22:小さな違和感
マティアスとエミーリアが以前のようにゆったりとお茶を楽しむような時間はない。少なくとも結婚式が終わって一段落つくまではこの慌ただしさとは別れられないだろう。
「ではこちらはこの案で。ええ、よろしくお願いします」
用意された紅茶は冷め始めているし、マティアスもエミーリアも茶菓子を口にはしていない。
エミーリアはそのことに不満ひとつもらさず、テキパキと書類を片付けた。その様子はいつものエミーリアと変わりないように思えるが。
「少し疲れているんじゃないか」
一通りの確認を終えて、ようやくエミーリアが紅茶を飲み始めたところでマティアスは問いかけた。
顔色は変わらない。痩せたわけでもない。
ただなんというか、エミーリアがまとう空気に疲れが滲んでいる。……そんな気がした。
「忙しくしておりますから。でもわたくしは大丈夫ですよ」
ふわりと微笑むエミーリアをマティアスはじっと見つめた。
大丈夫と言っている人間が本当に大丈夫である保証はない。この場合、無理にでも少し休ませるべきか。それとももう少し様子を見るべきだろうか。
結婚式を控えた今、エミーリアもマティアスもやることだらけなのは変わらない。こういうとき、アイゼンシュタットの切実な王族不足の問題を実感する。
せめて頼れる臣下を育てておくことができれば良かったのだろうが、それは現在進行形で進めていることだ。即位直後のマティアスにそんな余裕はなく、落ち着き始めてからようやく手をつけた。しかし優秀な人材は限られているし、優秀だから信頼できるとも限らない。
「明日には母も王都に到着するらしい。社交は無理でも書類の確認なら遠慮なくやらせてくれ」
ナターリエに社交は期待していない。あの人は生粋の芸術家だ。下手にエミーリアの代わりを任せたら問題を起こしかねない。とはいえナターリエは絵筆を握ること以外はたいてい苦手なのだが。
「そんな……せっかく久しぶりに王都に戻られたのならゆっくりしていただきたいです。レオノーラ様と会うのも数年ぶりでしょう?」
「少しは君が休めるように……まぁノーラの相手を母がすれば君の負担が減るか」
母が苦手とすることをやらせなくても、娘と親子水入らずで過ごすことでエミーリアの休憩時間を確保できるなら悪くない。
「……負担にはなっておりませんよ。勉強させていただいています」
エミーリアは笑っていたが、妙な間があった。
婚約したばかりの頃のマティアスなら気づかなかったかもしれないが、今のマティアスはあの頃のようにエミーリアに無関心ではない。
やっぱりあの姉の相手を頼んだのは間違いだったかもしれない。相性が悪いのか、それとも気疲れしているのか――あるいは別のなにかがあるのかはわからないが。
「そういえば、君の姉君が懐妊したと聞いたな。おめでとう」
話題を変えよう、とマティアスは自分が知るなかで明るい話題を引っ張り出した。なんでもエミーリアとレオノーラと会っていたときに判明したらしい。家族を愛しているエミーリアならさぞ喜んだだろう。
「ありがとうございます」
にこりと、エミーリアは笑う。
マティアスはその笑顔に違和感を覚えた。想像していた反応とは違った。マティアスの知るエミーリアなら、きっと目を輝かせ花が咲いたように笑うと思ったのだ。
「エミーリア――」
何かあったのか。
疲れているだけではない何かが。
マティアスがそう問おうとした瞬間、コンコンとノックの音がする。
「失礼します。陛下、リンハルト公爵夫人がお会いできないかといらしております」
会いたくない。
反射的にそう答えそうになって、マティアスは一度ゆっくりと息を吐いた。伯母であるベアトリクスには今もかなり協力してもらっている。無下にできないのはわかっていた。
とはいえ、久しぶりにエミーリアと二人で過ごせる時間を邪魔されていい気分ではない。
「……陛下?」
エミーリアが首を傾げてこちらを見る。伝えに来た女官が困っている、と言いたいのだろう。
「……ああ、来てもらってかまわない。エミーリアも、それでいいか?」
「はい、もちろんです」
エミーリアは嫌とは言わないだろう。よほどのことがない限り、彼女が何かを拒絶することはない。
……タイミングを逃してしまったな、とマティアスは思った。エミーリアがなんとなくいつもとは違う。そんな些細な違和感を確かめる機会を逃してしまった。
リンハルト公爵夫人ことベアトリクスはすぐにやってきた。女官が慌てて新しいお茶を用意する。
「ナターリエがそろそろ到着するのよね? これまで通り最低限の社交ですませるの?」
「そのつもりですが?」
王太后であるナターリエは結婚式には参加するが、その後の披露宴などには顔を出してすぐに下がらせるつもりだ。フォローできるマティアスやエミーリアが主役で多忙を極めているのでしかたない。
「王族の席が寂しいわね……」
「それは私ではなく死んだ父に言ってほしいんですが……」
いや、あるいはさらにその前の代だろうか。
「リンハルト公爵夫人が近くにいらっしゃるのならナターリエ様も退屈しないかもしれませんね」
王族と公爵家、さらに侯爵伯爵と爵位の高い順に席は決めてある。先代の王の妹であるベアトリクスは王家に最も近い場所になるはずだ。
「ナターリエ様の意向を優先しましょう。あまり華やかな場はお好きではないのですよね?」
「それはそうね……」
エミーリアがうまくベアトリクスの意見を聞きつつ話をまとめてくれるのでマティアスはこっそりと安堵の息を吐いた。マティアスが相手にしていたらああでもないこうでもないと話がどんどん広がっただろう。
「レオノーラとは仲良くやってるみたいね」
「はい、とても良くしていただいております」
良くしているのはエミーリアのほうであってレオノーラではない、と言いたい。
「でも……気になることがあるのですけど」
「あら? 何かしら」
エミーリアは「その」と少し言いにくそうに言葉を濁らせる。
「フォルジェの国王陛下とレオノーラ様はあまりうまくいっていないんでしょうか? ……先日、そろそろ側室を考えているようなことをおっしゃっていたので」
隣国の国王夫妻の仲が良いのならそれにこしたことはない。まして、王妃がこの国の王女だったのならば。
エミーリアの発言はマティアスにもベアトリクスにも衝撃を与えた。
「愛想が尽かされたか……?」
「何を言うのマティアス。フォルジェ王はかなり熱心にあの子を妻にと望んだはずでしょう」
「とはいえあの性格なので……」
結婚生活の中で嫌なことが積もり積もって百年の恋も冷めることだってあるだろう。だってあのレオノーラだ。実の弟であるマティアスすら相手にするのがめんどうなのに。




