04. 迷子
翌日、俺はいつもより少し早めに家を出た。
今日から俺は一人で登下校をする事になる。
十年以上続いた支配からの脱却。
理不尽な主従関係の解消。
奴隷からの卒業。
自分の中で何か期するものがあるのかと思ったが、特に晴れやかでもなければ、重苦しくもない。平常時と変わらぬ心理状態に思えた。
通学路となっている芝浜邸を素通りする。
いつもは、施しを求める物乞いのように、屋敷の外から唯華を待っていた。
子供の頃は屋敷の中にも入れたし、唯華の自室で遊んだ事もあった。
一体いつからだろう。あんな歪な関係になってしまったのは。
彼女だけに非があるわけではない。
諸々の諸事情が重なり、その関係を甘んじて受け入れてしまった自分にも非はあるのだ。
だがもういい。
今となってはすべてがどうでもいいことだ。
俺はこの先どんな事が起ころうと、彼女との縁を戻すことはないだろう。
すべてはもう終わってしまった事なのだ。
「誰が先に行っていいって言った?」
背後から聞き慣れた声がした。
凛として、峻厳で、優しさの衣をすべて払い落としたような声だ。
誰かを確認するまでもない。
「虫が無視するなんてとんだお笑い草ね。地べたを這いずり回るのがお似合いの毛虫か、塵芥ほどの存在しかない羽虫程度の分際でよくもこの私をシカトしてくれたもんだわ」
後方から勢いよく走り込んでくる足音が聞こえる。
俺は振り返りもせず、何の反応も示さず、ただ前を向いて歩き続けた。
「随分舐めた態度とってくれるじゃない。呼ばれたら勢いよく「はい!」と返事しろって芝浜教官から教わらなかった? どうやら私の躾が甘かったみたいね!」
そう言うと唯華は空中に高く舞い上がり、俺の背中に向かって思い切りドロップキックを放った。
胸骨がミシっと音を立て、視界が大きく揺らいだ。
慣性で姿勢がわずかに後ろに仰け反ったあと、彼女の体重分の衝撃が伝わってきた。
前方に無惨に吹き飛ばされた俺は、午前七時半の路上のアスファルトに蹲った。
制服が汚れて嫌だなと、少しだけ思った。
うつ伏せで微動だにしない俺の背中をローファーで踏みつけ、髪の毛を掴み頭部を持ち上げる。野武士が切断した首級を確認するかの様に俺の表情を見つめる。
彼女は痛がりもせず、非難もせず、何のリアクションも示さないサンドバッグの顔をどこまでも冷徹に見下ろしていた。
「言いなさいよ。痛いですって。止めてくださいって」
弱点の肋骨をぐりぐりと踏みつける。ローファーの硬い靴底で柔らかい腹部を踏みしめる。
一瞬苦痛に顔を歪めるが、彼女の足首を掴んでどけさせた。
すっくと立ち上がり、制服に着いた土埃を払う。
何事もなかったかの様に鞄を拾って歩き出す。
「無抵抗主義ってやつ? ガンジー師匠に弟子入りしたってわけね。ふぅん」
前方をただひたすら歩く。
人通りの少ない朝の住宅街。
それでも通勤通学中の学生や会社員がちらほらと歩いている。
そんな衆人環視の状況でもお構いなく、彼女は自分の「怒り」という感情を最優先に行動を起こす。
「温厚篤実な私でもそこまで、飼い犬にガン無視を決め込まれると流石にちょっとイラッとするわね。……いいわ。あんたも男の子なんだし、ちょっとくらい顔に傷があっても勲章ものよね」
唯華は強引に俺の制服の肩口と奥襟を掴むと、足払いをかけ、鮮やかな内股をかけた。
受け身を取り損ねた身体がアスファルトに叩きつけられ、全身に激しい苦痛と衝撃が走る。
そのまま、仰向けにされると、なんの躊躇いもなく、拳を顔面に叩き込まれた。
一発、二発。
左手で制服の胸元を掴み、ちょうどいい位置に拳が顔面を捉えるように調整する。
顔を殴られたのは初めてだった。
今までは頑なに首から上を傷つける事は避けられていた様に思う。
だが、もうどうでもいいことだ。
今となってはすべてが、どうでもいいことだ。
「どう。心は折れた? さっさと降伏しなさいよ。泣いて謝れば許してあげなくもないわ。じゃないとどこまでも拳の雨は降り注ぐわよ?」
「……」
「あ、そう。あんたのM気質も見上げたものね。そんなにお望みなら、私も嫌いじゃないしね。欲しいってんならくれてやるわよ!」
「……」
「オラァ! 言えよ! 止めてくれって! 助けてください唯華様ってよ!」
その後、衆人環視の元、公開処刑は続いた。
何発殴られたのか分からない。
右手だけなのでおそらく十数発くらいだろうか。
口の中が鉄の味でいっぱいになって、横を向いたらデロリと血が吐き出された。
彼女は最初、興奮気味に怒張した顔をしていたものの、やがて悲痛な表情を浮かべる様になり、最終的には戸惑いや困惑といった表情へと変わっていった。
「……言いなさいよ。止めてくれって。もう嫌だ。殴るのはよしてくれって……」
「……」
「言えよ! つまんねえんだよ! なんの反応も示さないとか舐めてんのか! 私の所有物の分際でそんな事が許されてるとでも思ってんのか! バカ! アホ! タコ! カス! クズ! ブタ! ゴミ! マヌケ! 三下! 畜生! 底辺の」
「どいてくれないか」
「え……」
「俺はもう何もしない。お前を喜ばせる事は何一つな。俺の中身はすでに空っぽだ。いくら打っても響きやしない。気が済んだなら、さっさとどいてくれ。学校に遅刻する」
馬乗りになる彼女を押しのけ、立ち上がる。
腫れ上がった顔を擦る。ところどころから血が出てる。痛みを通り越して、感覚がなくなっている部位もある。顔面を骨折してなければいいのだが。
口の中を舌で確認する。歯は無事らしい。ザクロみたいに口腔内がズタボロになっていたため、唾を吐いたら大量の血液が飛び散った。
右の目蓋が開かなかったが、気にしない。片方が見えていれば十分だ。
クラクラ眩む頭を抑えながら、朝の通学路を歩む。
色褪せたねずみ色の背広を着たサラリーマンが度肝を抜かれた様な顔でこちらを見ていた。
どこかのトイレの流しで一度顔を確認した方がいい。ついでに顔も洗おうか。
――血まみれの拳を握りしめ、立ち尽くす少女がいた。茫然自失といった表情のその子は、まるでこの世の終わりに直面したような、すべての感情を喪失してしまったような佇まいだった。
微塵も動かずに棒立ちになる彼女の、瞳だけがせわしなく動いていた。
その姿はとても心細そうで、雑踏の中一人置き去りにされた、迷子の子供のようであった。
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