前編
「サン……。ああ、よかった。見つかって本当に良かった……」
私は目の前にいるサンに駆け寄り心の底からそう言った。もう抱くことのできないと思ったその小さな命を私は、ぎゅっと強く抱きしめた。サンはにっこりと微笑んでいた。
近年見つかった不思議な生物アルル。アルルは人間のように複雑な感情と、ある程度の知性を持っていることが分かった。見た目は猿のようで、毛はライトブルー。目は大きくくりっとしていて長い尻尾は手足のように自由に操ることができ身体能力はとても高い。アルルには言葉はなく、そのため今まではただの猿の一品種としか見られていなかった。しかし、動物の本能としての行動とは思えない譲り合いや、助け合い、または裏切りや争いが見られたため感情や知性をもっていることが分かり、今ではもっとも人間に近い生き物と言われている。もちろん、アルルは私たち生物学者の中でも話題となり、私はアルルを育てることとなった。一実験体として。アルルにどこまで深い感情、思考があるのかを検証するために。とても興味深い内容だとは思うが世話をするのは少し面倒くさそうだ。
アルルが一匹入ったケースを片手に炎天の中私はそう思っていた。坂道を下り途中。アスファルトの照り返しで足元だけが異様なほど熱く感じた。ケースの中のアルルはまだ子供とはいえなかなかに重かった。5、6kgぐらいだったような気がする。少し道からそれると地面はアスファルトから芝生に変わりその先にアルルと共に暮らす家があった。この日のためにある程度都会に近く、森の多いこの辺りに家を借りたのだ。二階建てのその家は庭が広く冷暖房もしっかりしていて、アルルを育てるには最適な環境だった。家につきアルルの入ったケースを置く。そのころには汗が頬を伝い、肩に荷物を背負っているときのように体が重く感じた。とりあえず、扉を閉めて冷房を入れた。それから台所に行ってシンプルなグラスを手に取り、水道水を汲んだ。ソファーにぐったりと腰を下ろし、入れた水を息をつく暇もないくらいの勢いで飲み干した。疲れがはがれていくように感じ思わずふうっと大きく息をついていた。それからふと連れてきたアルルのことが思い出され、重い腰をけだるげに上げる。それからケースの扉を上に引き上げた。すると、アルルは解き放たれた魚のように勢いよく飛び出て辺りを飛び回った。疲れていた私はその様子をぼんやりと眺め、やがて重い瞼に誘われるように目を閉じ眠りについていた。
まるで、隣でシンバルが鳴らされたように何かが割れる音がした。驚いて開いたひとみは眩しい光に眩み痛むようだった。瞬きを繰り返しながら体を起こし、辺りの様子を見た。その光景に私はもう一度驚く。嵐が過ぎ去ったかのように書類は散らばり、椅子は倒れ、机に置いていたさっきのグラスは机の上から落とされ恨むかのように鋭く輝いていた。机の上にはガラスが割れるときの音に驚いたように呆然としているアルルがいた。
「ああ、もう!」
私は思わずアルルに向かって大きく振りかぶり今にも手を出しそうになった。アルルが騒ぎ部屋を荒らしたその事実に対し腹が立っていた。睨むようにアルルを見ていた私の目に自分を守るように頭に手をかざし体を小さく丸めたアルルの姿が映った。そのおびえた姿はこの小さな生き物にも心があることをありありと示していて、私はすねた子供のように唇をはみゆっくりと手をおろした。こんな時どうすればいいのかわからず途方に暮れる。おおよそ何かと触れ合うのが苦手な私は彼女はおろか友達はいない。昔、家族で犬を飼っていたものの全然懐かれることはなかった。はあっとため息をついてとりあえず昔聞いたことあるような、目と目を合わせきちんと言葉で伝えることをしてみようと屈む。
「部屋は公園じゃない。遊び回っちゃあいけないんだ。物が散らばっちゃうだろう? また、外に連れていてやるから家ではおとなしくしてくれ。なっ?」
アルルはしばらく考えた後ぱっと理解したように
「きっき!」
と返事をした。そうして、さっきまで私の寝ていたソファーに転がり少し丸まるようにして寝た。果たして、私の言った言葉はこの小さな生き物に通じたのかどうか……正直なところ判断はできなかったがアルルが静かにソファーで眠っている姿を見ると不思議と幸福感が湧いてきた。自分の言葉を聞いてくれる誰かがいる。それは、私にとってはほとんどないことでましてやここまで気楽に接することができるのはこのアルルくらいかもしれない。
「悪くないかもしれないな」
そうつぶやいて、散らばった書類を拾い始めた。よく分からないメロディーを鼻歌に乗せて。
次の日のことだ。息苦しさで目を覚ました。何か乗っているようで自由に体を動かせず首だけ起こすようにして自分の上に乗っているそれを見た。アルルだ。アルルは手足をくるめて丸まるように眠っていた。まだ、眩しいのに慣れない目をしばたかせ、なんとなく触れてみようとタオルケットの隙間から手を伸ばす。ふわふわとした温かい毛皮に小さな命を感じた。重い……。私は再び息苦しいことを思い出しゆっくりとアルルを起こさないようにタオルケットから這い出て、うーんと伸びをする。エアコンは一日中つけていたので暑苦しさはなかった。家の中は昨日片づけたときのまま散らかってはいなかった。アルルはちゃんと自分の話を聞いていたんだなと思い少し顔が緩んだ。公園か……。ふと昨日の約束を思い出す。面倒だが、ちゃんと連れて行ってやらないとな。キッチンに向かい自分とアルルの分の朝食を用意する。アルルは感情を持っているどころか私の言ったことまできちんと理解しているようだ。話すことはできないけれど、もし、文字を教えたら……私は昨日のことを文章にまとめようと目玉焼きを焼きながら頭の中で文字を巡らせていた。とたとたとた、と軽々しい足音が聞こえてきてぱっと振り返る。そこにはアルルがタオルケットを引きずってぽかんとした間抜けな表情を浮かべていた。その表情に少し笑えそうだったがそんな表情を表に出すことはなく眉をひそめて
「どうしたんだ?」
と尋ねる。アルルはやはり私の言葉を認識したように何かを訴えようとタオルケットを手放し、自分を指さしながら
「きき? ききき?」
と不満そうに声を上げた。
「あーあ、私にもお前の言うことが分かればよかったのにな。さあ、突っ立ってないでそこの椅子に座ってなさい」
私は、さしてアルルの様子を見もせず、朝食を白い食器にのせながらいった。トーストがちょうど焼けてそっちの方に手を伸ばし、ついでに冷蔵庫のミルクも取ろうと向きを変える。その間もアルルは
「きぃきっ!!」
と声を上げていた。私は、こっちといってアルルを抱き上げ椅子に座らせ、適当に盛った果物をアルルの前に置く。ちがう、というように下唇を突き出し不満げな様子を浮かべていたが、目の前の果物の誘惑には勝てなかったようでじきに嬉しそうに体を揺らし始めた。
「先に食べていてもいいぞ」
私がそう声をかけたがアルルは
「きっき」
といっただけで、果物を食べ始めはしなかった。私は、ちょっと首をかしげたがまあいいか、と付け合わせのサラダにドレッシングをかける。すべての用意が終わってアルルの座る向かいの席に着くとアルルは
「ききききっきっき!!」
といって目の前のリンゴを手に取り食べ始めた。私も一人じゃほとんど言わなかったのになんとなく
「いただきます」
といってトーストをちぎった。いつもと同じ、目玉焼きに、トーストに、サラダに、ミルクなのにどうしてかおいしいといいたくなった。鼻をくすぐるバターの香りが、ピリッときいたコショウが。今までは、食事という行為にそれ以上の意味はなかったのに、今は確かにこの時間に甘美な意味が与えられていた。どうしてだろう? ただそっと顔を上げると目の前にはアルルがいて、さもおいしそうに夢中で果物にかぶりついている。そして思い出す、いただきます……そして、先に食べてもいいといったのにどうしてか食べなかったアルルの後姿を。アルルは私が席に着くまで食べるのを待ってくれていたんだな。子供のころは当たり前にできていたことなのに、当たり前に言っていたいただきますの言葉すら忘れていたなんてな。ちょっとこの小さな生き物に感謝して、一段とおいしく感じるただのサラダを食べてふっと微笑んだ。
「散歩に行きたいか?」
私は朝の不満げなアルルを思い出してそういった。やはり、動物であるし本能的に体を動かしたいと思うものだろうと考えたのだ。アルルは
「きき! きききっき……」
と私の提案は嬉しいようだがまだ何か不満があるようだった。というよりかはなんだか悲しいようだった。私も何とかその不満の正体を突き止めたいと唸るものの食事は十分満足そうだったし、トイレにも一人で行くことができるようだった。おもちゃでも欲しいのだろうか? そう聞いてみたがアルルは違うというように首を横に振った。アルルはきょろきょろと辺りを見渡し、ふと
「ききき!!」
といいものを見つけたというように走り出した。そして、私が研究所へ行くときに使うネームホルダーをもって帰ってきた。首から下げて使う名札のようなものだ。
「それが、気に入ったのかい?」
アルルはネームホルダーに書かれた私の名前を指した。
「私の名前だが……? それがどうした」
それから、次にアルルは自分自身を指した。しばらく悩みもしかしてとこういった。
「名前が欲しいのか?」
「きっき!」
アルルは手を突き上げやった! っというようにぴょんぴょん飛び回った。確かに、言われてみると私はこのアルルのことをお前としか呼ばなかったし、頭の中でもアルルとしか認識していなかった。名前、か。ふと外を見ると太陽の光がカーテンの隙間を縫って窓から差していた。
「そうだな、今日は天気が良く、太陽が綺麗に輝いてるから……お前はサン……サンという名前にしよう」
かなり、適当につけた名前だったし別に特に気に入ってはいなかったけれどアルルは……もとい、サンは嬉しそうに顔をほころばせ「きっききっき!」
とスキップをするように駆け跳ねた。私は、まあいいかと楽し気な様子を眺めた。でも、外に行って体を動かすことよりも自分の名前を欲しがるなんて本当に動物的だとは言えないな。なんというか、人間よりも感情に心に生きている。例えば、命よりも愛を大切にするような。それはちょうど詩人のように思えた。