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「磨爪師」~爪紅~  作者: 大和撫子
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第六帖 恋初め

 夏が来た。貴族たちに取って最もしのぎにくい季節だ。旧暦の四月一日になる冬から夏の装束に切り替える。初夏は重ね着を少なくし、│単衣ひとえの上に「うちき」という薄くて軽いものに変える。

 真夏ともなると、│生絹すずしと呼ばれる単衣に緋の袴を履くだけになる。だが、本当に肌が透けて見えてしまうので、外出も出来なければ男性の目に触れるわけにもいかず、御簾や几帳、屏風で囲いをしてその中で過ごす事になるのだ。


……大人になるって、耐え忍ぶ事の連続で大変だなぁ。正しいことでも、周りの状況を見て黙ってないといけなかったり。あと夏の十二単とか。夏用に切り替えても暑いと思うもん。私はまだ子供だから、(あこめ)で少しだけ重ねるのが少ないからまだ良いけど……

 

 鳳仙花が宮中に出入りするようになってから初めての夏だ。かくいう彼女も、衵の一番上は白のうちきを着ている。黄緑、淡い緑、緑と重ね、卯の花の│かさねを身に着けている。午前中に鳳仙花が出来る仕事が終わり、御簾越しに庭を眺めていた。午後は定子の弟、│伊周これちかが、帝に漢文の手ほどきをする為にやってくるそうだ。その際、伊周の弟である│隆家たかいえもやってくるという。隆家もまた、伊周とは異なる美形らしい。そのせいか、文壇の女房たちはいつもより念入りに髪のお手入れとお化粧に余念がないように見える。


……隆家様か。どんな感じの美形なのかな……


 鳳仙花も、会えるのを楽しみにしていた。


 何やら風に乗って、女房たちの黄色い声が聞こえてくる。勿論、御息所たちはおいそれと外には出ないし、むやみに顔や姿をさらしたりしない。恐らく、宮仕えの才女たちだと思われる。


「いらっしゃるみたいよ」


 文壇の女房の誰かが囁くようにして告げる。途端にそわそわと落ち着かなくなる女房たち。髪を手で撫でつけたりする者が多いこと。


……うーん、前に伊周様がいらっしゃった時も、こんなにそわそわしてたかなぁ、みんな。どうだったっけ。あの時はまだ慣れてなかったし、周りを観察する余裕も無かったものね……


 と鳳仙花は思う。そして定子のお爪の状態をみてお手入れの助言をしている母親を誇らしげに眺めた。紅はいつも落ちついている上に笑顔を絶やさない。変わらないその様子に憧れた。


「失礼致します。伊周様と隆家様が間もなく到着されます」


 使いの女房が御簾の外より声をかけてきた。定子の傍らに控えていた清少納言は、彼らを迎える為立ち上がり、ささっと入口まで足早に歩いていく。紅は娘の隣に戻ってきた。


「失礼。お邪魔するね」


 甘さを称えた澄んだ男性の声とともに、伊周が入室。やはり女性と見紛うほどに繊細な美形だ。


「少しだけ寄らせて貰うよ」


 次に、やや低めの落ち着いた声が響く。どこか和楽器の│しょうを思わせた。そして現れたのは、背が高く彫の深い顔だちの男。どこかに野生美を感じさせる。


……隆家様、伊周様とは正反対の美形。そう言えば、「天下のさがな者」(荒くれ者)の異名もある、て聞いた事あったな……


 鳳仙花は彼に興味が沸いた。


「うふふふふ……もう、隆家ったら」

「いや、本当ですって、姉上」

「そのような事を言いましても、あなたは実際に楊貴妃とか見た事ないでしょう?」

「実際にはないですが、絵がございます。それに、伊周兄上から楊貴妃については伺ってますし。それに、この中の誰も、楊貴妃について実際にお会いした者はおりますまい」

「ははは、確かにそうだな」

「まぁ、そうでしたわね、ほほほほほ……」


 御簾の奥で、定子、伊周、隆家の三人が楽しそうに歓談している。常に笑い声が絶えない。発端は、隆家が開口一番、定子の容姿の美しさを楊貴妃に例えた事に始まる。


……いいなぁ、楽しそう。御簾越しにも分かるくらいの美形揃い。そこだけきらきらして眩しいくらい……


 鳳仙花はうっとりと見つめた。御簾の奥を見つめているのは、鳳仙花だけではない。文壇内の女房たちも同じだった。


「では、姉上、お邪魔致しました!」

「あら、隆家。もうお帰り?」

「ええ、仕事の空き時間に少しお顔を拝見に参っただけですから。では、姉上、兄上、また」


 とその場を辞する事を告げる言の葉と共に、御簾を開けて顔を出す隆家。清少納言がサッと立ち上がると、彼を見送りに先に立って歩く。


「お邪魔したね」


 と笑みを浮かべて通り過ぎて行く。その時、偶然鳳仙花と目が合った。すると彼は、にこりと微笑んだ。初夏の風のように、爽やかな笑み。一瞬、翡翠の風が吹いたように錯覚した。


 ドキン


 と心臓が大きく跳ね上がった。そして顔から火が出る勢いで熱くなった。思わず両袖で両頬を覆いながら、ペコリと頭を下げ、呆然と彼の後ろ姿を見送った。しばらく、鼓動が激しく脈打つ……。


……隆家様、素敵だったなぁ……


 鳳仙花はうっとりと天を仰いだ。今回は鳳仙花だけ自邸に戻っている。仕込みをして保存してある爪紅の状態を確認する為である。だが、どうやら気もそぞろの様子だ。宮中より母親に見送られ、牛車で帰路についたのであるが気がついたら自邸で佇んでいた。


「お帰りなさいませ」


 出迎えてくれた保子の声で、我に返った次第だった。保子は心ここに非ずな様子の鳳仙花を、母親がついているとはいっても、慣れない宮中での仕事でさぞ疲労が溜まったのだろうと解釈した。


「随分お疲れのご様子です。今日明日と、少しゆっくりお休みくださいませ」


 と気遣いを見せた。そしてそれ以上話しかけることなく、静かに去っていく。保子の最大の気遣いであった。


……隆家様の経歴は、989年に11歳で元服されて従五位下侍従、少し早めに元服を迎えられたのね。そして993年に│右近衛中将みぎこのえちゅうじょう、994年従三位に叙され公卿に並ぶ、と。やっぱり武官、て感じだものねぇ。和歌もなかなかの腕前でらっしゃる、とのことだったわね……


 隆家様はあまり文壇にはいらっしゃらないから、何かの時に失礼にあたらぬように、と母親から彼の役職を教わったのだ。


「あ! いけないいけない、空気に触れっぱなしになるところだったわ」


 鳳仙花は漸く現実に戻ると、爪紅の保存液の状態を調べようと手を止めたままだったことに気付いた。慌てて集中しようとする。



「ふぅ……」


 鳳仙花は微かに溜息をついた。


「ご馳走様でした」


 そしてそっと箸を置く。


「鳳仙花様、どうなさいました? このところ、食が細いようですが?」


 保子は心配そうに問いかけた。鳳仙花が邸に戻ってからというもの、どうやら少し様子がおかしい。最初は疲れからくるものだからと思っていた。だが、数日過ぎても変わらない。それどころかぼんやりと天を仰ぐ様子が目立つ。勉強中も、気もそぞろの様子が目立つ。


「上流貴族の娘は、食が細い方がもてはやされるのでしょう?」


 と、鳳仙花は悪戯っ子のように笑う。


「それにしても少な過ぎますよ。せめてお果物くらいはしっかり召し上がりませんと、お肌がカサカサになってしまいますよ」


 保子は苦言を呈した。


「なんだかね、胸がいっぱいでお腹があんまり空かないの。それよりも、お空を眺めたり、お花を愛でたりする方が楽しいわ」


……隆家様は、どのようなお花がお好みかしら。どちらかと言うと、鷹狩とか蹴鞠とか、お体を動かす事の方がお好きな風に見えるけれども……


 と内心では彼の事でいっぱいだった。その瞳は、水を湛えたかのように潤んで見え、漆黒の瞳は尚も黒く、そして艶やかに見えた。保子はハッとした。


(鳳仙花様、もしや気になる男性でも出来たのかしら。……そうねぇ、もう九歳におなりですもの。でも、お相手はどなたかしら。しばらく、様子を見た方が宜しいようね……)


 しばらく見守る事、そして間もなく帰宅する紅に、それとなく相談してみようと思うのであった。


「……え? 鳳仙花が?」

「ええ。どうやら恋の病に罹ったのではないかと……」


 紅が久々に帰宅した。深夜の為、鳳仙花は熟睡している。自分が不在の時に変わりはないか保子に聞いたところ、早速報告を受けたのだった。


「うーん、そうねぇ……」


 紅は文壇に出入りしている男性を思い浮かべる。


(最近というと、伊周様か隆家様……だわねぇ。伊周様は前からちょくちょくいらっしゃってるから、可能性があるとしたら隆家様、かしらねぇ)


「初めての恋、てやつかしらね。無下に否定もしたくないし。少し様子を見て、現実を知って受け入れていかせる方が良いわね」


 紅は考えながら結論を出す。


「そうですねぇ。良い形で、実ると良いのですけど……」

「そうねぇ」


(まぁ、豪胆な方ではあるけれど、既に奥様が何人かいらっしゃるし。あの子が器用に割り切れるとも思えないけれどね。それはそれで生きにくいと思うのだけれど……)


 秘かにそう思いながら、鳳仙花の成長を二人で喜び合うのであった。


 鳳仙花はその頃、ぱっちりと目を覚まし


……そうだ! 隆家様の事、清少納言さん達に色々聞いてみようかしら……


 と期待に胸を膨らませていた。


 宮中内、定子率いる文壇の部屋では女房たちが、そわそわきゃっきゃと落ち着かない様子だ。それもその筈、隆家が定子の元へやって来ているのだ。


「姉上、隆家は素晴らしい扇の骨を手に入れました! それに紙を張りまして、差し上げようと思っております。しかし、普通の紙ではとても釣り合いが取れませんので、最高の紙を探しているところでございまする」


 彼は朗らかに話している。定子は微笑みながら、


「あらあら、それはどのような骨なの?」


 と尋ねた。彼は、よくぞ聞いてくれたとばかりに声を高くし


「それが、もう本当に何から何まで素晴らしくて。人々も『今までみた事もない扇の骨』だと言っております。本当に私も、これほどの骨は今までに見た事もございません」


 と自慢している。彼の話はいつも、とてもわくわくするのだ。鳳仙花は楽しみにしていた。

 すると、定子の傍に控えていた清少納言がスススと少し前に出て、


「そのようにどなたも見た事もないほど珍しいものでしたら、それは扇の骨ではなくておそらく、海月(くらげ)の骨(※②)ではないでしょうか?」


 と冷静に述べた。


「これは参った! 実に面白い! その言の葉は私が言った事にしてしまおう」


 と彼は実に豪快に大笑いした。定子や清少納言を始め、女房たちも大いに笑った。鳳仙花も笑いながら、ほぼ対等に彼と会話が出来る清少納言の事が少しだけ羨ましく感じた。



【枕草子 第九八段 中納言まいり給ひてより】


 鳳仙花は瞳を輝かせて天を仰いだ。清少納言から隆家の逸話を聞いているところだ。


「上皇、花山院との賭け事の件でね」


 そんな鳳仙花を、面白そうに見つめながら清少納言は語り始める。


「まぁ普通はね、そんな失礼極まりないこと出来ないのだけど。何せ隆家様はあなたも知っての通り『天下のさがな者』と異名をお持ちのくらいだからね。花山上皇との賭け事の逸話もあるのよ」


「へぇ? どのようなお話ですか?」


「上皇が隆家様に、『いくらあなたでも、まさか私の御所の門前を牛車に乗ったまま通ることはできないでしょう』と挑発なさったのね。そしたら隆家様はこうお答えしたらしいの。『なんの! この隆家が、通れぬことなどございましょうか!』と受けて立ったのね。つまり、身分などこの私に関係無い、と言い切った訳よ」


……隆家様、素敵……


 鳳仙花はうっとりと虚空を見つめる。


「それでね、この日に通ると約束をした日に、それぞれの侍従たちが石や棒などを用意して戦いに備えさせたの。あ! でも本物の弓までは用意してないわよ。これは手の込んだ大掛かりな遊びの一環なのね。結局ね、隆家様は、さすがに上皇の威厳と権力には勝てないと判断して。それはそうよね。武器も侍従の数も桁違いですもの。通れなくて潔く負けを認めて退散されたのですって。後日『何の利益にもならない事を言ってしまって、いらぬ恥をかいてしまったよ』と、大笑いされていたわ」


 清少納言は締めくくった。


……凄いわ。上皇にもひるまずに渡り合うのって。隆家様らしいというか……


 鳳仙花の脳裏に、ありありと上皇と隆家のやり取りが浮かぶ。だが、次の瞬間一気に現実に返った。


「あの若さで、奥様が三人もいらして。その全てに平等に愛情も注がれているってお話よ。なかなか出来ない事よね」


 清少納言としては、何の気なしに口にしただけだった。だが、鳳仙花は奈落の底に突き落とされたような衝撃を受けた。


 黄昏時、牛車内。今回は紅とともに自邸へと向かう。明日より七日間ほど仕事が休みに入るのだ。清少納言が話してくれた隆家の妻たちのことが気になる。


……そっか。隆家様、既に奥様が三人もいらっしゃるのか……


 改めて事実を反芻してみる。何故か酷くがっかりしたような、そして何となく失望した気分が全身を絡めとる。


……というか最初から私みたいな子供、相手にされる筈ないのに、何を期待していたのだろう? 馬鹿だなぁ。ご身分も、知性も、容姿も、武術も。全て兼ね添えた御方なのだもの。最初から、私の事なんて気にもならないでしょうに。何を夢見てたんだか……


 自嘲の笑みを浮かべようとしたが、喉の奥がツンと痛い。痛みは鼻の奥へ移動し、グッと瞳が涙を(たた)える。


……やだ、どうして泣く必要があるのよ……


 慌てて天井を見つめ、涙が零れ落ちないように瞬きを多くする。紅はそんな娘を温かく見守っていた。清少納言が隆家について語っていたのを、式部のおとどのお爪の手入れをしている際に耳に入ってきた。


(既に妻が三人もいる。そのことに衝撃を受けたのでしょうね。恐らくこれから先、また何人か増えるでしょうし。情の篤い御方ですもの)


 だが、娘が必死に涙を堪えていることを不憫に感じる。ゆっくりと穏やかな口調で声をかけた。


「……それは『初めての恋』ね、きっと」

「え?」


 鳳仙花は愕然とした様子で、母を見つめた。ポロポロと涙が頬を伝う。


「恋……これが……」


 嗚咽は込み上げる。


「我慢、しなくて良いのよ。初めての恋は、大抵片想いで終わる傾向が強いものよ」


 紅は両手を広げた。しゃくりあげると、耐え切れずに漏れた鳴き声とともに、母親の胸に飛び込んだ。


 車内に、細い嗚咽の声が響き渡る。



 それからの鳳仙花は、物思いに(ふけ)るようになった。ふと空を見上げて。また庭の花を見て。あれ以来、空の青さや、肌に感じる風。季節ごとに咲く花々などをしみじみと味わうようになっていった。同時に人の心の奥の微妙な変化にも敏感に気付くようになり、無垢であどけない少女の顔つきから徐々に女へと移り変わりつつあった。


「『忘れ時の 行く末までは かたければ 今日(けふ)を限りの 命ともがな』

…あなたは私の事を決して忘れないとおっしゃるけれど、遠い未来までその言の葉通りの愛情が続くかしら? とても信じ難いので、そうおっしゃって頂けた今日を最後に、命が絶えてしまってほしいです……か。伊周様、定子様、隆家様のお母様である、高階貴子(たかしなのきし)様の和歌。旦那様の藤原道隆様と出会ってすぐの和歌なのよね。道隆様は、自由奔放で大酒呑み。素晴らしく美形の上に女性関係も華やかだと言うし。若かりし頃はさぞや……」


 鳳仙花は和歌を積極的に味わうようになった。華やかに見える世界も、裏側には影がある。そのような事を思いながら。今なら、保子が言っていた『怒りを露わにするのはこちらが損をしてしまうが、知性と教養を武器に賢く男性に反撃すれば良い』その意味が分かる気がした。


 宮中に出入りするようになってから、一年が過ぎようとしていた。華やかなりし文壇に、少しずつ少しずつ闇が忍び寄ってきていた。


(※① さがな者…荒くれ者)

(※② 海月の骨…この時代、海月には骨が無い事から稀有な事、あり得ない事の例えとして使用されていた。それを清少納言が洒落として上手に使用した為、大変に受けたのである。当時は海月を塩漬けにして食していた)




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