12:ただの男として
ただ一人の男として。
そう言われてマティアスは困惑した。
マティアスは生まれたときから王族であり、王子であり、次期国王だった。その道が崩れることなくそのまま国王になった。予定よりも早すぎる即位に苦労はあったが、王となることは定められていたことだ。
王族としての務めを果たすために個人としてのマティアスは極限まで薄められ、マティアス自身でさえ国王ではない自分など今となっては想像もできない。
ただ一人の男としてなんて、考えたこともなかったし、考えてはならないことだと思っている。
恋に溺れる愚かな男にはなれない。
愛に耽って国の大事を見誤るわけにはいかない。
マティアスは王であるからこそ、個人の欲に目を眩ませるわけにはいかないのだ。
だが、エミーリアのことを国王として愛しているわけではない。それは断言できる。
「……エミーリアがもしも王妃にふさわしい教養を身につけていない令嬢だったら、あなたは婚約者にしましたか?」
「それは考えるだけ無駄な仮定だろう」
コリンナの問いにマティアスはゆるりと首を振った。
エミーリアは王妃にふさわしいから選ばれた。選ばれなければ、マティアスは彼女を婚約者にしていなかった。そもそもの前提が違う。
マティアスはエミーリアに恋をしたから婚約者にしたのではない。婚約者となった彼女に恋をした。始まり方がどうであれこの気持ちを否定することはないし、させるつもりもない。
「必要な『もしも』の話ですよ。いつかの不安の種を取り除くために」
「その『もしも』では私と彼女は出会っていない」
「いいえ、どんな形であれ出会ってはいるでしょう。ただ、陛下の目にはその他大勢の令嬢と同じに映ったかもしれない、というだけです」
コリンナの言葉にマティアスの心の中ではとっさに「いや」と否定の言葉が浮かぶ。
その他大勢の令嬢と同じだなんて、とんでもない。エミーリアは初めから、マティアスにとっては特別だった。
まだ国王にもなっていないマティアスが、庭園で泣くエミーリアを見つけたあのときから。
しかしそれを、すぐに思い出せなかった自分が呆れるように否定してくる。気づかなかっただろう、おまえは。エミーリアがあのときの女の子であることに、と。
気づけたのはエミーリアが歩み寄ってくれたからだ。諦めないでくれたからだ。恋をしてほしい、とそう望んでマティアスに向かって迷わず手を伸ばしてくれたからだ。
「エミーリアが陛下に向けている思いは第三者の目にもはっきりしています。未来の王妃としても、ただの女の子としても、あの子は陛下に恋をしている」
そう、エミーリアはまっすぐに好意を伝えてくれる。最初から、ずっと。
思いが通じ合ってからは、マティアスが不安になる暇などないくらいに。
無遠慮とも不敬とも思える言葉を重ね続けるコリンナに、マティアスは静かに耳を傾けた。ちくちくと小さなトゲで刺されているような気分になるのに、聞かなければならないと思った。
「……では、陛下は?」
小さな問いに、マティアスは完全に言葉を失った。
余計な言葉が一切ない、飾り立てていないシンプルな問いかけだ。
エミーリアはこれまでこれ以上ないほどに真摯にマティアスへ愛を伝えてきた。誰の目にもその恋が確かなものなのだと思うほどに、明らかに。
ではマティアスは?
――マティアスはどうだった?
「話の途中に割り込んで失礼ですが、陛下は周りから見てもはっきりとシュタルク嬢を愛していらっしゃいますよ」
問いに先に答えたのはヘンリックだった。
マティアスの喉はその声にかすかに震えて、音を出すことを思い出そうとした。
「陛下として、でしょう。そんなことは私の耳にも届いておりますわ」
「いや、それなら――」
「ですから、先ほどから私が言っているのは王ではなくただの男としての話です」
きっぱりと、コリンナは再びその言葉を告げる。
――ただの男として。
「陛下が素晴らしい王であることは国民として誇らしく思います。ですが、そういった立場を抜きにしてエミーリアと向き合ったことはありまして? 未来の王妃としてではなくエミーリアをただの女の子として扱えます? 今だって陛下は、レオノーラ様への対応をあの子に押しつけていらっしゃる。こういうことがのちのち、不和を生む種になりませんか? いつかあの子が『自分は便利な存在だから王妃になったのだ。王妃だから愛されているのだ』……なんて不安になったときに、それを吹き飛ばすほどの愛を陛下は伝えていらっしゃる?」
矢継ぎ早に問い詰められて、マティアスは息を呑んだ。
カラカラに乾いた喉に飲み込んだ唾がしみる。
「……王が、恋だの愛だのに溺れるわけにはいかない」
マティアスの声は小さくはあったものの、はっきりとしていた。
「だがそれでも、彼女を愛している。それが揺らぐことはない」
今度はよりしっかりと声になる。
そして声に出したことで明瞭になった。コリンナの問いかけに揺れていた心が落ち着きを取り戻してくる。
コリンナを見ると、彼女はにっこりと笑っていた。エミーリアとは似ていない大輪の花のような艶やかな微笑みだ。
その笑顔に、嫌な予感がする。
気づいたのだ。コリンナは、どちらかというとレオノーラに似ているタイプの女性だと。つまりこういう笑顔は『今から攻撃するぞ』という合図である。
「めんどくさいから残りの淑女の仮面も取っ払って言いますけど」
コリンナはまだ親切に、攻撃の前の予告をした。
キッと翠の目に睨みつけられる。
「そういうことをもっとしっかりはっきり日頃から本人であるエミーリアに言えと言ってるのよ私は!!」
キンキンとした怒鳴り声が部屋に響いた。
これでは人払いの意味さえないかもしれない。
「マリッジブルーってご存知? 本来なら一番過敏になるべきこの時期によくも義姉への対応をあの子に任せたわね!? エミーリアは都合のいい何でも屋じゃないのよ十歳も下の女の子に甘えるのはやめていただける!?」
怒鳴られているが言っていることは理不尽なことでもなく、マティアスとしては耳に痛い内容だ。
しかしそれよりも聞き捨てならないのが。
「マリッジブルーになっているのか?」
だとしたらゆゆしき事態だ。早くエミーリアと話をして不安を取り除かねばならないとマティアスが気を引き締めていると、コリンナはそのうつくしい形の頬をひくりと震わせる。
「なる暇もないでしょうよ!!」
その声は今日一番の大音量だった。




