19:もしもの未来
「ご懐妊です」
レオノーラの一言で三人のお茶会は中断され、コリンナは医師の診察を受けたわけだが、本人以上に慌てたエミーリアは医師の言葉に力が抜けていくようだった。おそらくここが自宅の公爵邸なら腰が抜けて座り込んでいる。
「あら……」
コリンナは目を丸くしてそう言っている。
(も、もしかして驚いているのはわたくしだけ?)
このままコリンナを帰そうとも思ったが、彼女の夫であるリヒャルトはちょうど城にいる。急いで伝言を頼み、リヒャルトが来るまでは再び三人でお茶をしながら待つことにした。
妊婦にもやさしいハーブティーに変え、ようやく一息つく。
「新しい薔薇を観賞するどころではなくなりましたね……」
もともと今日は新しい薔薇をレオノーラと観賞するため、薔薇を作ったリヒャルトの妻であるコリンナも招待した――という話になっていたはずだ。本来の目的はエミーリアとコリンナの仲直りだったわけだが、それは早々に解決している。
「エミーリアはまだ薔薇を見ていないの?」
「ええ、お姉様はどんな薔薇かご存知?」
「当たり前でしょう。私の夫が作ったんだもの」
にやにやと楽しげに笑う姉の姿に、エミーリアは首を傾げた。いったいどんな薔薇なんだろうか。
「どうせ薔薇は口実だもの。今度ゆっくり見たらいいんじゃない?」
ハーブティーを飲みながらレオノーラがそう言ってくれたので、このまま大人しくお茶を飲みながら談笑することになる。
(妊娠初期は気をつけることがたくさんあったわよね……あとで確認しておこうかしら?)
知識としては覚えているものの、活用する機会がなかったせいかすっかりうろ覚えになっている。
「正直子どもができない体質かと思っていたんだけど……」
苦笑気味にコリンナがそう言った。「えっ」と驚いたのはエミーリアだけで、レオノーラは表情を変えていない。
「結婚して数年経つけど、なかなかできなかったでしょう? 私は痩せているし、もしかしたら無理かもと思っていたのよ」
「そ、そうだったんですか……」
そんな素振りはまったくなかったように思う。コリンナもリヒャルトも仲睦まじく、エミーリアの目には二人が悩んでいるようにはまったく見えなかった。
「養子を考えるべきかしら……と思っていたところだし、ほっとしたわ。無事に生まれるまでは安心できないけど」
「子どもは授かりものだものね……」
既婚者であるコリンナとレオノーラの声は現実味があってじっとりと重い。
(……子ども……)
「私もそろそろ側妃をすすめるべきなんでしょうね。フォルジェでは姫に継承権はないし……近頃は、あまり夜も一緒に過ごすこともなくなったし……」
レオノーラが少し沈んだ顔で呟いていた。後半はほとんど独り言のように聞こえる。
(側妃……跡継ぎ……そう、よね。結婚すれば、そういうことを考えなくちゃ……)
貴族の家にとっても、王族にとっても、跡継ぎは重要だ。結婚したあとの女性に求められるのは子を産むことである。
レオノーラは王妃で、エミーリアも王妃となる。もし後継となる子を産めなければ、他の女性を妃に迎えることを認めなければならない。後宮が存在する国もあるが、その場合、後宮の女性たちは正妃がまとめる立場になると聞いたことがある。
(頭ではわかっているつもりだったけど……)
こうして、結婚と出産をまざまざと感じると胸の奥にひやりとした不安が広がる。
(アイゼンシュタットに後宮はないし、基本的に王妃は一人だけ。でも当然、例外はある)
過去には愛妾を持った王もいたし、子どもを産めない病弱な王妃に代わり側室が設けられたこともある。
妃という名を与えられないだけで、王が複数の女性を囲うことも歴史の中ではあった。もちろんマティアスがそんな人ではないことくらい、エミーリアもわかっている。
(でももし、わたくしが子どもを産めなかったら――)
じわりと胸の奥に黒いインクが沁み込んでいくように不安が広がりかけたときだった。
「コリンナ!」
エミーリアは聞いたことのない、余裕のなさそうなリヒャルトの声だった。
「医者に診てもらったって聞いたけどどこか具合でも――」
普段は飄々としている義兄は汗を滲ませてコリンナのもとに駆け寄った。もとから礼儀作法がすっぽりと抜けてしまうことはある人だけど、隣国の王妃の前でこれは貴族としては大きな失態だ。いくらプライベートな場だとしてもレオノーラが問題にすれば簡単におおごとになる。
「落ち着きなさいな。大丈夫よ、病気とかじゃないから。エミーリア、伝言で内容までは教えてくれなかったの?」
「お姉様の口から教えて差し上げるべきかと思いまして」
リヒャルトだって他人の口から奥さんがご懐妊ですよ、なんて伝言をもらいたくはないだろう。
「病気じゃないならどうしてわざわざ城にいるときに慌てて医者を呼ぶ必要があるんだ」
「子どもができたの」
むっとした顔をしたリヒャルトに、間髪入れずコリンナが答えた。その瞬間、リヒャルトが氷漬けにでもなったかのようにぴしりと固まる。
数十秒経って、ゆるゆると首が動き始める。
「……こども?」
夢を見ているような少し呆けた声に、コリンナが笑う。
「そう、子ども。妊娠していたみたい。レオノーラ様と話していたらもしかしてという感じになって――ちょっと!」
「急いで帰って安静にしないと駄目だろう!」
にこにこと報告するコリンナをリヒャルトは抱き上げた。そのまま家まで一歩も歩かせないという意思を感じさせる姿にエミーリアは慌てて「お義兄様!」と声をかけた。
「なんだいエミーリア。ああすまないこのまま失礼するよ。今とても急いでいるんだ」
「お義兄様が万が一お姉様を落としたらどうなさるおつもりですか! それに少しは運動しなければお姉様の筋力が落ちてしまいます! 過保護はほどほどになさってください!」
頭のいいリヒャルトがエミーリアの言い分を理解できないはずがない。そう思ったがリヒャルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
「僕が妻を落とすわけがないだろう」
「可能性の話をしているんでしょう早く下ろしなさいこの馬鹿!」
べしっとコリンナに頭を叩かれてわずかにリヒャルトも冷静さを取り戻したようだが、コリンナは抱き上げられたままだ。
「僕を馬鹿なんて言うのは君くらいだよ」
「お馬鹿を馬鹿と言ってなにが悪いのよ。おろしなさい、今すぐに。じゃないと出産するまで家に帰らないわよ」
コリンナはやるといったらやる。それをリヒャルトもわかっているのでしぶしぶといった風にコリンナをおろした。その動作はとても慎重で、ガラス細工に触れているようだ。
「レオノーラ様、今日はありがとうございました。滞在中にまたこうして会う機会があればよいのですけど」
「難しいのではないかしら? 心配性の旦那様がいることだし」
くすくすと笑うレオノーラにコリンナは「意地でも時間を作ります」と返していた。コリンナがそう決めたのならリヒャルトに拒否権はない。ただあとでだいぶねちねちと文句は言ってくるだろう。
「エミーリア、それじゃあね」
「はい、お姉様もお気をつけて」
挨拶を終えるとリヒャルトの手をとり、いつもより幾分かゆっくりとした足取りでコリンナは去って行った。




