後編
「サンーおやつの時間だぞ」
私はそう言ってバナナの房を片手にサンの部屋に足を運ぶ。いつもなら、こういっただけで勢いよく扉を開けるのに今日は何の音もなく私は少し胸騒ぎがした。いや、ただ夢中になっていて私の声が聞こえていないだけか。私は、サンの部屋の前に立ちドアノブに手をかける。ぱっと開けた視界の先にはたくさんのおもちゃが一つの町のように並べられていて遊びかけだろうか、ぬいぐるみが二つ放り出されるように置かれていた。まるでおもちゃの王国は時を止めたようだった。私はトイレに行っているのだろうかと思ったがそこにもサンはいなかった。ベットの下も、私の部屋も普段使っていないものをしまっている物置も家の隅々まで探したがどこにもいなかった。動揺し、辺りのものがめちゃくちゃになるのも構わずサンの入ることができそうなところを探す。どこに、どこに行ったんだ。キッチンの道具は収納棚から全部出され、書類を入れていた箱は無残にもひっくり返され洋服棚の服は季節も関係なくおっぽり出された。もう足の踏み場も危うい頃、この家にはいないというもうずっと前から頭の隅にあった考えを突き付けられる。いや、でもそんなはず……私は玄関のほうに足を運ぶ。少し走るような形だった。玄関のノブに手をかけるとすんなりと開いた。私は家にいるときでも基本鍵をかけるようにしていた。特にサンが来てからは忘れずにかけていた。ということは……私は急いで靴を履き、慌てて外へ出た。冷たい空気が顔を打ち、ひりひりと顔が痛みだす。耳の感覚はなくなってしまったかのようだ。私は何の防寒具もつけていないことも気づかず、冬の夕暮れの風の中駆けだしていた。まだ、走り出して間もないのに不安からか心臓が鳴りやまない。サンは自分で扉を開けて出ていったのだろう。するとやはり普段よく足を運ぶ公園に向かうだろうか、それとも好奇心から町のほうに出たのだろうか。私はとりあえず公園に向かってみることにした。公園の入り口に立つ。どくどくとはやる鼓動を抑えるように深呼吸した。ぱっと見たところサンはいなさそうだった。もう日は落ち、辺りは薄暗く子供の姿も見受けられない。
「サンっ……サンー!」
ありったけの声でそう叫ぶも声は空しく寂し気な夕暮れに消えてゆくばかり。ベンチのそば、遊具の陰、サンの大好きな砂場にもサンの影はなく、私は大きくなった不安の塊を抱え、公園を後にした。
もうこの路地を抜けたのは三度目だった。サンが行くことができそうな辺りを探す。空には鈍色の雲が立ち込め、もうじき雨が降りそうな空だった。市場のほうにも足を向けたし、広場や、細い路地まで抜けた。それでもサンは見つからず行き違いがないかとまた広場のほうにやってきた。まさか、ミドリ橋を渡ってしまったのではないだろうか。あそこは車通りも多いし、サンは行かないかと思っていたが念のため確かめておこうと足を延ばす。ぴたと額が濡れたような気がして顔を上げる。雨が降ってきたのだろうか。気分は最悪だったがそれでも体はミドリ橋に向かっていた。
ザーザーと降りしきる雨に冬の凍えるような寒さ。靴はぐしょぐしょで歩くたびに気味の悪い感触があったがそんなことはもう気が付かないくらい私は恐怖感に打ちのめされていた。ミドリ橋にもサンはいなかった。もうサンはどこにもいないのかもしれない。ただ、怖かった。悪夢を見るのが怖くて眠れぬ子供の夜のように、何とも言えない恐怖が背筋を伝う。気の抜けたように歩いているといつの間にか家の前に立っていた。見慣れた玄関の扉。私は残念な結果を胸に静かに扉を開けた。廊下がじわりと濡れる。私は不幸をまき散らすように歩く。手は寒さで赤に染まり、対して温かくもない玄関が外の寒さの反動で暖炉のある家のように熱すぎるくらいに感じた。いろいろと散らかされた物たちをよけて進む。それらは雨に濡れた私のせいでいくらか汚れてしまったかもしれない。でも、そんなことはどうだってよかった。開けっ放しのドアからリビングが見えた。家を出た時とは物の配置が違う。書類が乱雑にまとめられて箱に片づけられ、フライパンなどの調理器具はテレビ棚の下にしまわれている。
「サン……?」
私はそっとそう呼び掛けていた。
「きっき!」
後ろから声がしてすぐに振り返る。すると頭にざるをかぶって片手にランプを手にした片づけ途中のサンが嬉しそうに私のほうに跳ねてきた。そして、私が濡れているのにもかかわらずぎゅっと抱きついてきた。私は呆然と抱きしめ返し、
「サン、どこへ行っていた?」
と聞いていた。するとドアを指さし、一人で出かけたことを自慢するように
「ききっ!」
といった。私はどうしようもなく腹が立った。そして、自分からサンを引きはがしさっさと自分の部屋に戻ってしまう。そして服だけ着替えてそのまま布団の中にもぐりこんだ。それからアンモナイトのように丸まり一人寒さに震えた。サンは私がこれだけ心配したのにも関わらず、平気そうな顔をしていた。一人で出かけられることがそんなに嬉しいのか……。怒りは悲しみに変わり、すねた子供のようにぐっと唇を噛む。私はいつかサンが幼稚園の子供たちと仲良くしている姿を思い出していた。あの子たちのほうが一緒にいて楽しいだろうな。サンは私がいなくなってもそんなに悲しまないのかもしれない……。私ばかりがサンを大切にしていてサンは私を煩わしいと思っているかもしれない。そんな考えが次から次へと心を染めていく。ぼろぼろと涙がこぼれた。こんなこと初めてだった。ただ、辛くて仕方なかった。いっそ、サンとの思い出をすべて忘れられたら……こんな悲しむことはないのに。
ぱっと目が覚めた。瞼が痛み昨日一人泣いていたことを思い出す。サンといると私まで感情豊かになってしまうようだ。今は少し落ち着いて、それでも寂しさをぬぐえずにいた。とりあえずシャワーを浴びてリビングに降りる。サンの姿は見当たらない。私は少しばつが悪くサンに声をかけなかった。食事をする気にもなれず再び布団にもぐる。まだ疲れていたのか次に目が覚めた時には昼下がりで昨日に続けて天気が悪く曇った空は私の心を憂鬱にさせた。それでもやはり、一番気がかりなのはサンのことで何か食べ物を出してやらないといけないだろうとリビングに向かうため立ち上がる。もし、今、下に降りてサンがいなかったら? ふと、そんな考えが浮かぶ。まさか。きっといつもみたいに昼寝でもしているだろう。ただ、少し不安になってドアを開けることをためらうが意を決してそんな不安をつぶすように勢いよくドアを開けた。
サンはリビングを行き来していた。毛布を引っ張りまわし、何かを心配するように。こんなサンは見たことがなくて、それに少し痛々しくも思えて視線をほかに移す。ただぼんやりと見ていると違和感のある片づけ後がたくさん見えた。そして、昨日私が帰ってきたときにサンが片づけをしていたことを思い出す。
「めちゃくちゃに片づけやがって……」
そっとそうつぶやいた。また片づけなおさなければいけないだろう。サンのやったことは無意味だ。大変だったろうに。あの小さな体でたくさんの物を片づけるサンの姿が浮かんだ。その姿にサンが自分のことを大切に思ってくれているように感じた。何も心配することなどないのだと。静かに涙が頬を伝った。
「サン」
私がそう呼び掛けると、サンはぱっと振り返り私のもとへ駆けてきた。ぴょんぴょんと跳ねるようにやってきて、サンの高さに合わせてしゃがんだ私の前で立ち止まると心配そうに顔を覗き込む。私はそんなサンを強く抱きしめて、本来昨日に言うべきだったことを今伝えた。
「お帰り、サン」
あれからいくつかの時がたった。朝食をとる私の前にサンはいない。そんな日々になれたように私も一人朝食をとっていた。
「いただきます」
確か、サンと暮らし始めて三年くらいたったころだろうか。春のうららかな日差しがカーテンのようにリビングを照らしていた。開け放った窓から爽やかな風が通る、暖かい午後のことだった。昼寝から目覚めた私は昼食の時間が過ぎていることに気づき、作るのも面倒だと思ったので近くのパン屋にでも行こうとサンを探すことにした。サンの部屋をのぞき見る。いつもはおもちゃが散らかり転がっている部屋にはただキレイに重ねられた落書きが置いてあるだけでおもちゃたちははきちんと片づけられていた。どうしたんだろうか。違和感を覚えた私は家の中もそれから家の外まで探したがサンは見当たらず、帰ってくることを信じて待ち続けることしかできなかった。
そうして今に至る。今でも向かいの席にサンが座っていないことがサンがいなくなったことを痛いくらいに訴えていたし、サンのお気に入りの場所や遊び道具を見る度に何かを思い出して涙があふれた。いつの日かサンからもらった時には困惑した木の実は今では宝石よりも大切な宝物になっていたし、サンが最後に残した紙束は今も大切にしまっていた。……それにしてもどうしてサンは出て行ってしまったのだろう。それは今でもよく分からない。でももし、のこのこ帰って来たなら叱ってやろうと私は心の隅でそんな希望を語っていた。サンがいなくなった日のような穏やかな陽の中私はたまには散歩でもと玄関の扉を開けた。
「きっき!」
ぶわりと吹く春風の中懐かしい声が耳をくすぐる。私は目を見開いた。
「サ……ン……?」
サンは、そうだよ! というように二度うなずき大きく手を広げた。
「サン……。ああ、よかった。見つかって本当に良かった……」
私は目の前にいるサンに駆け寄り心の底からそう言った。もう抱くことのできないと思ったその小さな命を私は、ぎゅっと強く抱きしめた。サンはにっこりと微笑んでいた。目の前にいるサンは私の記憶と何ら変わりなかった。だが次の瞬間
「きっき……」
サンがぐったりと私の胸の中に倒れこむ。
「サン?」
ほんの数秒の出来事だった。かつての幸福な時間が戻ってきたような気がしたのは。サンは私の腕の中で眠っていた。幸せそうに。永遠に。
そのあとはもうどうにもならないと分かっていたのに夢中で獣医に向かっていた。
「サンはどうして死んでしまったんですか……」
私はそう獣医に尋ねていた。
「学者先生、そりゃさすがにないでしょう。どう見たって老衰ですよ」
そんな馬鹿な。だってサンはあの頃と何ら変わりはない。ライトブルーの毛並みはつややかで傷一つない柔らかい掌。老衰な訳ないじゃないか……。
「サンは、いなくなったころと何ら変わりないんだ。まだあんなに小さくて、か弱くて……」
「学者先生、ちゃんと見てください。あの子はもう子供じゃありませんよ、むしろアルルとしてはかなり長生きな方じゃないですか」
その言葉に私は今一度冷たく横たわるサンを見つめた。その獣医の言葉は私にかかった思い出のフィルターをとり、本当の姿を見せた。ライトブルーだった毛は少し白くなり、ぼさぼさでとても汚れていた。小さかった掌は少し大きくなりたくさん豆ができて固くなっていた。ショックに打ちひしがれる私に獣医は静かにこう語った。
「きっと、この子がこんなに長生きしたのは最後にどうしても学者先生に会いたかったからではないですかね。こんな老いた体で動くのは大変ですからね」
サンの死からしばらくが経った頃。私はサンの部屋の中心で寝ころんでいた。どうしてサンは家を出てしまったのだろう。それが知りたかった。はあっと息をつき天井と向かい合う。電気のついてない部屋は窓から差し込む光だけで少し薄暗い。ちくたくと時を進める壁掛け時計の秒針の音の中、私は思考を巡らせた。サンが最後に残した紙束……あれに何か意味があったら? もちろんもう何度も見返しているあの紙、絵が残っているのならまだわかるのだが黒のクレヨンでかかれたそれは何か物を描いているようには到底思えなかった。でも、どこかでそんなふうな落書きを見たような……サンの部屋を見渡す。部屋にあったサンのスケッチブックを見てみるとそこにもところどころ似たような落書きがあった。そして、もう一つ私の忘れていた存在、文字の練習帳が出てきた。この落書き……よく練習帳のいびつな落書きを見てみる。形は大きく違っているものの一字一字ある特徴がありサンはサンなりに文字を理解して書いているように思えた。
「嘘だろ……」
試しにスケッチブックに書かれた落書きを練習帳の形の似ている落書きに当てはめて読んでみると言葉が浮かび上がった。
「お・じ・さ・ん・の・え」
そこには確かに私と思われる絵が描かれていた。
「それなら、この紙束は……」
サンが最後に残したこの紙束はサンからの手紙……なのかもしれない。私は無我夢中で練習帳と紙束とを照らし合わせサンが残した最初で最後の言葉を読み解いていった。
「帰ってきちゃったんだな、サン」
紙束を読み終えて私はそうつぶやいた。
「ずっとそばにいてくれてもよかったのに」
それでも、サンのしたことは何も間違ってはいない……私はそう思った。
「ありがとう、サン」
それでも私は悲しくなってただ一人、静かに泣いた。
「だいすきなおじさんへ
さんはたびにでます。
さんはおじさんとわかれるのがかなしいです。
でもおじさんとさんは
いきるながさがちがいます。
いつかはわかれなければいけません。
さんはおじさんといっしょにいるのが
ながくなると
おじさんをどんどんだいすきになります。
すきになればなるほど
わかれたくなくなります。
だからもっといっしょにいたら
わかれるのがもっとくるしくなります。
だからさんはたびにでます。
すごくさみしいけど
もうおじさんにはあいません。
さようなら、おじさん。だいすきだよ。
さんより」