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液浸標本な理科室  作者: 網戸のホコリ
4/5

丘陵

何時からそこにいるのかわからない。

ただ針のないコンパスを頼りにたどり着いた。

途方も無い膨大な時間を旅した私は、小さな丘陵を見上げている。

辺りは、この丘陵の他に、広大な草原が広がるばかり。

快晴の空。

緑の透き通った、ネコの毛並みの様な草原は、優しい風になでられている。

ふと振り返ってみると、自分の足跡は、緑にかき消されてしまった。

やはり後戻りは許されないのだろうか。

後ろを向いたまま、私は、遠くに広がる地平線を眺めるうちに、現在という時間の感覚すら失ってしまった。

ふと、その小高い丘陵に登り、座り込んだまま空を見上げる。

やっと、役目を果たした。

それが何かすら覚えていないが、思い出そうともしない。

むしろ、思い出す必要がないと悟った時には、くたびれた白衣のポケットから、針のないコンパスは消えていた。




平成初期、とある生命科学系の大学院生は、博士課程に所属していた。

研究題目は、遺伝子の二重螺旋構造を解く、ヘリケースタンパク質の遺伝学的解析だ。

修士課程まで、よその私立大学に所属していたが、とあるありきたりな事情で、その研究ができる大学院へ進学する方位を選択した。

彼には古い友人がいる。

その人物はあまりにも平凡で誰にでも起こりうる問題を抱えていた。

そして、ある日それを病に伏せた状態で、彼に相談した。

無論、当時修士課程2年だった彼は、即座に断ろうとした。

だが、数少ない友人の手前、その問題を断る事など不可能に近い事だった上に、彼を平凡な異常者に仕立て上げるには、十分な事情だった。

人の世の理不尽さとは無情なもので、もう長くは生きられない友人の病室の窓からは、公園で戯れる子供と木漏れ日に目を細める老人が、さもこの時が永遠であるかの様な朗らかな表情で悠久の時を噛み締めていた。

ここで、その問題について話しておく。

その疾患は平均寿命40代程度であるが、それは単純な寿命曲線を引いた時にグラフ上に現れる値であり、ある一定の時期になると、時間単位の死亡率であるゴンペルツ曲線は、ほぼ垂直87度に達する。

この理由は、生命の基本単位である細胞に収められた生き物の設計図、すなわちゲノムが、とあるヘリケースタンパクをコードする遺伝子異常によって、その構造を保持できない事に起因する。

つまり、遺伝情報の不均一な構造異常は、ランダムな関連する遺伝病を引き起こすトリガーとなるため、一定の期間に達すると時限爆弾の様に死を引き起こす。

タイムリミットはある程度はっきりとしているが、問題は、その仕事が今の研究室では不可能な事だ。

そこで、その遺伝子疾患の基礎と応用を研究するラボに進学する事となった。


博士課程に進学してから、ただ、先輩と呼ばれる様になった彼は一心不乱に研究に打ち込んだ。

原因遺伝子は単一であるのにその表現型は広くランダムである事が、余計に治療法開発を複雑怪奇な輩に仕立て上げた。

しかし、研究を続けていくうちに、自身が360度広がるその疾患の草原で、針のないコンパスを頼りに進んでいる状況に気がついた。

後ろを振り返ろうとすると、成果の出ない現状が足跡をかき消す為に、前を向くことしかできない。

どこへ向かっているのかすらわからない中で、誰よりも深く考え、誰よりも長く思い続けているうちに、ただ前へ前へ進み続ける歩調だけが、草原に轟いていく。

地に響くその轟音は風を呼び、草原の緑を撫で、進むべき場所を示した。

「あともう一歩かもしれない。」その想いが、彼を更に先へと進める。

それから、ひたすら、進みつづけると、現在という時間の感覚すら薄れてきた。

寝食忘れて研究に没頭するうちに、ただ、目標に向かって進むことだけが、唯一の時間軸となっていった。

こうして、膨大な時間と持ちうる全てを賭けて研究を続けるうちに、小高い丘陵にたどり着いた。

たどり着くと同時に、そのまま、机に座った彼の体は動かなくなった。

深夜の月明かりが、窓から仕込んで、倒れ込んだ彼の体だけを照らし、その机には、一報の論文が雑誌にアクセプトされたという手紙と、治療薬が影を落としている。

周囲は幻想的な静寂を守った。

翌日の朝、コアタイム前に実験室に来た後輩が、彼を見つけた。

すぐに、救急車を呼んだが、意識不明の重体で、そのまま、入院となった。

今、先輩の意識は何処にあるのだろうか。

そんなことを考えている後輩が、病室を出たことを確認して、とあるネコが入っていった。

さも、自分が人間であるかの様に、威風堂々たる足取りで。




只管打坐と見るにはあまりにも脱力しきっているが、かと言って堕落しきっているわけでもない。

ただ意味もなく、草原を眺める事に飽きた私は、昔を思い出していた。

幼少期に百科事典に触発されて、サイエンスに取り憑かれてからというもの、この持病とはある意味うまいことやってこれた気がする。

小学校の理科室。

魔術師の部屋と呼ばれていた実験室での授業は格別だった。

あの頃はまだ科学者が本気で不可能を可能にすると信じていたし、自然法則を疑ったことも無かった。


いつからだろうか。

いつから、生と死の境界を知ってしまったのだろうか。

それは確か、拾って来た野良猫が衰弱していく姿に号哭し、そばにいてやることしかできない自分が、万能だと信じていた科学の限界を知った時だったろうか。

やがて、熱を喪ったネコの毛並みを撫で、自分が諦めない限り科学に限界はないはずだと、証明することを誓ったその日が、再び私の前に実体を見せた。

これが、私の存在を平凡な異常者にしてしまった。


不意に、何処からともなく、鳴き声がする。

それは、これまで歩いて来た方角ではないことは確かだった。

何かに取り憑かれた様に、立ち上がった私は、丘陵を駆け下り、これまで進んで来た道の先へと、走り出した。

途中で何度も倒れ、膝をつき、泥をかぶって鳴き声のする方へと走っていった。

そして、その見据えた先から、二本の鎖枷で繋がれた羊がこちらへ歩いて来るのが見えた。

彼らの前についた時に、私はただそれが、生命科学の研究を続けて来た自分の責任であることを理解して、二本の鎖のうち、一本だけを切ってあげた。

すると、軽く頭を下げた二頭の羊は、その足元に埋もれていた針のないコンパスを掘り起こし、また何処かへ去っていった。

私はこれを手に取り、泥を拭った。

そして、いつの間にか、私の意識は何処かへ引きずり込まれる様に途切れていった。




病室で彼が目を覚ましてから、ひとつ新しい事がある。

それは、別段友人からの頼みを達成したことでも、インパクトのある研究成果に関する事でもない。ましてや、点滴の成分に含まれる緩衝液に溶けたグルコースがメタンフェタミンにすり替わった件でもない。

ただ、自分の腕に刺さった点滴のニードルを見て、ちょうどサイズのあう管があったことを思い出し、退院してから実験室の壁に下がった段ボールの的を狙って吹き矢で遊びだしたことである。

そして、実験室の後輩に絡んでは、エタノールの品質を検査するために、みずから経口投与し、その生理学的影響を分析している。

ある程度、酔いがまわると昔話を始める姿は何処か穏やかな物腰で、後輩に自身の学問哲学を講じる論調は常に真っ直ぐに前を見据えている。

そして、彼の側にはその威光を借るようにして、猫が一匹偉そうに、座っていた。

誰にもその存在を悟られるこなく。

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