8:恋の病は治らない
マティアスのもとから逃げるように部屋を飛び出したものの、予定より早すぎて迎えの馬車はまだ来ていない。
エミーリアの心臓は先程からうるさいほどに鳴っていて、今は呼吸もままならない。酸欠になりそうだ。
「……こ、恋をするって命がけなのね……」
頬に触れられたくらいでこんな有様では、手を繋いだり物語のように抱きしめられたりしたらどうなってしまうんだろう。
(……そ、想像しただけでまた動悸が激しくなる……)
少し冷たい手だった。くすぐるようにそっと触れた指先の感触がまだ残っている。
やさしい目をしていた。けれどどこか意地悪そうな、そんな雰囲気もあって、少し怖いような気もするのに目が離せなくて――
「シュタルク嬢」
「ひぃやぁああ!?」
背後から話しかけられてエミーリアは悲鳴をあげた。
「あ、驚かせてしまいました? 具合は大丈夫ですか?」
「ヘ、ヘンリック様……」
振り返ると、そこにいたのはヘンリックだ。マティアスでなかったことに安心しながらも、少し寂しい。
「ぐ、具合は平気……です、迎えの馬車を待っていようかと」
本当に熱がぶり返したわけではない。別の意味で熱は上がってしまったかもしれないが、原因であるマティアスと離れれば落ち着くはずだ。
「それなら向こうにベンチがありますから。木陰になっているしちょうどいいでしょう」
どうぞ、と差し出されたヘンリックの手をとる。エスコートに慣れているのはさすがというべきだろうか。
近くの衛兵にシュタルク公爵家から迎えが来たら知らせるようにと伝えておく。それほど遠くに行くわけではないので問題ないだろう。
ベンチにハンカチを敷いてからエミーリアを座らせるのも見事だ。
「ありがとうございます、ヘンリック様」
「いえいえ、落ち着かれたようでなによりです」
「……先ほどは取り乱してしまって申し訳ありませんでした」
思い返すと随分失礼な態度をとってしまった。淑女にあるまじき失態だ。
「俺相手だと平気そうですね」
「はい?」
「いえほら、ご存知でしょうけど、これでも顔はいいほうなので、女性にはわりとモテるんですけど」
そうですね、そう聞いております。と返していいものだろうかとエミーリアはヘンリックを見上げた。彼はベンチの、エミーリアの隣には腰掛けない。
「シュタルク嬢にはこの顔も効果がないみたいだなと思いまして」
「……それは、当然です。わたくしがお慕いしているのは陛下ですもの」
ヘンリックのことは素敵な男性だと思う。話していても退屈することがないし、エスコートにもそつがない。
けれどヘンリックはマティアスではない。エミーリアにとっては、ただそれだけのことなのだ。
「よかった」
「何がですか?」
目元を綻ばせ、ほっとしたように呟くヘンリックにエミーリアは首を傾げた。
「シュタルク嬢は確かに陛下に恋をしているんだと、確認できたので」
ヘンリックにとって、そんなことが「よかった」ことになるらしい。
「……初めからそう申し上げているつもりでしたが」
わざわざ再確認するようなことではない。エミーリアは、彼女なりに好意を伝えてきたつもりだ。隠す必要もないのだからそれはもう堂々と。
(……今のままじゃアピールが足りてないってことなのかしら……)
むむ、とまた作戦をたてなければと難しい顔をするエミーリアに、ヘンリックは笑いをこらえきれないと言った様子で言った。
「いやぁ、最初に恋をしてくださいとはおっしゃってましたけど、愛の告白は聞いてませんね」
愛の、なんて言葉につい過剰反応してしまって、エミーリアの顔はすぐにまた真っ赤になる。
「こ、告白なんて、そんな軽率にできるはずがないじゃありませんか……!」
「そこは恥ずかしがるんですねぇ」
「告白なんてしたら、陛下からお返事を聞かなければならないじゃないですか! 無理です! もしも嫌いだとか、好きじゃないとか言われてしまったら、わたくし立ち直れません!」
「え、そういう?」
確かにヘンリックの言うとおり、エミーリアははっきりとマティアスに好意を告げてはいない。だがこれだけ態度と行動で示しているのだから、言ったも同然だと思う。
とはいえはっきりと言葉にするには、勇気が足りなかった。告白と返事はワンセットだ、ロマンス小説の常識である。それに物語の中で告白のシーンといえば一、二を争う見せ場のシーンだ。
エミーリアとマティアスはの仲は、残念ながらそこまで盛り上がるほど進展していない。
「ですから、陛下にわたくしのことを少しでも好きになっていただかないと……。そうでした、ヘンリック様! 陛下の好みの女性はどんな方かご存知ありませんか!?」
掴みかかる勢いで問いかけてきたエミーリアに押されながら、ヘンリックが頭を捻る。
「陛下の好み……? 申し訳ないんですけど、長年付き合いのある俺でも知らないですねぇ」
「そ、そんな……」
あれだけ親しいヘンリックが知らないとなると、マティアスの好みの女性を知っている人間なんていないのではなかろうか。
エミーリアは予想を裏切られてがっくりと肩を落とした。
「……シュタルク嬢はそのままでいいと思いますよ?」
ヘンリックが淡く微笑みながらそう告げる。
今のまま、ありのままのエミーリアが、マティアスに変化をもたらし始めているということはさすがに口にはできなかった。
「そういうわけにはまいりません! ……こうなったらデリアから教わった手段を使うしか……」
(だ、抱きつくのは無理でも、ちょっと近寄ってみるくらいならわたくしでもできるはず……!)
問題はいつも向かい合って座っているところを、どうやってマティアスに近づくかだ。挨拶のときにさりげなく近寄ってみればいいのだろうか?
「デリア? ……もしかしてデリア・リーグルですか?」
悩んでいるエミーリアを見下ろしながら、ヘンリックが問いかけてきた。
いつもより心なしか低めの声。しかしその声には負の感情は宿っておらず、探るような、驚くような響きがあった。
「はい。彼女のことをご存知なんですか?」
デリアからはヘンリックと知り合いなどと聞いた覚えはない。話題にヘンリックの名前が出てきても、顔色ひとつ変わらなかった。
「……ええ、まぁ。どんな手段なんですか?」
ヘンリックはにっこりと微笑み、先程まであったわずかな変化をすぐに消し去ってしまった。
なんとなく引っかかるものがあるものの、エミーリアはヘンリックの質問に顔を強ばらせる。
「えっ……い、言えません」
――言えるはずがない。
抱きついてみれば好意を持たれているかどうかわかるらしい、なんて。
「言えないようなことなんですか…うーん近衛騎士としては見過ごせないなぁ」
顎に手を寄せてヘンリックはわざとらしく困った顔をする。
「へ、変なことはしません!」
「まぁ、頬に触れられて逃げ出してしまう人に変なことはできないでしょうけどねぇ」
くすくすと思い出してまた笑うヘンリックに、エミーリアは子どもみたいに頬を膨らましたくなった。もちろん淑女としてそんなことはしないが、心の中ではリスのように頬はぱんぱんになっている。
「エミーリア様!」
遠くで公爵家の迎えの者がエミーリアを呼んでいた。
「あ」
「迎えが来たみたいですね。……失礼、シュタルク嬢」
「はい?」
立ち上がったエミーリアの髪に、ヘンリックが触れる。
「髪に葉がついてました。取れましたよ」
ヘンリックは葉っぱを一枚摘んでいた。いつからついていたのだろう、とエミーリアは自分の髪を確認する。他にはないようだ。
「ありがとうございます、ヘンリック様」
エミーリアがお礼を言うと、ヘンリックは「いえいえ」と笑いながら独り言のように呟く。
「……これですもんねぇ」
これがきっと、マティアス相手だったならエミーリアはまた顔を真っ赤にして慌てただろう。
「何か?」
きょとん、とした顔のエミーリアは、ヘンリックに触れられてもまったく意識していないということには気づいていないらしい。
「いいえ、何でもないですよ。お気をつけて」
ひらひらと手を振るヘンリックに内心で首を傾げながら、エミーリアは優雅に一礼してその場を去った。