていない。レイジは既に心を置き去りにして、空虚な肉体だけを残す。
感情を切り離して、狙撃という神の一撃を放つためだけの理だけが身体に残る。
スコープが切り取る虚像の世界の中で、2つの人影が重なって見えた。それこそレイジの待ち続けた瞬間。1発の弾丸で2つの目標を同時に仕留めるための、最高の一瞬。
このために距離の測定も風速による弾道の変化も全て計算し、準備していた。中心から右へ2メモリ分ズレたそこに弾が届く、その姿を幻視する。
トリガーの遊びはもう引き切った。重く感じるそれを更に引けば、待ち望んでいた瞬間がやってくる。
遠くから鐘の音が響き渡り、音を支配する。人影が重なり、音がかき消されるその瞬間こそ、レイジが待ち続けた最高の瞬間だった。
銃口から噴き出る炎を見た時、その爆音を聞いた時にはもう遅い。刹那の間に7.62ミリの銃弾が1人目の頭蓋を割って脳を砕き、反対側から突き抜ける。
それは後ろにいたもう1人の喉へ飛び込み、頸動脈をズタズタに切り裂いて飛び出していく。
1人目は即死、もう1人は何が起きたかもわからぬままに失血して死に至る。
「ダブルキル」
そのコールだけが静かに響き、命の気配がスコープから消えていく。パスカルから了解との声が返ってくるまで、やけに長く感じた。