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「磨爪師」~爪紅~  作者: 大和撫子
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第八帖 芽生え

 六月末。宮中では朱雀門に男女が集まっていた。六月祓(みなづきはらい)を行っているのである。無意識に受けてしまった念や呪術、病や穢れを一掃する行事である。


 外では衣冠束帯姿の陰陽師が数名、祓いの呪文を唱えていた。五色の布や六疋の馬、金銀塗人像、金装横刀などが備えられている。馬をそなえるのは、馬はとても耳ざとい動物で、馬のように早く、神にお願いを聞いて欲しい、という意味があるのだ。


 男性は外に集まり、女房達はは室内で顔を見られぬよう(すだれ)が掛けられている。男女別に別れ、茅の輪くぐりを順序よく並んで行っている。これは直径2m程の茅の輪を一人が持ち、頭上から足もとに下してくぐる。これを一人三回繰り返すのだ。こうする事で、邪気や怨念などを祓うのである。


 全員がくぐり終わったら、手分けをして茅の輪を短く切り、縄を解く。そして散米(うちまき)と言って、室内に米を撒くことで邪気を祓うのだ。更に、紙で人形(ひとがた)を作り、そこに息を吹きかけたり撫でたりして罪や穢れをに移す。


 茅の輪を解いたもの、人形を陰陽師の元に持って行き、彼らが中臣祓詞なかとみのはらいことばを唱えながら、後ほど川や海に流し穢れを祓うのである。


……凄い! 豪華な布に刀、金と銀の像までお供えされてる!……


 鳳仙花は、宮中内で迎える六月祓は初体験だったのでワクワクしていた。



  毎年、貴族の邸でも行われている行事だ。けれども、ここまで絢爛豪華な供え物はついぞ見た事がない。陰陽師達も複数いて、何だかとても不思議な気分だ。それに、普段は顔を合わせる事のない女房達と会えるのも新鮮だ。

 今回、参加出来るように定子が口利きをしてくれた。更には、母親の顔の広さも手伝い、とても居心地が良い。


 人の形に切り抜いた人形と呼ばれる紙に、己の穢れを移している時の事だ。


『……この行事で、道隆様のお体の具合も快方に向かうかしら』

『きっと、大丈夫よ。穢れを祓う為の行事ですもの』

『駄目よ、そう言った負の感情も、穢れになって届いてしまう事もあるのよ』

『そうね、この人形にそのような不安も移しとって貰いましょう』

『……そうね、そうしましょう』


 すぐ隣の場所で、初対面の女房たちが囁き合っていた。


……え? もしかしたら道隆様のお体が優れないのかしら?……


 鳳仙花は根耳に水の話だった。


……文壇では誰も、そんな話してないし。定子様もいつもと変わらい感じだけど。どう言う事? まさか……


 胸に不安と言う影が広がっていく。だが、慌てて打ち消した。


……いけないいけない。負の感情はすぐに届いてしまうらしいし、私もこの人形に不安を全て移してしまおう……


 大きく息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出し、人形に吹きかけた。本当に効果があるのかどうかは、鳳仙花は半信半疑だった。けれども、古くからの風習には、何かしら意味があるのではないか、と最近思うようになってきていた。それは劇的な効果というよりも、気分が落ち着いたりすることによって、安定した生活を築けるようになるとか、そう言った効果はありそうだ。


……よし! これで大丈夫……


 うん、と頷きながら人形を使用済みのものを入れる籠に置いた。


少しずつ、大きな影のうねりが近づいていた。


 黒塗りの器に朱赤の液体が満たされている。白き布を、右人差し指に薄く巻いてその液体に触れる。布に液体をどれだけ吸わせるかも、むらなく爪を染める事が出来る秘訣でもあるのだ。鳳仙花は息を詰めて集中していた。


「失礼致します」


 一声かけると、両手の甲を台に載せている式部のおとどの左手を自らの左手の平に乗せる。そして式部のおとどの左手小指から、布に染み込ませた紅を塗っていくのだ。慎重に、まずは薄く左右全ての爪に塗っていく。これを液に浸さずに左右一度に塗り切ってしまえるのが均一に塗れるコツだ。ただ、左右一度に塗りきるのは難しい。まずは片手ずつだ。


 まずは一度塗りめが終わった。今度は手にしている布の白い部分を右手人差し指に巻き付ける。そして再び朱の液を浸した。そして二度目を塗っていく。むらにならぬよう細心の注意を払いながら。


 鳳仙花は、式部のおとどの爪を一人で染めていた。傍らでは厳しい眼差しで娘の施術を見守る紅が立っている。式部のおとどの手を拝借し、鳳仙花が全て一人で爪紅を染められるかの試験を行っているのである。


 二度目塗りも無事に終えた。三回目は布に浸した爪紅の液を小さく切った布に染み込ませ、爪前部に乗せて布でしばるのだ。明日朝には美しい紅に爪が染まっている筈である。鳳仙花は無我夢中行っていた。


「有難う御座いました」


 鳳仙花は深々と頭を下げた。爪を貸して頂いた事に対してのお礼だ。


「どう致しまして。こちらこそ、綺麗にして貰って有難う」


 式部のおとどは答える。


「明日の朝、塗りの状態を見て決めましょうね」 


 紅は締め括った。これから後は自由時間だ。結果は気になるが、今はただ待つより他に手立ては無い。


「お庭で遊んでも良い?」

「この敷地内から出たら駄目よ」

「は-い!」


 元気よく答えて外に出た。庭は本当に綺麗に手入れされており、四季折々の花々が楽しめる。時折遊びに来る帝の愛猫「命婦のおとど」とそのお守り役。また、以前大事件を起こした翁丸おきなまろと戯れたり。花木に耀く朝露を掌に垂らして楽しんだり。また、蝶になったつもりで庭を歩き回り、花から花へと手でそっと触れてみたり。楽しみ方はいくらでもあった。


「うわぁ、キラキラ……」


 その日は今朝方降った雨のお陰で、庭の花や木々にはびっしりと露がついていた。午前中の陽射しに、キラキラと露が反射している。庭全体が煌めいて見えた。特に朝顔(※①)が一際彩り豊かに映える。鮮やか青、深紅、白、紫と色鮮やかだ。露が沢山ついていてまるで首飾りのようだ。鳳仙花はうっとりと見つめた。


「あ、こらっ!」


 その時、小声で窘める声とともに、ササササッと何か白いものが庭に入ってきた。驚いてそれを見つめる。


 サーッと草木の茂みから飛び出してきたのは、


「あ! 猫ちゃん!」


 思わず鳳仙花は叫んだ。猫はシュタッと鳳仙花の目の前で着地したかと思うと、ふわりと舞い上がった。思わず両手を差し出すと、その猫は自然に鳳仙花の胸におさまってしまった。真っ白い子猫だ。呆然とする鳳仙花。


 続いてザザザッという駆け足の音とともに茂みが揺れ、


「あの、すみません! 失礼しますっ!」


 という切羽詰まった声とともに、淡い水色の水干姿(※②)の男の子が飛び出して来た。


「て、わっ!」

「え? あっ!」


 だが、鳳仙花の目の前、至近距離で飛びだして来た為、ぶつかりそうになって慌てて互いに避けようとする。しかし、鳳仙花はあまりにも突然の事で体の均衡を崩して後ろによろけてしまった。無意識に子猫の事は庇うようにしっかりと抱きしめている。子猫も安心して腕の中におさまっていた。


「危ない!」


 水干姿の少年は、後ろに倒れ込みそうな鳳仙花に両手を伸ばし、背中を支えるようにして助け起こした。


「失礼致しました! 申し訳ございません! 大丈夫でしたでしょうか?」


 少年は気遣わし気に声をかけた。身長は鳳仙花よりも頭一つ分ほど高い。


「あの、有難うございます。大丈夫です」


 鳳仙花はそう答えながら、彼を見つめた。彼もまた、彼女を見つめた。そのまま口づけを交わせそうなほど接近していた。



……わぁ、綺麗な男の子。私と同い歳か少し年上かな……


 その少年は、乳白色の肌に高く上品な鼻、利発そうに引き締まった唇。やや大きめの切れ長の瞳がとても印象深く、どこまでも澄み渡る褐色(かついろ)(※③)だ。


(可愛らしい子だな。私より少し年下か同じくらいかな)


 少年はそう感じた。互いに少し見つめ合う。ほんの僅かな時であるが。二人にはそれがとても長い時間に思えた。


 ミャーン


鳳仙花の腕の中でおとなしくしていた子猫が一声鳴いた。ハッと我に返る二人。同時にその(かんばせ)(くれない)に染め合う。


「あの、すみません! 突然に失礼しました!」


 と、少年は慌てて一歩飛び上がるようにして退く。そしてペコリと頭を下げた。鳳仙花も素早く一歩下がりつつ、


「いいえ、大丈夫です。猫ちゃん、お探しでしたか?」


 と尋ねた。


「はい。さる御方の大切な猫でして。助かりました」

「いいえ、この子が飛び込んできただけですし」


 鳳仙花は子猫を優しく抱いて彼に差し出した。丁寧に受け取る彼。そして丁寧に子猫を受け取り、深々と頭を下げた。そして(きびす)を返そうとした時、


「あの、私は通り名を実光(さねみつ)と申します」


 と名乗り再び向き合う。


「私は鳳仙花と呼ばれております」


 と応じた。二人は微笑み合う。


「では、失礼しました。またお会い出来ると思います!」


 と彼は言うと、軽やかな足取りで走り去っていった。



……実光様。また、お逢い出来たら良いな……


 後ろ姿を見送りながら、鳳仙花の胸に甘酸っぱい余韻が広がる。


……実光様かぁ。どの御方にお仕えてらっしゃるのかな……


 その日は頭がふわふわした感じがして何も手につかなかった。重要事項を済ませた後で本当に良かったと思いつつ。


……左手で自分の爪に塗るのって難しいなぁ……


 その夜、自邸に戻り鳳仙花は自らの爪に爪紅を施してみた。利き手と反対の手で紅の液を塗る事の難しさを実感する。


……でも、もし万が一右手を怪我した時とかの為に、両方とも仕えた方が良いかも!……


 そんな風にも感じた。勿論、玄人であるからには利き手を怪我するなど言語道断な事ではあるのだが。

 更には、自らに爪紅を施している間、侍女二人に髪の手入れを頼んでいた。米の研ぎ汁を櫛につけて念入りに髪を梳いていく。丁寧にゆっくりと。


御髪(おぐし)、だいぶ伸びてらっしゃしましたね」


 侍女の一人が目を細めてしみじみと言った。豊かな漆黒の髪は太ももあたりまで伸びて来ている。


「このままの状態で、せめて自分の身長より長く伸ばしたいわ」


 鳳仙花は素直に述べる。


「きっと、豊かで美しい御髪になられると思いますよ」

「そうですよ。私たちが心を込めて丁寧にお手入れさせて頂いているのですもの」


 侍女たちは力強く頷いた。


「有難う。これからも宜しくね」


 笑顔で応じつつ、再び実光に会える時にはもっと綺麗な自分でいたい、そう思うのであった。


 紅は厳しい面持ちで式部のおとどの両手を自らの左手に乗せ、右手で彼女の爪の一本一本を食い入るようにして見つめている。鳳仙花は緊張のあまり体が硬直していた。重苦しい沈黙が彼女達の周りを締め付ける。鳳仙花にはまさに永遠に続くかと思われた時。


 やがて紅は式部のおとどの両手を丁寧に彼女の膝の上に置くと、ふわりと淡雪のように優しい笑みを浮かべた。そして優しい眼差しで鳳仙花を見つめる。更に、式部もおとどに「有難うございました」と頭を下げる。


「じゃぁ……?」


 式部のおとどは期待に目を輝かせる。鳳仙花は恐る恐る紅を見つめている。


「ええ。よく頑張りましたね!」


 紅は満面の笑みを浮かべた。


「で、では……」


 鳳仙花はほっとした表情で、控えめに切り出す。


「これなら、一人で磨爪術を任せる事が出来るでしょう。これからも、たゆまぬ努力を」


 鳳仙花は瞳を輝かせ、両袖で口元を覆う。式部のおとどは静かに立ち上がり、鳳仙花の元へと行った。


「良かったわねぇ」


 と鳳仙花を抱きしめた。


「式部のおとどさん、有難うございます。お爪を貸して頂けたお陰です!」


 喜び合う二人を、紅は温かな目で見つめた。


(これで、鳳仙花は一人で磨爪師として生きていける。その一歩を踏み出す時が来たのだわ)


 ほんの少し、寂しく感じながら。


……次に実光様に会える時は、堂々と磨爪師と名乗れるのだわ……


 鳳仙花は、誇らしさと、ほんの少しだけくすぐったい思いがしていた。


 鳳仙花は清少納言の爪の手入れをしている。母親から譲り受けた代々続く『爪研石(まそうせき)』を手に、爪を短くし整えるのだ。爪の長さを短くするものと、長さを整えて滑らかにするものの二種類があった。双方とも細長く、手の平におさまる大きさで、目の粗く黒っぽい方が爪を短くする石、滑らかで白っぽい方が形を滑らかにする方石と使い分けていた。切れ味が悪くなると、専用の研ぎ石で整える。だが、いずれはそれでも細くなり過ぎて使用できなくなる時が来る。


 そのような時の為に外出する際、良さそうば石を見つけたらよく洗って天日干しにする。そして刃物でゆっくりと削り、専用の研ぎ石でといて形を整えていく。これを薄く、手の平におさまるくらいになるまでじっくりと日々行っていく。数か月から半年、場合によってじゃ一年ほどかけて形を整えていくのだ。


「このような感じでいかがでしょうか?」


 鳳仙花は問いかけた。清少納言は自らの爪を灯りに透かすようにして見る。


「うん、いいわね。腕をあげたわね」


 と満足そうに微笑んだ。


「嬉しいです。有難うございます」


 鳳仙花はほっとしたように笑みを返した。この後は夕刻まで自由時間となる。敷地内にいると清少納言に告げ、庭へと出た。


 昼下がりの午後。生憎の曇り空だ。それでもところどころ垣間見える青空が優しい。灰色の厚い雲の隙間から覗く淡い水色は、なんだかじんわりと胸に響く。


……実光様に、会えないかなぁ……


 ほんの少しの期待を込めて、庭先を歩く。時間が空き、晴れていれば庭先を歩く。このところの日課となっていた。



(※① この時代の朝顔は、「桔梗」を示す説、または「夕顔」など、諸説ある。ここでは、現代の朝顔を示す)

(※② 狩衣の簡易版のような衣装。子供の衣装にも用いられた)

(※③ 褐色…このお話では「かっしょく」ではなく「かついろ」と読む。限りなく黒に見えるほどに深い藍色の事を言う。勝つ色とも書く)


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