第一話 『デジャブ』
気がつけば、もう10歳になっていた。暖かい日差しが降り注ぐ路地で、俺は植え木のように突っ立っていた。
「エド、なにぼーっとしてるの? ぼーっとしてると幸せが逃げていっちゃうわよ」
焦げ茶色の短い髪の少女がその髪を小さく揺らしながら俺を呼んでいる。髪と同じ色をした大きな瞳をこちらに向け、楽しげに笑みを浮かべている。
「ナーシャ」は本当に俺の姉だったらしい。ただ、俺らが育った教会のようなところ、「孤児院」でそう言われていただけなのだが。
「あっ! お姉ちゃん! 置いてかないで!」
今日は2人で商店街におつかいにきている。無論、孤児院のおつかいだ。
「あら、おつかいかい? ナーシャとエドはいつも偉いねえ」
「こんにちは、おばあちゃん! 今日はみんなの分のパンとミルクを買いに来たの!」
「まあ! うちの孫にも見習ってほしいもんだよ」
同じ色の髪をした俺と姉を、細く開いた目で交互に見つめながら、つば広帽を被った老婆は言った。
俺はふと、その老婆の店の前で立ち止まり、商店街の風景を見渡す。この景色、どこかで見た覚えがあるような気がするな……強烈な既視感に襲われていると、
「エド! またぼーっとして! ほらこっち来なさい!」
おっと、ナーシャがお冠のようだ。仕方なく俺はナーシャに続いて歩き出す。もちろん、よく来ている商店街なのだから見たことがあるのは当たり前だ。が、それとは違う、言葉に言い表せないような何かが脳裏をよぎる。いつ見たのだろうか、この景色。
さらに俺はこの景色を見て、「ケートラ」、「シャッター」といった意味の分からない単語が頭に浮かぶ。なんだよ、それ。変な言葉だな。
この既視感は一体何なんだ……
その答えは数年経ってから明らかになった。
月日は流れ、俺は17歳になった。俺が経験したそれは、前世の記憶だった。俺にはうっすらとした前世の記憶が残っていたのだ。
どんな言葉を喋っていて、どんな生活をしていたのかを覚えている。俺はニホンゴというどこで使われているかもわからない謎の言語を喋っていた。たぶん、まだ単語ぐらいなら分かる。
それに、俺は働いていて死んだ。意味が分からないだろうが、働いていた記憶と死ぬ直前の記憶しかないのだ。白い壁を見ながら、何かの声を聞きながら死んだ。たまにその夢を見る。悪夢ではない。白く、安らかな夢だ。
意味の分からない前世の記憶に悩まされていたある乾いた夏の朝、孤児院に俺とナーシャに一通ずつ手紙が届いた。
「ラーピン孤児院エドアルト様」
俺はぽつりと宛名を読み上げた。こうして自分の名前を読み上げるのは新鮮だ。
ラーピンというのはここの長の名前だ。正しくはローベルト・ラーピンという。
手紙を開けてみると、深緑の小さい高級紙にこう書いてあった。
『貴殿は17歳となったため、大公国の兵役の義務を果たすべし。』
「兵役? 俺たちは兵士になるのか?」
「そう、君たちはもう17歳じゃ。お国のために戦いの訓練をしに行かねばならんの」
爽やかな風が抜け、例の孤児院の長、白ひげを蓄えたローベルト・ラーピンが、どこからともなく現れた。ぼろい麻の服を身にまとっている。
「私も行かなきゃならないの?」
こちらもどこからともなく現れたナーシャが、不安そうにラーピンに尋ねた。
「そうじゃよ、残念だが兵役の義務は男女は関係ないんじゃ」
「私、行きたくない」
「大丈夫さ、心配することないよ。兵役の義務という名前じゃが、世の中の勉強も兼ねておるからの。どっちかというとそっちのが目的だったりするしのお。まあ教官の当たり外れにもよるな」
なるほど、つまり兵役という名前をした学校ということなのか。とても興味深い。世間を知るいい機会になりそうだ。だが、やはり一人だと不安だ。
「姉ちゃん、やっぱ義務だから行かなきゃならないんじゃないか? きょうだい二人でいけば怖くないって」
俺は特に何も考えず、ナーシャと一緒に行くための下手な口実をつくった。俺も悪い弟だ。嫌がってる姉を無理やり連れていくなんて。
「そ、そうなのかな……じゃあ……仕方ないね……」
まだ不安そうな顔をしているナーシャはさらに不安そうな声で答えた。
「そうじゃ、ワシがお前さんたちにいいものをくれてやろう」
ぽんっと手を打つと、ラーピンは薄暗い孤児院の奥に消えた。何が貰えるのだろうか、武器なのか、防具なのか、なんなのだろうか。俺は期待に胸をふくらませて待っていた。だが、期待とは裏腹に、戻ってきた老人のしわくちゃの手に握られていたのは、送られてきた高級紙とは比べ物にならないほどぼろぼろの白い紙と、ホコリの被った黒いペンだった。
老人はサラサラっと、汚い字で、
『エドアルト・ローベルトヴィチ・ラーピン』
『アナスタシヤ・ローベルトヴナ・ラーピナ』
とぼろ紙に書いた。
「これは、何だ?」
「名前じゃよ。君たちはまだ正式な名前を持っておらんだろ。ワシの名前をやる。これで一人前の兵士じゃ」
本音を言うと少しガッカリした。それでも、名前を貰うとなんだかワクワクする。一人前になった気分に浸れた。
「ありがとう、じいちゃん!」
「集合時間は何時じゃったかな? 間に合うように行くんじゃぞ」
「明日の10時に広場に集合って書いてあるぞ」
「じゃあ9時半には出発ね」
「そうじゃな、お前さんたち、立派な大人になるんじゃぞ……」
ラーピンはそう言い残し、また孤児院の奥に消えた。俺たちは早速明日の支度をしに部屋へ行った。
その夜、俺は全く寝つけなかった。なんせ突然届いた手紙からの新しい生活の始まりだ。落ち着いて寝ている方がどうかしている。
俺は落ち着くまで、孤児院の居間にいることにした。居間は思いのほか明るかった。こっそりと覗くと、そこにはナーシャがいた。どうやら彼女も寝つけないらしい。
「エド、まだ起きてたの? 明日朝早いんだから早く寝なさい」
「寝つけないんだ。落ち着かなくて」
「そうね、知らない子がたくさんいて、緊張しちゃうかも。友達たくさんできるといいな」
「姉ちゃんは楽しみなのか?」
俺はまた何も考えず、昼間不安がっていた姉に無神経な問いを投げかけた。
すると、朗らかだった姉は急に黙り込み、深刻そうな顔をした。ランプでほんのり明るい居間に、神妙な空気が流れる。しばらくして、ナーシャは口を開いた。涙を流しながら。
「あのね、私ね、聞いちゃったの。兵役に行くと必ず戦争に連れてかれて、生きて帰ってこれるか分からないんだって……」
「そんな……」
俺は居間にあるん木のテーブルを両手で叩いて立ち上がった。何か言おうとしたが、俺は絶句した。兵役なんて名前だけでただの学校なんじゃないのか。じいさんの嘘つき。生きて帰ってこれるか分からないだと?
俺はますます不安になった。落ち着こうと居間に来たはずが逆に興奮している。
「義務なんだもんね、行かなきゃなんないよね……」
ナーシャは悲しげな声で言った。俺はなんてことをしたんだ。そんな噂を知らずに無理やり連れていこうとしたなんて。
かなり神経質になっていたが、姉のためにもなんとか隠した。俺まで落ち込んでいたらこの先やっていけない。姉を元気づけようとしたがどうにも言葉が見つからなかった。俺も不安だ。他人を元気づけようなんてできっこない。無理にでも眠ってやろう。
「と、とりあえず今日はもう寝よう。明日のこともあるし」
「そうね……」
「おやすみ、ナーシャ。今日もいい一日でした」
「おやすみ、エド。明日もいい日になりますように」