そのⅦ
その音をずっと覚えていたいから。
でも眠るこのときは流れている景色は自分では選べないから。
だから私は上塗りを繰り返して糊塗を続ける。
一体、どれくらいその時間が流れただろうか……。
襲いかかる眠気と気怠さから、私は刹那にその睡魔に身を委ねた。
視界が真っ暗になったあとのことは覚えていない。
ただ、最後に、彼女の鳴らす音色が微かに憂いを帯びていたような気がしたことは漠然とした胸のもやつきが覚えていた。
そして今、なにも見えていない瞼を軽く閉じている状態で、私はその状況に身体を預けていた。
このまま目を開けてしまえば、きっと彼女を悲しませてしまいそうだったから……。
せっかく用意してもらった曲を最後まで聞き届けずに眠り呆けたんだし。それに……。
それなのに、この後頭部に当たる柔らかい感触ときたら……。
そもそも私は椅子に座ったままの体勢だったはずなのに、今はこうして横たわっているんだから間違いない。
これは彼女の膝枕という恩恵をいただいているんだ。
「…………」
…………人はこれを独占欲というんだろう。
彼女に触れていること。彼女に触れることを許されていること。
このスカートの生地感も、香りも。
そして私の髪を梳くその指の優しさも。
離したくない。ずっとこうしていたい。
偽りも疑いもない、信頼で埋め尽くされたこの距離感と。
唯一のぬくもりを。
私が独り占めしたいと欲に支配されるのは、言わずもがな当たり前なことだろう。
このほんの束の間だけでも、劣等も劣情も、卑屈も卑劣も忘れさせてほしいのだ……。
「…………ん」
だが。
そう願えるほどそこに用意された時間は長くないようで。
もぞっと動く彼女のふとももは次第にもぞもぞと落ち着きを失い始める。
おそらく、足が痺れたんだろう……。
「…………」
…………私だけの至福はここまで。
これ以上、私だけの欲望に彼女を巻き込むわけにもいかない。
静かに、目を開ける。
光のある景色に目を向けると、その目の前には彼女のシルエットが浮かんでくる。
だけどよく見えない……しばらく目を閉じていたせいでまだ慣れていないのかもしれない。
「ん、あら? やっと起きたのね透華」
「うん…………」
彼女の声は確かにする。でもその表情は分からない。
もしかして、もうすでに日は沈んで……?
「愛歌、今何時なの?」
「え? えっと今は……もう夜の7時だけれど。どうかしたのかしら?」
「あ、いや……その、ごめん」
ぼやけていたのは私の視界ではなく、私の頭のほうだったようだ。
まさかそんなにも惰眠を貪ってしまっていたとは……。
きっとその間、彼女も一言も文句も言わずに待っていてくれたんだろうと思うと……大した時間泥棒じゃないか。
「透華はなぜ謝っているのかしら? なにかわたしに悪いことでもしたの?」
「え? まぁ……ほら、こんな時間まで私が寝てたせいで帰れなかったでしょ」
「それはわたしにとって謝らなければいけないことなの?」
彼女はまるで未確認生物とでも遭遇してしまったんじゃないかというくらいの、きょとん顔をこちらに向けてくる。
私自身、こんなにも珍しいものを見るかのような目を向けられたのは初めてで……それに、私はそれなりの意味があって謝ったはずなのに……なんで彼女はこうも犠牲に無関心なのか。
「す、少なくとも私は罪悪感があるというか……愛歌だって早く帰って家でやりたいこととかあるんじゃないのかな、とか……思ったから」
「それなら心配いらないわ。わたし、透華といるこの時間が好きだもの。家に帰っても楽しいことはあるけれど、わざわざ透華を置いて帰ることはしないわ」
「そ、そっか……なんというか、ありがとう?」
「う〜んそこでなぜ感謝されるのかも分からないけれど、謝られるよりはいいわね。はい、どういたしましてよ」
結局、そうやって折れるのはいつも私なんだ。
普通という認識の中では、私の謝罪を相手が受け入れるべき場面なはずなのに……。
彼女の普通はもっと、たぶんもっと普通のところに原点があるような気がした。
一緒にいたい人がそこにいるから、自分もそこにいるだけ。
そんな簡単なことを、邪なことも下心もなく言えてしまうから、私は彼女が好きなんだろう……。
ただ、それでもだからと言って聞きたい曲を奏でてくれる彼女の側で寝てしまう私からすれば、それはそれで罪を感じてしまうのも当然のことわりなわけで……。
それを、でも彼女は寝ている自分でも一緒にいたいんだから間違っていないと言い切るのはやっぱり違っていると断言したいから。
「…………ありがとう」
やっぱり私は、そんな彼女に感謝すべきなんだろう。
謝るのではなく、だからこそお礼を。
「ん? 透華、今なにか言ったかしら?」
きっと、彼女はそんな感謝の意すらもよく理解はしてくれないだろうから、聞こえないように小さな声で、私はぼやいてみせた。
「ううん、なんでもない。じゃあもう帰ろ。こんな時間に先生に見つかると怒られるし」
そもそも冬場は日照時間が短いからと、完全下校時間も早めに設けられていたはずなのだ。
「それならさっき言われたわ」
「は!? ほんとに?」
だからこんな時間まで残っていると先生にバレれば説教もくらうというのに……彼女はしれっとしていた。
「ええ。さっき見回りに来られて、見つかってしまったわ」
「電気も消えてたのによく気づいたな……」
「扉が少し開いていたのよ」
「そういうこと……」
となると、扉の鍵を職員室に持っていくときにどうせ叱られる羽目に合ったわけだ……。
なおさら私は彼女申し訳なくなる。
「透華、その顔はやめてちょうだい」
「え……?」
彼女は肩に鞄を提げて立ち上がり、私を鋭い眼差しで見下す。
「さっきわたしに謝ったときと同じ顔をしているわ」
「あ、ごめ……」
「透華は本当に悪い子なのね」
「…………」
私はなにを言えばいいのか分からず俯いてしまう。
「透華」
「……なに?」
「わたしに謝るのは、わたしから離れてしまうときだけにしてほしいわ。それ以外、わたしは透華に謝られることを求めたりしないわ」
「わ、分かった……」
それから彼女は怒っているでも喜んでいるでもない、不器用な微笑みを浮かべて、扉の方へ歩いて行ってしまう。
私も追いかけるように鞄を拾って、彼女と一緒に教室を後にした。
「あれ、鍵は閉めなくていいの?」
「ええ。先生があとで閉めにきてくれるらしいわ」
「なんでそんなわざわざ……」
本当にわざわざ来る必要なんてないのに。
その本当に潜んでいる意味は、彼女と先生のやりとりの中に隠されているんだろうか……。
私はそれを聞くことができずにその開きっぱなしの扉を一瞬目にした。
帰り道、さすがに今日は寄り道もせずに一直線に家を目指すものかと思っていた。
親も心配させるし、夜は危険だし、なにより彼女に迷惑かと考えたから。
でも、彼女はそれ以上を口にした。
「ねぇ、透華」
「ん、なに?」
「少しだけ、いいかしら?」
そう言って立ち寄ったのは最寄り駅の近くにちんまりとある公園だった。
二人で並んで小さなブランコに座り込む。
ゆらゆらと揺られることもなく椅子代わりにして私たちは真っ正面の同じ景色を目にする。
なんてことのない小さな滑り台。
「透華、わたしの曲はつまらないかしら?」
それを聞いた瞬間、はっとした。
皮肉じゃない……その本心を。
その質問の意味のせいは、きっと私だ。
「ううん、素敵だと思う。限りなく私はそう思ってるから、愛歌のところに行くんだよ」
「わたしの曲は、透華になにを与えてあげられているのかしら」
「…………言葉にするのは難しくてよく伝わるかは分かんないけど……たぶん、愛歌は私に明日をくれてるような気がする」
「そうなの、ね……」
珍しく、彼女はなにか悩んでいるような様子だった。
でもそれは私が彼女の曲を最後まで聞き届けられなかったからだろう……。
私一人なんて……と思ってはいけないとは分かっている。こんな私はでも彼女はそれでも一緒にいたいと望んでくれているから。
だからこそ、あの貴重な時間を、大切にできなかった私のせいで……。
謝りたい。でも彼女はそれを受け入れてはくれない。きっと彼女は自分自身に魅了する力がなかったと責めてしまうだけだから。
そんなことないというのに……。彼女は羽ばたいてしまえば必ず世界が広がる。
優しくて、あたたかくて、可愛くて、真っ直ぐ。そんな人間を世間が妬むはずも恨むはずもない。
ちゃんと順応して循環して生きていけるんだ。
それなのに彼女は……。
「愛歌はさ、なにになりたいとか、そんな夢みたいなものはあるの?」
「夢、かしら……?」
「うん、例えばピアノをたくさんの人に聞いてほしいとか」
「ううん、そんなことは望んでいないわ」
きっぱりと断ち切るように彼女は言い切った。
「そ、そうなんだ……」
「そうね、でも夢を語るとするならば……」
そして、瞬きを一回して、彼女はこちらを見なかった。
彼女が見ていたのは、そのどこまでも広がる夜空。
「たった一人でいいわ」
その寂しげな声は、目の色を教えてはくれなかった。
どうもおはようございます雨水雄です。
といいつつもこの話がみなさんの目に届くころにはこんにちはになってるんですけどね……。
とりあえず体調に気をつけて、夏に向けて準備を整えましょう。
2021年の夏はそのときにしかやってこないものなので。
ならばそこにしか残らない思い出をバーンと打ち上げたいものですね。
さて、今週もここまで読んでくださりありがとうございます。
では来週もよければここで。