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液浸標本な理科室  作者: 網戸のホコリ
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腹痛

先輩の指図だったとだけ弁明しておきたい。


ただ明らかな異常は、生化学の実験室にたちこめるバクトペプトンのような芳醇な香りとその元凶についてだろう。

何を思ったのか、実験室で注射器のニードルを弾に、吹き矢遊びをしていた博士課程の先輩が、冷蔵庫から豚肉のブッロクを取り出し、ただ一言「教員は帰ったのでオートクレーブで豚の角煮を作っといて」とだけ言い残し、ムーンウォークで炊飯器を取りに行った。


生命科学系の学生であれば言わずと知れたオートクレーブだが、要するに蒸気圧で滅菌する実験装置である。

無論、あると便利な主婦の味方ではないし、スチームサウナでもない。

しかしながら、今回は豚の角煮なだけマシと考えるべきな気がした。

たしか、先週は教授室の椅子の背もたれをドライバーで外し、院生室の粗末なパイプ椅子と一部部品のトレードしていたところをボスに見つかり、「私は●本主義者です」と書かれたプラカードを首から下げて、廊下に吊るされていた。

教授はただ一言、「打倒、無産階級層!パイプ椅子に敗れた背もたれは自己批判せよ!」と叫びながら、教授室に戻って行った。

当の吊るされた本人は、「先生、スターリン閣下もトロツキーも母なる大地ソ●エトも終わりましたよ」と吐き捨てた。

それを横で目の当たりにする我々修士の心情を考慮して欲しかった。


あの手の常識人な先輩の指図とはいえ、オートクレーブから立つ湯気の香りは食欲をかきたてた。

毎日、定められた時間、実験室に来て、教員の顔色を伺い、数々の無理難題を押し付けられ、後輩の信頼も守らねばならない。

我々修士は立ち寄ったスナックでグラスにため息を溶かすしかなかった。

そんな殺伐とした実験室にたちこめる暖かな湯気と肉汁の芳香は疲弊した学生のキズを埋めるには十分だった。

めい一杯匂いを吸い込んだ私は、一言「嗚呼、マリファナ吸いたい」と深夜の実験室から望む月明かりに黄昏た。


後ろから、ドアが開く音がする。

炊飯器を取りに行った先輩が戻ってきた。

山盛りのご飯に角煮を乗せ、試薬棚から持ち出したエタノールをコーラで薄めて晩酌を始める姿は、ある種の無形文化財にすら見える。

この世のどこに、試薬棚のブツと実験室のケミカル食品で、酔潰れる酔狂な酩酊家がいるのだろうか。

どちらにしても、こうも酔った時はいつも昔話が始まる。

そして、シメはいつも「あの頃の理科室が懐かしい。」だった。

しかし、今日はいつもと違う。

先輩にふさわしい、学問哲学でも語り始めるのかと首を長くして、次の言葉を待った。

そして、何かを言おうとして、前のめりに倒れこんだ。続いて、私も声をかけようとしたことろで意識が途切れた。

恐らく、食中毒だろう。

只々、後悔しかない。

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