1日目 寝覚めの悪夢
夢を見ていたのだろうか。
そう思うような、不思議な気分を味わっていた。
やけに神秘的で不思議な夢のような、そんな微かな記憶は少しずつ虚空に溶けて消え、やがて記憶から永遠に失われてしまうものだ。
それが本当に夢だったのか、それとも現実の事なのか寝起きの頭に判断するのは難しいし、そうして寝ぼけて混乱したことなんて今に始まったことではない。
よく読んでいる小説の導入はこんな感じだったような気がする。それと同じように死んだ自分はどこか違う世界に飛ばされたのだろう。
そう思ってしまうけれど、それでは胸の痛みの説明がつかない。確かに撃ち抜かれたはずなのに、鈍い痛みと息苦しさがあって、安らかな死ではなく痛みの中で生きている。
「クソが……」
肋骨は多分折れている。更には胸部を覆うプレートキャリアに背中が潰されて呼吸が苦しく、悪態を絞り出すのがやっとだった。
頭痛のせいかヘルメットのせいか、頭が重くて仕方がない。体ごと頭を持ち上げようとしたけれど、結局押し付けられるように石畳へと倒れ込む。
もう一度立ち上がろうとするけれど、ドタドタとうるさい足音が迫って来るのを聞くに、これ以上声や音を出すのは望ましくない。
それが敵か味方か分からないのだから、はっきりするまで大人しく死体になっていよう。
目だけ動かしてみれば、そこには血の川が流れていた。それを鮭のごとく上流へ辿って行けば、その源流では見るからに民間人の男が倒れていた。
開かれた眼に光はなく、驚愕と苦悶に見開かれたそれは虚空を凝視したまま瞬きさえすることはない。
喉に出来た血液の滝こそ源流で、男は死んでいると見せつけられて嫌な気分になりそうだ。
それでも不思議と嫌悪感こそすれ、それ以上の反応はない。
普通ならば死体を見て、更にその凄惨な死に様に嘔吐する者もいたり、目を背けるのが普通なのだろうと思うけれど、レイジは不思議とそういうことはない。
まるで見慣れてしまったかのように。ただ、安らかにと弔いの言葉を小さく吐き出すだけで、胃の中身が吐き出されることはついぞなかった。
足音が大きくなってきた。いい加減観察をやめて転がる亡骸のひとつに化けておく。
地面とヘルメットの境目にできたわずかな視界の中に痩せぎすの男が見えて、その手に握られた散弾銃か猟銃のような、シンプルな構造の銃を認めた。
間違いない、目の前の死体を作ったのはこいつだ。レイジの直感と状況証拠がそう告げる。
適当なハンターベストとありあわせの銃から見て、正規軍ではなさそうだ。民兵とでも思っておこう。
つまり、今この場は民兵が民間人を虐殺するような異常事態に見舞われているらしい。
どこかでそんなのを見たような覚えもするけれど、残念だが何も思い出せない。
——頼むから、俺が生きていることに気づくなよ?
そう祈るレイジの横を民兵の男が走っていく。石畳を踏む軽快な足音は、こんな状況でなければいい雰囲気だっただろう。
クソが、と吐き出せない悪態を心の中へと留め置く。
しかも、その民兵は今しがた作ったばかりであろう死体へ取り付き、持ち物を漁り始めたではないか。
この状態でレイジの存在に気付けば漁りに来るだろうし、そうなれば生きていることがバレてしまう。
そうなれば民兵がどうするか、考えるまでもない。その手の散弾銃でレイジを血の川の源流にするだけだろう。
何かないか。石畳を撫でる指先はこの状況を切り開くための力を求める。
石ころでもいい、素手よりはダメージを与えられるし、投げれば気を逸らすこともできる。そのうちに組みついて締め殺せばいいんだ。
頼む、何かあってくれ。ナイフとまでは言わないから、拳程度の石ころかレンガでもいい。
それに応えるように、冷たく長い金属の塊が触れた。
目だけを動かして見れば、それは男の銃なんかとは比べ物にならないほど複雑で、鈍いガンメタルのアサルトライフルが転がっていた。
塗装が剥げて所々銀色に光るそれは冷たく、それでいて何かをレイジへ語りかける。
それは記憶なのだろうか。この銃を握って、森の中を駆け回った光景が頭に過ぎる。これを構えて猛射しながら、同じ格好をした男たちと横隊を組んで進む姿を見た。
その記憶がこれの使い方を思い出させる。冷たい金属で出来た本体から指を滑らせると、わずかに温もりを感じる樹脂製グリップを手のひらが掴む。
探る親指が切替レバーに触れた。
安全装置は外れている。
引き寄せて棹桿を引け、あとは引き金を引くだけでいい。
それで、あいつを殺せると銃が囁く。
生き残るために、あいつを殺すんだ。
迷う時間はない。生き残りたければ戦え。
運命を切り開くために、その銃弾を放て。
放て、運命を変える1発を。
伸ばした手がグリップを掴み、引き寄せた途端にガリガリと不快な音がする。多分、表面の塗装が剥がれて傷が残ったのだろうけれど、命には代えられない。
その音で民兵の男は気付いてしまった。レイジがまだ生きていること、棹桿を引いて今まさに射撃をしようとしていることに。
「遅いわボケが!」
カチャンと金属音が響き、薬室から金に光る弾が飛び出した。初弾は元から薬室に装填されていたのだ。1秒にも満たないくらい余計な手間をかけたけれど、撃てなくて泡を食うよりはマシだ。
レイジは僅かに一手間加わって時間を取られたというのに、民兵の男はまだレイジへ狙いを合わせられていない。記憶がなくても、身体が知っている。構え方、狙い方、そして殺し方。
きっとその差が戦局を変えるんだ。
グリップを握り、伸ばした左手がハンドガードを絞るように握って反動に備える。
僅かに指先へ力を込めた。
3キロ程の力が加わると、白煙と共に爆音が路地裏へと響き渡り、煤けた金色の薬莢が宙を舞う。
体を押す反動を抑え込みながら目を見開き続けて、その行末を見届ける。音を超える銃弾は赤い光を纏いながら男の胸へと飛び込む。
舞い散る血飛沫と響く悲鳴、落ちる薬莢が響かせた金属音さえもが永遠に聞こえる。
それでもまだ止まらない。人間が小銃弾1発喰らった程度で止まらないと知っているのかどうかはわからないけれど、指は勝手にもう一度トリガーを引いていた。
反動で跳ね上がった銃口は男の頭を向いている。
眉毛の間、その奥に脳漿のある所を不可視の一撃が穿ち、その組織を破壊して生命活動を停止させる。
どさりと倒れた音に遅れて、血の川へ支流が合流して大河となった。それへもう1発撃ち込んで止めを刺す。これで反撃されることもないだろう。
「……クソが。どうなってるんだよ」
頭を振っても、自分がどうしてこんなところにいるのかが思い出せない。カンザキ・レイジという自分の名前と、この迷彩服を纏って銃を握り、どこかで戦っていた事だけは覚えている。
祖国のためにと、自分の存在意義を誰かに預けて。
死して役目を果たすことを誇りとして。
流した血と死体がレイジへ罪を意識させようとする。お前が殺したんだと現実を突きつけ、ギロリと開かれたままの目がレイジを呪う。
その死体を見た途端、まるで頭にノイズが入ったかのような感覚と痛みが襲って来た。
拡大した世界の向こう、黒い十字の中で俺を睨む誰かがたちまち血飛沫を上げて倒れていく。きっと、今まで見てきた記憶なのだろう。
この手に握る銃へ乗せられた照準器のレンズに拡大機能はないし、十字ではなく赤い光点が浮かぶだけ。
目の前に落ちている迷彩のケースの中に、その記憶の銃が入っているのだろうか。
「――!」
そんな思考を切り裂くように悲鳴が聞こえた。
それは高い少女の声で、人というよりも狐の鳴き声に聞こえる。
しかし悲鳴というものは人を否応なしに警戒させるもので、俺も例に漏れず声のする方角、路地の入口へと銃口を向けていた。
何かが来る。
安全装置は解除して、いつでも戦えるように準備をする。
また民兵か、誰が来るのか分からないけれど、来るというならばやってやる。
ただ、生き残るためだけに。
なんで生きたいかなんてわからないけれど、やらなきゃいけないことがあるような気がするから。
何か、夢の中で託されたような気がしたから。
そして、とうとうそれが飛び出して来た。それが敵ではないと咄嗟に知覚したから、トリガーへ指をかけることさえしない。
飛び出してきたのは白銀の少女だったからだ。
優雅に広がるヴェールのような白銀の髪と、その先から伸びる尖った耳は先端が黒い。後ろに見える尻尾だろうか、もふもふとした塊も先端だけが黒く染まっている。
白のチュニックワンピースも、彼女の白に比べればベージュに見える。そんな風に白で固めた彼女だから、ところどころに見える傷が痛々しい。
そしてその後ろからはボロを纏ったいかにも乱暴そうな男が迫り、彼女の襟首を掴んで何かを喚く。少女も一言叫んで抵抗するが、首に組みついた丸太のような腕を解くほどの力はない。
「その子を離せ!」
レイジが叫んでも相手には伝わらず、向こうも向こうで怒鳴り散らかしながら銃口を向けてきた。
少女は150センチと少し、それに対して男の方は俺よりデカいな、180センチ超えか。
それだけ差があるならば外しはしないよ。
だから安心してくれ。銃口を向けたのは君にじゃない。
目を閉じて覚悟を決めているようだけど、傷付けはしないから。
「今すぐ離せ!最後の警告だ!」
安全装置解除、トリガーへ指をかけた。
あの禿頭に赤い点を合わせ……いや、近いな。点より下に弾着するはずだから少し上、ハゲのてっぺんが丁度いい。
狙いよし、死ね。
迷いなくトリガーを引くが、その余韻に浸ることなく一度離してもう1回。
反動で銃口が跳ね上がる前に、跳ね上がっても出来るだけ弾着がズレないようにしっかり構えての2発連射。
それは男の口へ飛び込んで延髄を貫き、跳ね上がった2発目が眉間へ飛び込んで脳漿を破壊した。
体はもう言うことを聞かない。引き金を引くことも出来ずに、糸が切れたように崩れ落ちるだけ。
「きゃっ!」
死体が腕を離さなかったおかげで、少女も巻き添えに倒れてしまった。
「大丈夫か?」
レイジは仰向けに倒れた死体の腕を蹴ってどかし、少女の手を掴んで引き剥がす。
死体から武器を奪い、心臓へと1発撃ち込んできっちりトドメを刺しておく。倒したと思ったらまだ生きていて、反撃されるというのはたまにある話だ。
「——」
少女は何か言ってくれているが、レイジにはその言葉がわからない。
好きだった小説……タイトルはなんだったか思い出せないけれど、異世界に行く物語は最初から言葉が通じるのがセオリーのはずだ。
それなのに自分は言葉が通じないなど、とんでもないハードコアモードではないか。しかもいきなり銃撃戦ときた。せめて王宮とか安全な場所で始まりたかったと思う。
ついでに記憶喪失もやめて欲しい。断片的にくだらない事を覚えている癖に、肝心なことが何ひとつ分からないのだから。
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