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「磨爪師」~爪紅~  作者: 大和撫子
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【第壱部】  第一帖 序章~爪紅~

~・~・~・~・~・~・~


 「綺麗な薄桃色の爪じゃ。何やらうきうきするのぅ。そなたに任せると心地良く至福の(とき)を味わえる」


 その美しい人は、お琴の高い音みたいに柔らかく澄んだ声の持ち主だった。御簾(みす)越しからでも分かるくらい、艶々した真っ黒い髪、涼やかな目元は、何でも視通してしまいそうな透明感のあるこっくりとした黒だ。そういう黒は、後に『漆黒』と呼ぶのだと母様から教えて頂いた。


「身に余るお言葉、光栄でございます」


 母様は深々と頭を下げた。


「そなたの娘御、鳳仙花と言うたか?」

「はい。申し訳ございません。恥かしがってあのようなところに隠れてしまいまして……」


 母様はそう言って、ちらりと私の方を見やると、その美しい人に再び頭を下げた。マズイ、どこかに隠れないと! 私は焦った。さて、どこに隠れよう!? 慌てふためいているうちに、ふわりと桜色の衣が私を包み込んだ。それは甘くてしっとりとした高貴な香りがした。


「どうした? 何を恥ずかしがっておる?」


 その人は笑ってるみたいだった。艶々した髪が、私の頬に触れて気持ち良い。


「そなたも、母君のように優れた磨爪師(まそうし)になりたいのであろう?」


 と、こっそり囁くようにして問いかける。


「はい!」


 私は迷わず肯定の意を示した。その人は私を抱きしめる両手に力を込めて


「よしよし、よう言うた! 良い返事じゃ」


 と嬉しそうに私の頭を撫でてくださった。


「あ、あの、定子(ていし)様、申し訳ございません。あの、よく言って聞かせますから」


 おろおろとひたすら恐縮している母様。その人は立ち上がって、私の右手を引きながら定位置に戻る。御簾を挟んで一段高い場所へと。私は途中でしっかりと母様に引き渡されていた。自然に、母様と御簾越しの美しい人を見つめる。


 その人は中宮『藤原定子(ふじわらのていし)』様。才色兼備で帝の御寵愛を一心に受けてらっしゃるという。


「気にするな。まだ幼い子どもではないか」


 と定子様は微笑んだ。


母様は、定子様を始めとした宮中の女房たちのお爪のお手入れをする『磨爪師』として活躍していた。その名を(くれない)と呼ばれて。


 私はそんな母様が大好きで、そして誇らしかった。


~・~・~・~・~・~・~




「こうやってね鳳仙花のお花と葉を揉み込んで、少しミョウバンを入れてね、こうしてお爪に塗るの。布にくるんで一晩乗せたままにしておくと、朱にお爪自体が染まったようになるのよ」


 幼い頃から、母親に聞かされて来た事だった。実際に爪に塗って貰った事もある。両手を開いたまま寝るのは、布が取れてしまわないかと気が気ではなかったが、すぐに慣れた。


「うわぁ……綺麗……」


 翌朝目覚めると、得も言われぬ美しい朱に染まった爪にうっとりする。元々の爪自体(くれない)だったのだと見紛うほどに自然に色づいているのだ。なんだか心が弾むような、くすぐったいような。自分がとても綺麗なお姫様になったような気分になる。


「お爪を紅く染めるのはね、魔除けの意味があるの。悪霊や邪気、魔物から守ってくれるのよ」

「それなら、夜一人で寝ても怖くないね!」


 爪さえ紅ければ、怖い魑魅魍魎や妖怪、お化けを見なくて済むのだ。それが単純に嬉しかった。


「それからね、お爪のお手入れをする事は、とても高貴で豊かであることの(しるし)でもあるの」


 母親はことある毎に、物語を読み聞かせるようにゆっくりと語った。


そんな母親は、やんごとなき姫君や貴族の女房達のお爪のお手入れをする『磨爪師(まそうし)』であった。当時としては非常に珍しく、表立っての活躍はなかったけれども、貴族の間の嗜みの一つとして生活の一部に組み込まれていた。

 『磨爪術(まそうじゅつ)』は母親の母君から、その母君はそのまた母から……そうやって受け継いで来たのである。故に、鳳仙花にも『磨爪術(まそうじゅつ)』を受け継がせるべく、幼き頃より爪紅(つまくれない)(※①)に馴れ親しませていた。まずは爪紅(つまくれない)を好きになって貰う事。技術は自然に興味を示すようになるまで待つつもりでいる。女が手に職をつけるには、男からは煙たがられる。それでも毅然とした態度で、誇りを持って仕事をしていって欲しかったし、鳳仙花にもそうやって受け継いでいって欲しかった。



 物心ついた時から、父親はたまにしか通って来なかった。来ると、ただ頭を撫でてくれるた。けれども鳳仙花が寝ている内に帰っていってしまう。それでも父親が訪ねて来るのは訳もなく嬉しかった。来るときはいつも、鳳仙花の苗を持って来てくれた。それを三人で庭に植えるのが楽しみだった。


「鳳仙花のお花の別の名前はね、爪紅(つまくれない)とも言うんだ。爪を赤く染めるものだからだね。鳳仙花と同じ名だな」


 父親は言った。この時代、真実の名には魂が宿ると信じられており、心から信頼出来る肉親しか(まこと)の名を呼び合う事は無かった。特に女子は、本名はひた隠しにした。


 鳳仙花は通り名。真の名は紅緒(べにお)だった。母親は通り名を(くれない)と呼ばれ、真の名を紅子(べにこ)と言った。父親は真の名を橘雅俊(たちばなのまさとし)、通称は役職名の近衞府(このえふ)右の(つかさ)と呼ばれていた。


 990年10月。鳳仙花が数え年で五歳を迎えた頃を境に、父親の足はぷっつりと途絶えた。母親は、


「病気で遠くの空気が良いところで療養している。鳳仙花に移すといけないから、しばらく来れない」


 と説明した。けれどもその病気は病そのものを差すのではなく、何かの暗喩だろう、と鳳仙花は幼いながらにも感じていた。


 (くれない)は、これまで主に貴族の子女の邸に訪問して『磨爪術』を施して来た。だが、その年の木々が紅の衣装に衣替えする頃、少しずつ貴族の男性からの依頼も増えて行く。彼女の『磨爪術』は噂が噂を呼び、ついに宮中の女房たちの噂に上るようになる。


 その時、中宮・藤原定子(ふじわらのていし)は一条天皇の正妻として入内しており、彼女には多くの女官がついていた。とても華やかな社交場を築き上げつつあった。ある時、女官の一人である式部のおもとの爪が紅く色づいてとても美しい事が、藤原定子の目に留まる。御簾越しからも垣間見える、美しく艶やかな爪色。人工的な鮮やかさではなく、自然に爪自体が色づいて見ゆる。


「式部のおもとや、そなたのお爪、随分と美しい(くれない)に染まっておるな。もっとと近くで見てみたい。こちらへ」


 とお呼びになられた。嬉しくなった式部のおもとは、足取りも軽やかに進み出る。


「失礼致します」


 お付きの侍女が御簾を上げ、彼女を招き入れる。扇で花の(かんばせ)を覆った(あるじ)の、透き通るような白く美しい額が眩しい。両手の甲を差し出すと、ゆるゆると両手を伸ばし、式部のおもとの手の平に自らの手の平を差しいれた。軽く触れる主の指の心地良さにくらくらしながら、誇らしく爪先を反らす。扇をずらし、じっくりと指先を見つめる定子。艶やかな漆黒の髪が滝のようにさらさらと流れ落ちる。袖からも髪からも、上品な甘い香りが微かに漂い、心地よい。


「見事じゃ。まるでそなたのお爪自体の色に見ゆる。美しい色じゃ。どのようにして染めたのであろう? 教えてたもれ」


 主は嘆息したように言の葉を紡いだ。


「私も口伝えで伺ったのですが、くれないと呼ばれる『磨爪師(まそうし)』がおりまして……」


 991年、桜の花が咲き始める頃、紅が宮中の社交場に出入りする事になった瞬間であった。


 それ以降、母親は宮中に泊まり込みで仕事をすることが多くなった。故に共にゆっくり過ごす時間は極端に少なくなって行く。何故なら、爪を染める行為は夜眠る前に行うからである。けれども、中宮定子をはじめとした宮中の女房たちの『磨爪師』として活躍する母親が、鳳仙花にはとても誇らしかった。そしてまた、それなりに裕福な生活が出来るのは母親の収入のお陰であることもよく理解していた。


 必然的に乳母である保子(やすこ)と過ごす事が多くなっていく。彼女はふっくらとした優しい雰囲気の女性だった。されどその瞳は力強く輝いている。彼女の芯の強さが窺い知れた。今の彼女は、落ち着いた黄色と淡い黄色、黄緑などを重ねた十二単(じゅうにひとえ)、いわゆる『女郎花(おみなえし)(かさね)』を身に着けており、とてもよく似合っていた。


 彼女は乳母としてだけでなく、鳳仙花に貴族社会で生き抜く為に必要な知識や教養、和歌や音楽などの実技などを教え込む役目も担っていた。


「えー? そんなの(ずる)いと思う。どうして女ばっかり?」


 鳳仙花は説明を聞くなり早速不満露わにした。保子から貴族の結婚制度について説明を受けていたところだった。口を尖らせ、怒りで大きな目がギラギラ輝く少女を見つめながら、


(本当にお母さまによく似てらっしゃるわね)


 と保子はしみじみと思った。象牙色の肌、小さな卵型の顔の輪郭。彫りの深い顔立ち。クッキリした眉こそ、母親は流行に合わせてボーッとうち煙るように描いているが、その快活そうで生き生きと輝く勝気な大きな瞳も、紅い椿の蕾のような唇も。本当によく似ている。薄紅(うすくれない)を基調に、白、黄緑などを重ねた十二単『撫子の襲』が活動的な彼女をより魅力的に演出している。


 鳳仙花の不満は……


「……男性が三日三晩通うと、目出度く結婚が成立します。三日目に女性宅でご馳走と酒が振る舞われます。その後は男性が住み込んでも良し、自邸から通うのも良し。但し、家事全般がお粗末、浮気をした、夫を立てない。夫の出世に必要な知識や教養などが不足している、などで簡単に離婚されてしまいますから、女性は気を抜く事は出来ません。身だしなみも、お勉強も。音楽も怠けると腕が鈍りますから」


 乳母のこの説明に対してだった。


「あらあら、どのようなところが狡いと思いますの?」


 彼女は穏やかに問いかける。


「だってさ、皆女の人の家のお金じゃない。女の人のお金をあてにしてる癖に出世なんておかしいもん、絶対」


 鳳仙花は口を尖らせた。保子の口元から笑顔が消える。


「鳳仙花様、それは人には絶対話してはいけませんよ」


 と打って変わって厳しい声を上げた。


「えー? どうして?」


 不服そうな鳳仙花は首をかしげながら保子を見つめた。


「世の中には、例え正しい事でも言ってしまうとご自分の立場が危うくなってしまう事があるのです。一部の偉い人が作りあげた目に見えない決まり事に従わないと」


 保子は毅然とした態度で言い切った。そして再び穏やかな表情を浮かべると


「紅様も、そうやって目に視えない決まり事に従って来ているから、磨爪師としてご活躍なされているのですよ」


 と切り出した。


「お母様も?」

「ええ、そうですとも」

「そっか。じゃぁ鳳仙花も頑張ってみるよ。まだよくわからないけど」

「大きくなれば、自然に分かってきますから」

「じゃ、その都度教えてね」

「勿論ですとも」


 二人は微笑みあった。


「では結婚のお話しに付け加えましょう。恋人同士が一夜を共にした後は、男性は夜明けに帰るのがしきたりです。それを『衣衣(きぬぎぬ)の別れ』(※)②と呼びます。そして男性は帰宅したら『夕べは有難う、素敵だったよ』と言う意味を込めて和歌。または(ふみ)を送るのもまたしきたりです。これを『後朝(きぬぎぬ)の歌』または『後朝(きぬぎぬ)の文』と呼びます」


 鳳仙花は保子の説明を聞きながら懸命に筆を和紙に走らせる。まだ筆には慣れていない様子だ。


「でもさぁ、男性って妻を何人も持てるんでしょ? でも女性には慎ましく清らかでいろ、なんてさ、不公平だよねー。ここだけの話だけどさー」


 鳳仙花はヒソヒソ声で不満を吐き出す。


「これこれ! 滅多な事言うものではありませんよ」


 保子は半ばハラハラしながら窘めた。


「分かってますよー。疑問に感じても口に出さない。それが賢く生き抜く技術、でしょ?」


 鳳仙花は呆れたように肩をすくめた。


(それはどうでしょう? ほとんどの女性は疑問にすら思わないかもしれませんけれどね。鳳仙花様はかなり珍しい価値観の持ち主のようですわね……)


 保子は内心そう感じていた。


 鳳仙花は睨みつけるように自分の書いた紙を見ながら、ぶつぶつと言いながらおさらいをしている。まだ数え年で六歳になったばかりなのだ。子供らしい仕草を見るとなんだかホッとする保子であった。


(けれども、あまりにも鳳仙花が珍しい価値観の持ち主なら、尚更生き抜く(すべ)と言いますか、考え方の変換が必要ね……)


 鳳仙花のこれからを思う。しばらく考えた後、保子は何かを思いついたようだ。


「鳳仙花様、良い例がございますわ。確かに、女は何かと耐え忍ぶ事が強いられますし、生きにくいと感じる事もあるでしょう。特に男性に対して何か物を申したくなった時、感情のまま伝えるのはこちらの印象が悪くなります。例え、正しくてもね」


「じゃあ、どうしたら良いの?」


 鳳仙花は瞳を輝かせ、身を乗り出して乳母を見つめる。


「幅広い知識と教養で返すのです」

「どうやって?」

「例えば、訪ねて来る約束をした男性が来なかったとします。その時、感情のまま『待ってたのに酷い!』言ってしまえば男性の心は益々離れ、周りからも下品で愚かな女、とされてしまいます。そこを、怒りをグッと抑え『一晩中あなたを待っておりましたら、月が朝日に代わる様まで見てしまいましたわ』例えばこのように和歌で応じたりします」

「なんかよく分かんないけどいい。素適な気がする」

「でしょ? このように切り返せる賢い女性になるは、たくさんたくさん学び、実践していきませんとね!」

「うん! 頑張る!」


 鳳仙花は元気良く応えるのだった。


「では、次回はお琴と琵琶の楽器を勉強しましょうね」

「はーい!」


 燭台の灯りが、部屋の御簾(みす)を優しく照らしていた。




(※①爪紅つまくれない…爪を鳳仙花で紅く染める事を指す)

(※② 後に「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と書かれるようになる)

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