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液浸標本な理科室  作者: 網戸のホコリ
2/5

授業

意識が戻った時は只々呆然としていた。

半煮えの角煮で永遠の旅路へ向かうところだったあたりまでは覚えている。

ここがどこかわからないが、あえて状況を詳細に述べるなら、夕暮れ時の理科室のような場所で目の前の先輩を眺めている。

すえたホルムアルデヒドの臭いも壁に埋もれたドイツ箱もどこか懐かしい郷愁を誘ったが、目の前の常識人をひとまず放置して、あたりを散策してみることにした。

音もなく、窓の外から入る夕暮れ時の光はこの部屋のホコリとカビの湿っぽさをより強調した。

どうやら、ここは小学校の理科準備室で間違いない。

恐らく、食中毒が原因で極楽浄土してしまったのだろう。

願わくば、ここが天国であってほしいが、せめて預金を使い果たしてから死にたかった。

とりあえず、今は夢の世界であると信じている。



そして、廊下に出ようと扉に手をかけるが、それ自体がホルマリンやカルノア液で固定処理された標本のように、空間に固定されていた。

ビクともしない。

しかし、不思議と恐怖や不安はない。

むしろ自分の原点に帰ったかのようですらあった。

「この場所で始まり、この場所に帰る」いずれそうなることが、わかっていたかの様に、昔を思い出した。

初めての理科の授業。

実験室に並ぶ怪しくも妖艶なガラス器具、普段の授業と異なる空気。

不思議な酸の液体から溢れる泡沫を集気瓶に集め、熱した鉄片から火花が散った時は、部屋中に歓声の声が上がった。

懐かしい。

しかしながら、時間の経過と共にそんな自分の原点すら過去の遺物として風化していった。

いつからだろう。

学会演題の投稿締め切りに追われ、嫌な教授を避け、周りの顔色を伺う日々のせいか、科学を楽しむ余裕すら忘れてしまっていた。

ふとそんなことを思い出していると、ドアの向こう側から足音が聞こえてくる。

勢いよく扉が開くと、背丈の低いヒト型の影が続々と入ってきた。

全員が席に着くと、ただこちらを凝視している。

好奇心に溢れる視線はどことなく懐かしい。

教壇に立った私は、もう一度、あの頃を思い出すかの様に、誰に促される訳でもなく授業を始めた。


気取った、難解な言葉をつかわず、ただゆっくりと話し始める。

「ある時代、ある場所で、万物は神が創造したと信じられていた頃、一枚の紙切れを最小まで切っていくとどうなるのか、疑問を抱いた人物がいました。まさに、原子、分子、即ち化学の夜明けですね。この世の全てのものが小さな粒の集まりに過ぎないと主張した彼は、異端として扱われましたが、それから数世紀の時を隔てて、ついに人類は物質界最小の粒、原子を発見しました。それでは、実際にその原子や分子の動きを観察しましょう。」

そして、アルカリや酸の液体と金属を反応させ、水素や酸素の燃焼や金属の炎色反応を実演してみせた。

授業は大成功である。

教卓の上の化学反応を見ようと思わず席を離れる生徒もいる。

この中に、昔の私がいるのだろうか。

当時の私が自分を見たらどう思うのだろう。

権威と富のためのサイエンスに溺れ、ただ労働としての学問しか見えなくなった未来を知って落胆するかもしれない。

学術振興の場ではなく、就職予備校と変化した大学で、科学への敬意すら捨て去った自分を知る由もなく、彼らは嬉しそうに試験管から立つ泡を見ている。

そして、最後に、こう締めくくった。

「高度な分析器の無い時代、豊富な知識と柔軟な発想力で理に挑戦し、自身の導き出した論理を世に啓蒙した人物、ひいてはこれまで科学の発展に貢献した先人たちの様に、自ら疑問を持ち、あらゆる事に挑む人物になってください。次世代を担うあなた方がどうか、この日を忘れませんように。」


授業が終わり、彼らはどこへいくともなく、虚空へと消え去っていた。

最初から何事もなかったかのように、再び理科室に静けさが戻ったが、廊下側のドアが開いている。

起こすと面倒な事になりかねないと察した私は、先輩を置いていく事にした。

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