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「磨爪師」~爪紅~  作者: 大和撫子
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第十六帖 栄枯盛衰

 じめじめと纏わりつくような湿気と、湿った暑さの中続く灰色の雨。外出する機会も、仕事以外では殆どなく。梅雨の時期最後の意地だ! とでも言うようによく降り続ける。


 この時期は殆どの者が憂鬱になり易い。そのせいも手伝っているのか、伊周は終始イライラしていた。叔父である道長は、自分ほど漢文や和歌などを始めとした知識や教養の長けている訳でもない。容姿も立ち振る舞いも、洗練された優雅さもない。どこをどうとっても凡庸なる叔父が政権を振るっている。そして自分に対して横柄な態度を取る事に我慢の限界がきていた。隆家はそんな兄を静かに見守る。


(姉上には、御門からの愛という不安定ながっらも大きな力がある。けれども兄上には……。何があっても私が兄上を守ろう。もう、兄上を守れるのは私しかいないのだから)


 そう決意を固めていた。


「叔父上が政権を握るなど、絶対におかしい。納得がいかない! こんなおかしな事があって良いものか! のう、お前もそう思うであろう?」


 伊周は声を荒げる。烏帽子の隙間より零れる髪が、彼の美しい顔を艶めかしく演出する。


「恐らくは、皇太后様が叔父上をお気に召しているから。そんなところしょうな」


 隆家はあくまで冷静だった。伊周は弟に詰めよる。


「そのようにくだらぬ個人の感情でか? そんなつまらぬ理由で、(まつりごと)が務まる訳が……」

「古来より権力争いの大元はそれでありましょうぞ?」

「な、何を……」

「『あいつが気に食わない、あいつより自分のが上だ!』女も同じだ。『あいつさえいなければ! 何故あんな奴が主上(おかみ)の寵愛を受ける?』子供となんら変わらない。大人になった分、様々な思惑と人間関係が複雑に絡み合う分始末に負えない。……違いますか?」


 これまで沈着冷静だった隆家は、そう言ってニヤリと笑った。瞳が冷たい程冴え冴えとした中のその笑みは、酷く冷酷で残虐なものに見えた。伊周はゾクッと背筋が寒くなる。


「兄上のお心のままに。私は全力であなたをお守りするのみ」


 とこたえた。元の涼しい表情へと戻る。


「止めないのだな……」

「人生は短いのです。好きなように生きなければ勿体無い。幸いな事に、庶民と違って我々はそれが出来る立ち場にあるのですから、死ぬ際に後悔するような生き方は損ですぞ」


 そう言って、隆家は豪快に笑った。


(弟と私とでは器が違い過ぎる。やはり『天下のさがな者』のあだ名はだてではないのだな)


 伊周は僅かに羨ましく感じながらも、弟がついていてくれるなら。そうも思えるのだった。


 

 鳳仙花もまた皆の例に漏れず、最もうんざりする時期であった。施術で使用する布が洗っても乾きにくい。そして保存している爪紅の液も腐敗しやすい。そのような状態で施術をすれば、爪にカビが生えたり、菌が繁殖して皮膚病になってしまう。それは磨爪師として信用問題となる故、また誇りにかけてもそのような事態は避けねばならない。それらの事から、鳳仙花も紅も一年の中で最も神経を使う時期でもあった。



「母上様、折り入ってお話があります」

「あら、どうしたの? 改まって」


 鳳仙花が父親との対面での詳細を切り出せたのは、まさにそんな時であった。その日はザーザーと灰色の雨が音を立てて流れ、辺りは薄靄(うすもや)に覆われている。雨音で室内の声も張り上げないと響かない。内密な話をするのに最適だった。珍しく午後から仕事が無い鳳仙花と紅は、控室で一緒となったのだ。


「実は、先月……権中納言様とお会いした件なのですけど……」


 母親は何もかも承知していたかのように、穏やかに頷いた。鳳仙花は母親のその表情から、大よその話は予め把握しているのかもしれない、と感じた。故に包み隠さずに全てを話して聞かせた。父親が大胆にも道長が呪詛の黒幕だと推測している件も全て。……ただ一つ、萩の君に対して感じた己の感情の件だけは除外して。


「……そう。とうとうあなたにも話して聞かせたのね。陰陽師でもないのに、先読みの話なんて」


 終始穏やかに耳を傾けていた紅は、全てを聞き終わるとそう言って苦笑した。


「では、昔からあの人はそのようなお話を?」


 紅は軽くため息をつくと、仕方が無い、というように肩をすくめる。


「そうねぇ。あなたも十二歳を迎える頃に裳着の儀を行おうと思っているし、あの人の事をきちんと話すべき時が来たのかもねぇ」


 と、ほんの少し寂しそうに言った。そしてゆっくりと話し始めた。



「あの人の言う通り、私と彼はお互いが嫌いになって離縁した訳じゃないの。何度も話しあった末での結論よ。あの人は昔から変に先読みの力があったと言うか……ねぇ」

「じゃ、じゃぁ……何度も私と対面したい、と文が来ていた、てお話も……」

「そうよ。文は全部目を通していたわ。でも、あなたには必要ない事だと思って見せなかったし。私の意地もあったのよね。あの頃の私は、まだ若かったわ……」


 遠くを見つめるような眼差しで言う母親。


(そんな! お母様はまだまだお若くてお美しいのに)


 そう言いたかった。けれども思わず言の葉を呑み込んでしまう。それほどに、その時の紅は触れたら消えてしまいそうな程に儚げに見えた。そのまま黙って耳を傾ける。




 蝉がジージーと鳴く。燃え盛る炎のような日輪が、地に上容赦なく照りつける。貴族たちにとって一年で最も過酷な季節に移り変わった。


 貴族たちは「更衣」と呼ばれる衣替えに時期を境に、裏のない単衣(ひとえ)を着用する。真夏を迎える頃には、単衣袴の上に生絹(すずし)(または『きぎぬ』)と呼ばれる薄く透けるものを羽織るのだ。そうなるともう女たちは、外に出てあられもない姿を晒す訳にはいかない。そこで殊更頑丈に屏風や几帳で部屋を囲い込んで過ごす。


 ここはまさに女の園だ。こうなって来ると、「貝合(かいあ)はせ」や「囲碁」、「双六」などの遊びの他、女童はそれらに加えて雛遊(ひいなあそ)び等の遊びの他、女たちの話と言えば……。未婚であれば恋の話、結婚している者であれば夫の事。また仕事の愚痴、はたまた噂話などに花を咲かせる。


 鳳仙花は炊事担当の部署の詰所にて、八人ほどの女房の爪紅を施術していた。


 女だけの空間。しかも仕事の区切りのついた自由時間。女房たちはしどけない姿で横になる者、寝転ぶ者。暑さのあまりに単衣の袴をはだけて太ももを露わにする者もいた。それでも磨爪術の順番が回って来ると胡坐をかき、それなりに姿勢を正して両手を鳳仙花に預ける。ジージージーとうだるような暑さを殊更演出する蝉時雨もあって、周囲に声画響かない事を良い事に彼女たちは噂話に大いに花を咲かせる。


「……そうそう、蔵人様の娘様、二の君の元に右大臣様が通われてる、てお噂ご存じ?」

「その話本当かしら? 右大臣様は右馬頭様の三の君の元に通われている、て話よ?」

「あら、私がチラリと小耳に挟んだのは、確か別の方だったような……」

「あらあら、浮き名を流されてらっしゃるようねぇ」


 女房たちは苦笑する。


……どこへ行っても、好き勝手するのって男の方ばかり。不公平だよなぁ……


 鳳仙花は否応(いやおう)なしに耳に入って来る噂話を適当に流しつつ、黙々と施術をこなしている。仕事柄外に出る事が殆どなので生絹(すずし)で過ごすのは自邸、または控室や詰所でのみである。その為、真夏は特に水分補給に気を遣わねばならなかった。よって、予め施術の前に了承を得る事にしている。誰もが皆、小袿姿の鳳仙花を見て気の毒そうな表情をし、快諾した。


「……浮き名と言えば、清少納言さんだけど。あの方って見かけによらず魔性の方よねぇ」


 女房の一人が、声を落として切り出す。清少納言という名前にピクリと反応しそうになるも、辛うじて堪える。


「あぁ、私も思いましたよ。道隆様が亡くなられて定子様率いる文壇の先行きが怪しくなったもんだから、ころっと寝返って。以前、道長様から和歌を贈られたツテもあるようですし、ねぇ?」


……それは、単に道長様が清少納言さんに興味を示した、てだけだと思うんだけど。優秀だから引き抜こうとしてるんじゃないかしらねぇ……


 心の中で応戦する。


「前々からあやしいと思ってたのよ。だって藤原斉信(ふじわなのただのぶ)様とお熱い仲なんでしょう?」


……それは、斉信様が積極的にきているだけかと……


「あら、誰でしたかしらあの歌人の方……」

藤原実方ふじわらのさねかた様?」

「そうそう、その方とはただならぬご関係とか」

「あら? 私は源経房(みなもとのつねふさ)様と聞いたわ」

「あらいやらしい。つまりふしだらなのね」

「あれだけ定子様に可愛がって頂いているのに……」

「私、前々から怪しいと思ってましたのよ」

「不美人に限って女を武器に致しますわよね」

「そうそう、道隆様が御健在の頃は、伊周様や隆家様にも尻尾振ってましたよね」


 話はどんどん白熱し、あらぬ方向へと飛び火していく。


……うわぁ、酷いなぁ。随分な言われよう。ていうか、個性的なお顔立ちだけど不美人じゃないし。なんだかなぁ、非凡な方って華やかで目立つし憧れられる分妬まれたり、ある事ない事捏造されて足を引っ張られたりして大変だなぁ。それにしても見苦しい、それってただ単に清少納言さんに嫉妬してるだけじゃない。やっぱり、嫉妬って女を醜くするわね。一度、悪口を言ってる時のご自身のお顔、鏡に映して見た方が良いと思うの。聞いていてみっともないったらありゃしない……


 鳳仙花には根も葉もない悪口で盛り上がる彼女たちが、般若や餓鬼のように見えた。まさに地獄の入り口に足を踏み入れた気分だった。そして以前、萩の方に嫉妬の念を覚えた事を思い出す。


……嫉妬の念が強すぎると、どす黒い業火で自らが燃やされ、近づく者も焼き尽くしてしまう。気を付けよう。強すぎる嫉妬は身を滅ぼすんだ……


 改めて強く決心した。施術が一区切りついた。次の段階に入る為に道具を整理する。そして「失礼します」と軽く断り、竹筒の中の水を補給した。この竹筒の水を運ぶのも零さぬように気を遣うのだが。ふと、


『生絹は色が黒い人は似合わない、やっぱり色白の方が映えるわ』


 と清少納言が笑って言っていた事を思い出す。女房たちのしどけなく肌を露わにする姿を見て、改めてその通りだな、と感じるのであった。清少納言は、後に枕草子にその事を記録している。



「あら、指先がしっとり。綺麗に紅く染まったわ」


 女房は自らの爪を見てはしゃぐ。鳳仙花は笑顔で応じた。その時、バタバタと足早に近づく足音が響く。


「大変よ、皆!」


 乱暴に几帳と簾を押しのけて入って来た女房は、鳳仙花と同じ小袿姿だ。息を切らし、汗だくになっている。施術の順番待ちの女房が、扇で彼女をあおいであげている。


「どうしたの? そんなに慌てて」


 鳳仙花も気になるが、耳だけすまし、身体はあくまで施術に集中する。僅かでも反応してしまえば、信頼を無くしてしまうから特に注意が必要だった。


 女房は息を切らしながらも、急き込んで口を開く。


「宮内庁会議でね、伊周様と道長様が大声でののしり合って掴み合いの喧嘩をなさってたのですって!」

「会議中に大声で? しかも掴み合い?」

「どうしてそんな事に? 一体何が?」

「そんな事前代未聞じゃない!」

「どうしてそんな事知ってるの? 会議って内裏の中でやるんでしょ?」


 施術を受けていない女房たちはつめより、施術を受けて居る女房はその場から、それぞれに質問を投げかける。鳳仙花の気になる点は、彼女たちが代弁してくれた。


藤原実資(ふじわらのさねすけ)様が、仕事で近くにいらしたらしいの。それで、他にも声を聞いた人は沢山いるって。私、たまたま使いで実資様のところに用があったの。そこで人だかりが出来て居て。大変な騒ぎになっているって。乱闘ともなれば、止めねばと場に押し入る男達もいて」

「それはそうでしょう。それで、原因は?」


 皆、食い入るように彼女に注目している。鳳仙花は黙々と施術をこなしながらも、耳だけは傾ける。但し、何も意識していない風を装いながら。伊周の身が心配でならなかった。


「伊周様、前に少しだけ『内覧』をされている時あったでしょ? その時の経験と比べられて、道長様の至らない部分を逐一取り上げて批判したらしいわ」


「それは道長様の面子が丸つぶれねぇ」

「部下たちの前で恥をかかされたらそれはお怒りでしょうねぇ」

「伊周様、お顔立ちと立ち振る舞い、知性と教養は抜きんでていますものねぇ」



……あぁ、伊周様は無念を晴らし、皆にどちらが政の権力を握るのに相応しいか分からせようとなさったんだわ。でも、それでは道長様の恨みをかうだけだし、周りも納得はしないでしょうけれど。隆家様は、何をなさっていたのかしら?……


 鳳仙花のその疑問は、次の瞬間すぐに晴らされる。


「それで、道長様が伊周様を殴ろうとしたところを、隆家様が間を割って入らてたのですって!」

「あらぁ、武術に長けてらっしゃる隆家様がついていたら、道長様もうかつに手をあげたら返り討ちにあってしまいそうですし」

「雄々しくて素敵ね、隆家様は」

「えー? 私は優雅で雅な伊周様の方が良いわ」


 この後の会話は、好みの男性の話や恋の話に花が咲いた。


……さすが、隆家様。これなら伊周様も安心ね……


 鳳仙花はホッと胸をなでおろす。心の中だけではあるが。そして先行き不透明な行く末に想いを馳せる。父親との対面の話を母親にした際の事が胸を過った。


 


 七月二十四日の出来事である。伊周と道長の乱闘に近い口論の事件は藤原実資の日記に記され、後の世にも知られていく事となる。

 

 

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