まずは母
「ノエル坊ちゃま。私でよければ何でもお話し下さいね。」
ノエル付きのメイドのハンナは侯爵家のメイドの割にはまだ完ぺきとは言えず、時折おちゃめな面を見せたり、親しげに語りかけてくる。ノエルにはそれが好ましかった。
「・・・じゃあ、夕食は部屋で食べたい。だったら食べる。」
「さようでございますか!ではそうさせていただきます!」
嬉しそうにハンナは言った。
ハンナもノエルの事を心配していた。
ある朝、いきなり暴れだした。大声を出してわめき、寝具や家具、本棚、調度品を引き倒して壊した。それでも興奮が収まらず大声で泣き喚いた。
誰が慰めても、怒っても、なだめても駄目だった。特に両親が近づくと、物を投げつけて、ひきつけを起こしそうになるくらいに呼吸が乱れた。
そして一日が過ぎると嘘のように静かになり、誰とも口を利かなくなり、食べ物もとらなくなったのだ。
そして久しぶりにやっと、口をきいてくれた。
「坊ちゃま、おんぶしましょうか?」
「・・・。うん。」
正直、もう限界だった。体力も気力もない。素直にハンナの背中におぶさった。
ハンナに背負われて屋敷に戻ってきたノエルを見て母親はほっとしたようだった。
「ノエル、今日はご飯食べられそう?」
「・・・。」
ハンナの背中にぎゅっとしがみつく。
「あなたの好きな肉をパンにはさんでもらったの、スープもあるわ。少しでもいただきましょう?」
「奥様、ノエル様のお食事をお部屋にご用意させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ノエルがそうしたいと言ったの?」
「はい。」
ノエルの母親アマリアは悲しそうに
「そう・・・。あなたとは話すのね。ノエル、またあとでお部屋に行くわね。」
そういった。しかし、ノエルは返事をしなかった。
サンテール侯爵家には、家長セレスタン、その両親の前侯爵夫妻と妻のアマリア、5歳の息子ノエルがいる。
ノエルを除いた家族は夕食の席についていたが、アマリアは涙を浮かべたまま食は進まなかった。
「アマリア、あなたのせいではないの?」
「母上!アマリアはちゃんとしています!」
「ではなぜノエルがああなったのだ?我が侯爵家唯一の跡取りがあの様でどうする!お前たちの育て方に問題があるのではないか?」
前侯爵夫妻は母親のアマリアを責める。しかし本当にセレスタンにもアマリアにも何の心当たりもなかった。
「少なくとも1週間前まで異常はなかった!まさか、父上またリュカの時のように・・・」
「その名を口にするな!おかげでお前たちの今があるんだろうが。」
リュカの名を聞き、アマリアは青ざめる。
セレスタンはアマリアの手を取ると
「悪かった。関係ない名など出して・・・大丈夫か?」
「ええ。」
リュカとは、このサンテール侯爵家の次男で、セレスタンの弟だった。アマリアはそのリュカの婚約者だったのだ。
アマリアはリュカを裏切り、セレスタンと結婚した。そしてその後、すぐにリュカは亡くなった。
その後悔と罪悪感は胸の奥底に閉じ込めていた、子供が生まれてから幸せと忙しさから思い出すことはなかったのに・・・。まさかノエルの事で悩んでいる今、その名を聞くなんて。自分への罰としか思えなかった。
そのころ、ノエルは自室でもそもそとご飯を食べていた。
ハンナも一緒に食べて欲しいとお願いをした、遠慮しながらも屈託のない笑顔を浮かべたハンナは一緒に座ってくれた。
「うわあ、美味しいですね。坊ちゃま、何があったか知りませんがご飯は食べないといけませんよ。こんなおいしいもの食べないなんて私には信じられないです!」
そう言いながら、ハンナはノエル以上に食べている気がする。
「・・・うん。」
「うちは貧乏ですから、こんな贅沢なお食事なんて口に入りませんでした。ここのお屋敷で雇っていただいてからはましになりましたけどね。坊ちゃまが食べられないのが悲しくなっちゃいます。」
「ごめん・・・そうだね。贅沢でわがままだね。」
「いえっ!ごめんなさい!そうじゃなくて!聡明な坊ちゃまがこうなるほどの理由があるのかと思うと、それが悲しいのです。坊ちゃま、何か辛いことを我慢してるのでしょう?」
「・・・そんなことないよ。」
ハンナは急にノエルを抱き寄せた。
「ちょっと・・ハンナ?」
「でも涙流れてますよ。」
無意識に涙がこぼれていたようで、ハンナが背中をさすってくれる。
「坊ちゃまはまだ5歳です。大人に頼っていいんですよ。私に言われてもって感じですね。」
明るく笑ってくれる、ハンナがありがたかった。
ドアが開いて、アマリアが入ってくる。
メイドのハンナがノエルと一緒に座り、食事を共にするだけでなく、母親のようにノエルを抱きよせて慰めている様子を見て、瞬間に怒りが湧いた。
「使用人の分際で何しているの!」
「申し訳ありません!」
ハンナは慌ててノエルを放すと壁際に立った。
ノエルのことに憔悴していたところに、リュカの名に動揺していたアマリアはかっとなり、怒りを抑えられなかった。ハンナを平手で打つと
「ノエルから外します!下がりなさい!」
頭を下げて謝罪するハンナを追い出すアマリアを、ノエルはどんと突き飛ばしてハンナの足にしがみついた。
「ノエル?!こっちに来なさい!」
ノエルの腕をつかんだアマリアはその手を払われた。
「触るな!汚らわしい!」
「な?!ノエ・・・ル?」
ハンナの手を掴むとノエルは部屋を出て行った。
アマリアは残され、呆然とした。
ノエルはハンナの手を引きながら笑った。
「坊ちゃま?」
「ハンナ、頬大丈夫?ちょっと赤いよ?」
「ありがとうございます、大丈夫ですよ。弁えずに調子に乗った私が悪いのです。」
「僕が頼んだんだから、ハンナのせいじゃないのにごめんね。」
「なんだか、ちょっと坊ちゃまがお元気になったみたいで良かったです。」
「ノエル」になり、絶望しかなく荒れたが、考えようによっては復讐したい相手がすぐそばにいるのだ。
サンテール家の大事な一人息子、その立場を利用すれば簡単に復讐が出来るじゃないか!そう思い、鬱屈した思いが少し晴れ、笑いが漏れた。