15:リヒャルトの助言
――時は少し遡る。
愛しい妻の怒鳴り声に懐かしさを感じながらリヒャルト・グレーデンは少し冷めた紅茶で喉を潤した。潤したといってもリヒャルトはろくに話していないので喉が渇くこともないのだが。
さて、本来ならば不敬罪といわれてもおかしくないコリンナの行動と言動だが、それをリヒャルトは黙認している。言葉を少々乱暴にするのなら、野放しにしていると言ってもいい。
なぜならリヒャルトはありのままのコリンナを愛しているし、そして彼女の発言は正論だ。この国には若き王を諌める立場の人間も少ないので、マティアス自身もたまにはこういうお叱りを受けるべきだろう。わざわざ人払いをしたこの場であるのなら問題もない。
正直なところ、いくらリンハルト公爵夫人のサポートがあったとしても、相手がマティアスの姉であるレオノーラだとしても、その対応をまだ王妃ではないエミーリアに任せるのはどうかと思う。婚約者という立場でしかないエミーリアには決定権がないことが多々あるし、信頼出来る側近もまだ育っていない。
国内の貴族相手ならまだしも、他国の王妃だ。最初に経験するにはあまりにも壁が高い。その壁を乗り越えてしまうエミーリアの優秀さがいけないのかもしれないが。
コリンナに怒鳴られたマティアスは驚いていた。彼ももともと優秀な男だ。こんなにはっきりとおまえが悪いと怒鳴られた経験なんてないかもしれない。
マティアスの実母は北都ハインツェルに引きこもり、実姉は他国に嫁いでしまった。彼に堂々と意見できるのは伯母であるリンハルト公爵夫人くらいだが、彼女も血が繋がっているとはいえ今は王族の一員ではない。
不機嫌さを隠そうとしないコリンナと、驚きつつその後は何やら考え込んでいるマティアス。そんな二人を放置して紅茶を飲むリヒャルト。なんともいえない沈黙を破ったのは、控えめなノックの音だった。
「どうした」
マティアスがすぐに反応すると、護衛のヘンリックが動く。ヘンリックは扉をわずかに開けて、外の護衛と何やら会話していた。
「陛下。シュタルク嬢がこちらにいらっしゃるみたいです」
「エミーリアが?」
その声は二つ。マティアスとコリンナのものだ。
こういうところは気が合うのか、とリヒャルトは笑いそうになるのを必死で堪えた。ここで笑ったらきっと可愛い妻は三日くらい相手にしてくれなくなる。
「女官がグレーデン夫妻が来ていることを伝えたらしく……」
「だとすれば、彼女なら顔を見に来るだろうな」
ふ、とマティアスが表情を和ませる。
エミーリアのことを考えるだけでこの男はこんなにもやわらかい顔をするらしい。
連絡を受けてから十数分ほどでエミーリアはやってきた。
「失礼いたします、陛下」
ドレスの裾をほんの少し持ち上げて、緩やかな動作で優雅な礼をする。これだけの動きがなかなか難しいのだということを、リヒャルトはコリンナと結婚してから知った。
「ちょうど世間話をしていたところだ。君も姉君と会うのは久しぶりなんじゃないか?」
「ふふ、実はこの間我が家で会ったばかりです。ありがとうございます陛下」
エミーリアがやってくるとマティアスは当然という顔で彼女をエスコートした。椅子まではほんの数メートルの距離だ。護衛の騎士に任せてもいいだろうに。
もしかしたらエミーリアはコリンナの監視に来たのかもしれないな、とリヒャルトは思った。コリンナの姉馬鹿っぷりはおそらく、いや確実にエミーリアにはバレている。どの程度の姉馬鹿なのかは気づいていないかもしれないが。
そんな姉がマティアスに喧嘩を売らないか心配したのだろう。
エミーリアの緑色の瞳が、じぃっと周囲を見る。見透かすようなその目にリヒャルトはにこりと微笑み返しておいた。ポーカーフェイスは得意だ。それがエミーリアに通じるかどうかは別として。
その後、表面上は穏やかな、しかし心理戦のような会話が繰り広げられ、目の前でマティアスとエミーリアにいちゃつかれた。
正直リヒャルトは疲れた。やはり引きこもって研究に没頭しているほうが気楽だし有益では?
帰りの馬車のなかは沈黙に支配されていた。
その原因であるエミーリアは自覚がないのか少し困惑しているようで、黙り込んだ姉を心配そうに見つめている。
リヒャルトはコリンナの気持ちを理解できるわけではないけど、今の彼女の心境は手に取るようにわかる。なぜならリヒャルトはコリンナの夫なので。
「ああ、着いたみたいだね」
馬車はゆっくりと止まる。この馬車はリヒャルトたちが乗ってきたものだが、ついでだからとエミーリアを送ることにしたのだ。
「……エミーリア」
ずっと黙り込んでいたコリンナが口を開く。
馬車から降りようと腰を上げかけていたエミーリアは「はい」と微笑みながらもう一度座り直した。
「私は……私たち、あなたの家族は、あなたのことを心から愛しているわ。そのことを、どんなときも忘れないでね」
エミーリアは目を丸くしていた。突然どうしてそんなことを言うんだろう、と。そんな顔をしていた。
「もちろんですわ、お姉様」
コリンナの手を握り、エミーリアは微笑んだ。その微笑みには嘘も誤魔化しもない。けれどコリンナは少し寂しげに微笑み返すだけだった。
さて、こんなときのフォローもできる夫の務めである。少なくともリヒャルトはそう思っている。
「エミーリア」
お手をどうぞ、とリヒャルトは先に馬車を降りてエスコートをする。エミーリアはきょとん、とまた目を丸くしてリヒャルトの手をとった。
「……お義兄様、わたくし、何かおかしなことを言ってしまいましたか?」
まるで生徒が教師に教えを乞うように、エミーリアはリヒャルトに問いかけてきた。
馬車から降りたばかりで、この会話はコリンナの耳にも届いているかもしれない。きっとエミーリアはそれも理解した上で問いかけてきている。
「君の発言は、未来の王妃としてどれも完璧だったよ」
国民のためならその命すら惜しまない。天秤にかけることすら許さない。その回答は、王妃としては正しかった。
「けれど、君を愛する人のまえで言うのは配慮に欠けていたかもしれないな。マティアスやコリンナは君が未来の王妃となるから愛しているわけじゃないからね」
「……あ」
リヒャルトはまどろっこしいことが嫌いなのではっきりと言う。
その口から出された回答に、エミーリアは小さく声を零した。今の今まで気づいていなかったようだ。
「あの場でコリンナが欲しかったのは未来の王妃の回答ではなく、ただのエミーリアの答えだ。……まぁマティアスを試そうとしていたコリンナも行儀良くはないけど」
らしくないな、と思いながらリヒャルトはエミーリアの頭を撫でた。たぶん妻に毒されてリヒャルトも少しだけこの義妹がかわいくて仕方なくなっているのかもしれない。
「君は、君が周りから愛されていることをもつと自覚しなさい」
必要とされている以上に、愛されているのだ。
愛している存在が、あっさりと笑顔で死を選ぶ選択を口にした。それが当然だと言わんばかりに。
それが、エミーリアを愛している者を傷つける発言だったと自覚していない。
この子は思考の根底に『誰かの役に立たなければいけない』というものがある気がする。誰かとは公爵家だったりもするし、国王であるマティアスだったりもするし、国民や国そのものだったりもする。そうでなければ自分には価値がないと無自覚に思っているところがある。価値がなければ愛されない、と。
それはエミーリアを愛する者への侮辱でもある。エミーリアがエミーリアを蔑ろにすることは、マティアスやコリンナのように彼女を愛してやまない者をたやすく傷つける。
「……はい、お義兄様」
エミーリアが噛み締めるように呟いた。




