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カフェバタビア

作者: みずしろ

どんよりと雲が低くのしかかっている。

腐った魚介と人足のにおいが港から漂い、拭っても拭っても汗が体中にへばり付くような日だーーそれでも焦げ付く日差しよりはましだが。


運河沿いに進みオランダ橋を抜けた先、大砲のある石造りの広場にそのカフェはある。

私は貼りつく衣服を不快に感じながら、緑色の軒が涼し気な2階建てのカフェの前に佇んだ。

カフェバタビア。

意匠をこらした綿のクバヤをぴったりと着た案内係がうやうやしく人数を聞き、席へ案内してくれる。

このカフェで不可思議なことが起こったのは一週間前のことになるだろうか。


一週間前、本国へ帰任が決まった某婦人がお茶会を開いた。

まずは磨き抜かれたカウンターで食前酒を手に談笑し、互いの服や装飾をちらりちらりと、どこのご婦人が羽振り良いのか品定めが始まった。主に女性ばかりが招かれたとはいえ、海軍や海運会社、貿易会社で、誰の贔屓を得ればいいのか、今どんな将校が力を持つのか、は貴重な情報だ。

そしてそのまま、にこやかに笑みを絶やさないままさざなみのように二階へと移動していった。

中央から取り寄せたであろう立派な木材を張り巡らせて白味のつよい彩色を施してある二階は天井が高く、広々としている。先の広場を一望できるのもこの店の売りだ。

各々力関係が伺えるような席へつき、生牡蠣、サラダ、牛の肋肉を使ったスープを堪能した。それからご婦人自慢のチョコレートケーキが直々に供されたところでそれは起こった。


「あら」

素っ頓狂な声をあげたのは、派手なご婦人だった。招いたホストであるそのご婦人は、海軍の保護の下、海運会社で結構な地位を得ているだけあって、髪を高々と結い上げ、耳朶にこれみよがしに大きな真珠が揺れていた。

「わたくし、何か入れたかしら」

磨き上げられたナイフがかちかちとケーキの何かにぶつかった様子を、招かれた人々は不躾にならない程度に見守った。


「……まぁ」

やがて、チョコレートケーキから白い皿に転がり出てきたものは金の指輪だった。それもそのご婦人自身の。


ーーー私は、銀幕のスター達が壁を飾る黒い階段を登りながら思う。

人によっては「婦人が指輪を付けたままケーキ種を混ぜて、指から抜けたことに気付かないまま焼いたのではないか」で納得したが、あれは本当にそうだったのだろうか?

そもそも、ケーキと名のつくものを焼いたものであれば誰でも、生地を混ぜる器具は突っ込むが素手は突っ込まないことは容易に想像がつく。仮にその金の指輪をしていても、生地に取り残すことは無い筈だ。よほどサイズが合わずに取り落としたならまだしも、その場で首を傾げながら嵌めてみせた様子を見るにあれは確かに婦人自身のものだった。



ぱさり、と青く長い葉が落ちた。


広々とした二階の、よりによって日の当たらない席に今日はいた。

花切のじいさん、とひそかに私が呼ぶ老人が。


「相変わらず派手に散らかしてますね」

散乱する葉や茎を踏みつけないよう気をつけながら私はその老人に近付いた。

年の頃は70くらいか。

手描きの布を巻いた頭からは白髪が見える。

無類の酒好きと見えて、グラスを煽りながら剪定ばさみを操る。今日のお好みはウォッカのようだ。


「あぁ、あんたか」

物好きな、と噛み煙草で染まった齒の隙間から中央訛りの呟きが洩れる。

席の前に据えた花瓶からは目も離さない。


「気になることがあると眠れないだけで。ただの独り言なんでお気になさらず」

私はそう老人に返しながら、茶と軽食を注文した。

カフェの奥、従業員達のエリアは相変わらずかしましい。



レモングラスに虎の尾に、あちらは定番の蘭が頭をもたげている。ぱさり、ぱさり、と植物が形を変える音を聞きながら取り留めもなく考える。

自分が焼いたケーキから自分の指輪が出て来たが、覚えがない、その可能性は?

一、本当に忘れていた可能性

二、指輪が他人の物、ひいては通俗小説のように配偶者の浮気相手がわざと入れた可能性

三、そもそも自分が焼いていない可能性

「三、だな。ニの想像は止めておけ」

不機嫌な相槌がうっそりと返る。

「何故そう思いますか?」

私は腕組みをして待った。

この老人が、というよりこの国の人間が自分の職場で起こった珍事を知らない訳がないのだ。ただ、一般的に他人事のゴシップとして面白おかしく野火のごとく燃え広がっては消えて行きがちな点において、この老人の認識は毎度何かが違った。

やがて、一際大きな茎が断ち切られ、老人が吐息と共に言葉を吐き出した。

「使用人が居ない方が珍しいからだ、このカフェに持ち込んでも遜色のないケーキを焼ける広さの台所をもち、このカフェで会合を開けるご身分なら」

ーーーなるほど。

私は事務書類を頭から引っ張り出した。本国から家族連れで赴任する上席の方々は、確かに居住区のみならず使用人も予めその年の予算に組み込まれている。上級位であれば単身者でも問題ない。

「仮に使用人がケーキを焼いていたとします。指輪が出て来たのは何故でしょう」

ははは、とこの質問には乾いた笑い声が返った。

「まず、ケーキは少なく個別に焼けるかい?そして、食べ切れなかった分はどうする?」

建物に刻まれた1805年や1810年という誇らしげな文字を無意識に思い描きながら、私は辿るように答えた。

「ケーキの型はワンホール……使用人がいるなら余った分は……持たせるのではないでしょうか」

つまり、

「多くの使用人達にとって、自分達が持ち帰ることの出来る食べ物に混ぜるのは持ち出し手段の一つなのさ、雇い主の貴重品のね」


名の刺繍を意識した給仕が茶を運んできた。最近の天気や客の入り等の会話の中に5回ほど名を名乗り満足げに立ち去るのを待ち、目当ての茶がしっかりと蒸されていることを確認し、私は溜息をついた。ジャスミンの生花と長時間熟成されたそれは、すっきりとした香りで慰めてくれる。

金の指輪は窃盗の一角だったという訳か。

「赴任してきた方々の一番気を付けるべき時は帰任時期が判明した時と聞きますね、そう言えば」

今回のご家庭については家政婦が何回か代わっているから、使用人にとっては案外ケチに思える不満な環境なのかもしれない。その土地ならではの特殊な習慣は、渡し過ぎも毒だが、渡さなさ過ぎももちろん毒だ。

と、私はここで気付いた。

「しかし、邸宅の外、つまりカフェへ持ち出されたんですよ?指輪の回収はもとから無理だったのでは」

無理を承知でケーキに混ぜたのか?

ふん、と老人が鼻で笑った。

「そんな調子だとあんたのとこは大変だ。海軍の保護があるこの町で、顔見知りは上の連中だけとは限るまいに」

私の目はカフェの従業員達に注がれた。表では粛々として見える彼らが、一枚皮を剥ぐだけで必要以上に群れ集いかしましい様は把握しているつもりだ。その上で、はたして、この町で、フリーとして飛び込んで来る求職者など見たことがあるだろうか。皆、誰かしらの紹介状や推薦状を携え、さもなくば貿易会社に密接な関わりをもつ組合から派遣され、または裾野の広く遠い親戚を頼り頼られている。

だから、ケーキがこのカフェに持ち出されても回収できると『彼ら』はたかをくくったのだ、まさかご婦人が自分で切り分けるとは思わないから。

はは、とつい笑った。

「解雇どころか、下手に悪口も言えませんね。知らない人からお茶に毒を入れられそうだ」

そうさな、と老人が真面目くさった声で相槌をうった。

「逆恨みされて黒魔術なんか掛けられたら大変だろ?」

ーーー確かに。



老人に丁重に礼を言い、暇を告げる。

給仕が再び名の刺繍が私に見えるように胸を張っているのを横目に会計を済ませる。

それから階段を降り、ふと、出入り口のケースに納まった宝石のようなケーキ達を私は眺めた。中に金の指輪が入っていたりはしないだろうか、と好奇心が掠めて頬が緩んだ。

ご飯を食べた後で思い付きました。

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