13日目 捕虜
石畳から頬に伝わる冷気が心地よく思える。痛む体を冷やしてくれる、優しさが感じられた。
ぬくもりだけが優しさではないと、考えを改めたのはいつだっただろうか。傷を舐められるよりも、放っておいてもらえる方がありがたいと感じたのは。
「レイジ」
もう少しだけ寝ていたい。心地よい微睡の中に身を委ねていたのに、優しい声がその意識を引き戻す。
瞼が重くて、ヘドロのように床にへばりついた身体を起こそうとするけれど、まるで神経が切れてしまったようにびくともしない。
動けない。瞼も重力に負けて沈み始めた。溺れて力尽きた人間はこういう風に沈んでいくのだろうか。
気力が尽き果て、体力を喪失して、生への執着を失った者の気分を味わうのはこれが初めてではない。そんな気がするような、懐かしい感覚がレイジを包む。
「レイジ」
沈んでいく意識を再び優しい声が引き戻す。
視界を包むのは暗く、歪な石造りの床と鉄格子だけで、声の主がどこにいるのか分からない。
「レイジ!」
熱を失っていた掌を優しい熱が包み込む。自分のとは違う、白くてか細い手の出所を目で追っていくと、リディが泣きそうな顔でレイジを見下ろしていた。
「リディ……」
意識が少しずつはっきりしてきたおかげか、指先が動いてリディの手を包み込んだ。
仄かな暖かさが心地よくて、思わず縋ってしまいたくなる。どうやら、心まで弱ってしまっているらしい。
「起きてください。いつまで寝てるんですか」
辛辣な声と共にリディは握ったレイジの手を捻って関節を極める。余りの激痛が無理矢理レイジの意識を覚醒させた。
「いってえ!もっと優しく起こしてくれ!」
「そうしたら起きなかったのはレイジです。自分の寝坊助を恨んでください」
リディはそう言い放つと、振り向き様に尻尾でレイジの手を叩く。
ふわふわもふもふの柔らかい尻尾の感触は極上で、レイジはそれに飛びつくけれど、リディはサッと尻尾を持ち上げて躱した。
「えっち。もふもふはお預けです」
「思わせぶりなのは一番良くないと思うぞ」
あの極上の感触を味わわせておきながらお預けなんて、拷問にも等しい所業と言えよう。
きっと、粗末な牢に閉じ込められて明日も知れない身になるよりも辛いと感じることかもしれない。
「うるさいです。助けに来たのに、結局捕虜になった傭兵はどこの誰ですか」
「それを言われちゃ、ぐうの音も出ねえよ」
リディには随分と情けないところを見せてしまった。最初にリディを守りきれなかったリベンジのはずだったのに、今度は仲良く牢屋入りしているのだからメンツも何もあったものではない。
状況を把握して、突破口を探し、脱出する。名誉挽回するとすれば、そのくらいはしなければならないだろう。
改めて寝台へ腰掛けるレイジを、リディはじっと見つめていた。まるで観察日記をつける子供のような目線に、レイジは訝し気な目を向ける。
「どうした」
「何でもないです。自意識過剰なんじゃないですか?」
「んなわけあるか。そういう視線は意外とわかるもんだぞ」
しまった、という顔をするリディを見たレイジは「それみたことか」と呟く。スナイパーの本能なのかわからないけれど、狙われているような視線を受けると背筋がしびれるような感覚がする。
それは本能的な警報なのだろう。どこでそんなものを刻み込まれたかはともかく、記憶を無くしても役に立つからありがたい。
しかし、本当に自分は何者なのだろうか。掌を見つめてもその答えはなく、スナイパーのレイジというあやふやな自分だけが残る。
自分という存在を託していたであろう祖国はどこなのだろうか。
積み重ねたであろう鍛錬の果てに磨き上げられた狙撃で守りたかったのは誰なのだろうか。
まるで霞のようで、ふとした瞬間に消えてしまいそうな自分が怖い。だから、あの時に出会ったリディへ自分の存在を託した。
「何見てるんですか」
「たまたま」
そんな考え事のせいで、今度はレイジがリディを見つめてしまっていたらしい。身を抱くリディは「えっち」と言い放ち、レイジは肩を竦める。
そりゃないぜと呟いて鉄格子の嵌められた窓を見れば、白銀の月が静かな明かりで牢の中を照らしてくれていた。
光のマントを纏い、その陰に自分を半分隠したレイジの横顔をリディは半分しか見ることが出来ない。
手を伸ばしても届かないような気がするほどに、光を浴びるレイジは透き通って見えた。その身を月光に合わせて、姿を隠すように。
深遠なる闇を思わせるような瞳も、光を浴びて透き通っている。どこか優しく、儚げな視線は誰を見ているのだろうか。
何者かも語らず、何のために戦うのかも告げない謎の傭兵。その全ては偽装され、何もわからない。レイジの見る世界も想いを馳せる何かも、リディには分からない。
本当にそこにいるのだろうか。存在さえ消えてしまいそうなほどにあやふやで、名前を知らなければ歴史の濁流に消えていく傭兵として、資料へ残される無数の戦死者の数字になっていたのかもしれない。
胸が締め付けられるような気がした。命を懸けて戦い、自分を守ろうとしたレイジの目的は如何にせよ、誰にも知られずに消えてしまうのが哀しくて、手を伸ばしたいと心が叫ぶ。
それは慈悲か、憐憫か。
リディにも分からない。自分をぼやかしたレイジと違って、元から実像がないのだから。
「どうして、助けに来たんですか」
まるで絞り出すような問いかけに、レイジはゆっくりと顔を向けた。今まで照らされていた横顔が暗闇へと包まれ、見えなかった顔半分が代わりに光の下へ現れる。
漆黒の闇でありながら透き通るような優しい瞳。スコープを覗き続けた右目が闇へ包まれていき、代わりに見えていなかった左目が光の中に現れる。
「見捨てられるかよ」
それは間違いなくレイジの本心ではあるが、全てではない。
もちろんリディもそれを感じ取っている。そうでなければ、命を懸けて戦うような理由がないからだ。
いくらお人よしだからって、自分の命を理由なしに捨てられるわけがないのだから。
「嘘を言わないでください」
それがリディに理解出来なくても無理はない。
レイジ自身もどこかおかしいと思うような、献身や自己犠牲を凌駕したそれは、狂気とさえ呼んでもおかしくはないのだから。
「嘘じゃない」
「それだけで、自分が死ぬ理由になると?そんなわけがないでしょう」
「十分だよ。追われて絶望して、諦めたような顔を笑顔にしたかった」
月光が瞳を照らしても、深淵の闇は闇のままでそこにある。
まるで諦めたような瞳と、絶望を悟ったような儚げな笑みがリディには何よりも恐ろしく思えた。
自分が笑顔にしたいと思った少女と同じ顔をしているなんて、当のレイジは理解していない。
自分の存在があやふやで、生きる理由さえ分からない。
だから、リディにその理由を委ねたという、あまりにも自分勝手な理由で彼女を生かした。そんな理由で、彼女に苦しみを与えた罪悪感が今もレイジを苛んでいる。
スコープ越しに血飛沫が訴えかける罪過、妹を頼むと訴えかけた皇太子の最期、記憶の彼方から追いかけて来た死神。
呪いのようなそれら全てよりも、リディの本心が何よりも恐ろしくてたまらなかった。
彼女に打ち明けたとしても、その行いは否定されることであって感謝されるようなことではない。
リディを守るというエゴの為に、彼女の肉親を見殺しにさえしたのだから。
「……そんなこと言っても、信じられませんよ」
絞り出すような声が静寂のカーテンを下す。
警備兵が扉を開けて「出ろ」とレイジへ命ずるまで、音が消えた世界に囚われ続けていた。