29:春よこい
「エミーリア?」
背後で聞こえた低い声に、エミーリアは振り返った。ちょうどフェルザー城に戻ってきたマティアスがそこに立っている。マティアスの目はエミーリアの向こうにいるナターリエに向けられた。
「母上も……? いや、どうして」
どうしてエミーリアと自分の母親が? という顔でマティアスは二人を見る。その様子にナターリエがくすりと笑う。
「顔合わせは済みました。会う予定だったはずの午後は彼女とゆっくり過ごしなさいね」
夕食は一緒にとりましょう、とナターリエは告げて、その場を去る。
「あの人はまた勝手に……エミーリア? 一体なんの話を……」
「……へいか」
エミーリアはただマティアスを見つめていた。瞬きすらも惜しむように、まっすぐに、愛しいその人を目に焼き付ける。
その瞳に、マティアスは言葉を飲み込んだようだった。
「……陛下」
繰り返し、エミーリアはマティアスを呼ぶ。
返事を求めているわけではなくて、ただ呼びたかった。その存在を確かめるように。目の前の彼が幻ではないと自分に言い聞かせるように。
それなのに呼んでも呼んでも満足できない。喉の奥がきゅうっと締め付けられて、声がかすれる。喉が渇いたみたいな感覚に、エミーリアは息を吐いた。
(……足りない)
何が足りない。だからエミーリアはずっと苦しい。
愛しくて愛しくてたまらなくて、苦しいのだ。
「エミーリア?」
マティアスがそっと頬に触れてくる。
思えばマティアスがエミーリアに触れてくるときは、いつもやさしい。壊れ物に触れるように、その指先の熱で溶けてしまわないように。
マティアスに名前を呼ばれると、頭の中まで痺れるような心地がした。
(……陛下も同じなのかしら)
同じように、名前を呼んだらこんな心地になるのだろうか。
ふわふわとして気持ちが浮かび上がるような気がするのに、胸はぎゅっと締め付けられて苦しい。どれだけ息を吸っても足りなくて、頭は溶けてしまいそうなほどくらくらする。
唇を震わせる。
涙の滲む目で、確かにマティアスを見上げる。
そうして、喉の奥からその愛しい音を紡いだ。
「……マティアス様」
それは雪のように消えてしまいそうなほどか細い声だった。
しかしマティアスの目は驚きで見開かれる。ああ聞こえたのだ、とエミーリアは微笑んだ。届いたのだ、ちゃんと。
「……好きです、大好きです、マティアス様」
頬に触れるマティアスの手に自分の手を重ねる。こうして見ると、思いを通わせたあの庭園を思い出した。
「わたくし、あなたに出会えて本当にしあわせです」
あの日、あの時出会えたことは、間違いなく奇跡だった。運命だったのかもしれないし、神様のいたずらかもしれない。どちらでもエミーリアは良かった。マティアスと出会えたという事実だけ、大事にできれば。
頬に触れていた手が離れていく。寂しい、と訴えるよりも先に、マティアスに強く抱きしめられていた。
エミーリア、と耳元で声がする。その艶のある声に、腰が抜けそうになった。縋るようにマティアスにしがみつけば、強い拘束がわずかに緩む。
(――あ)
青い瞳が、エミーリアを見つめていた。
鼻先が触れ合うほどの距離にいるマティアスに、エミーリアの身体がカッと熱くなる。もうすっかり身体に力が入らない。
吐息を唇で感じた。
エミーリアはそろりと手を持ちあげて、その吐息を遮るように、マティアスの唇を自分の指先で塞いだ。
「こ、これも……練習、ですか……?」
震える声で確かめる。
だって、確かめないといけない。
婚前なのに口づけなんて、はしたないことだ。マティアスにいやらしい娘だと思われたくない。
でも。
(でも、練習なら――)
練習は必要だから、仕方ない。そんなちょっと頼りない言い訳が一応使えるのだ。
マティアスはエミーリアの手を取り、その指先に口づけた。その顔にエミーリアはひぇ、と息を飲んだ。
いつになく男の人の顔をしている、ような気がする。
「……そうだな、練習だ」
指を絡め、そのままエミーリアの手は胸元に連れていかれる。遮るものがなくなってしまった。
(れんしゅう)
マティアスの言葉を頭の中で繰り返し、エミーリアは熱に浮かされるように答える。
「……練習なら、仕方ないですよね」
最後のほうの言葉は、マティアスの唇に飲み込まれてしまった。
*
デリアがフェルザー城を去ってから数日後、エミーリアとマティアスも王都に戻ることになった。
災害現場の復旧も順調に進んでいる。橋だけはすぐに再建できないものの、土砂崩れなどが起きた場所はもはや問題なく通れるようになっていた。
オリヴァーとパウラも領地に戻り、エミーリアが提案した話を真剣に取り組もうと思っている、と言われている。パウラとは王都にあるシュタルク公爵家に連絡をくれれば力になる、と伝えておいた。
「それではナターリエ様、短い間でしたがありがとうございました」
エミーリアの課題であった王太后への結婚の挨拶、というのは問題なく解決した。嫁姑問題はまったく心配いらないだろう。
「またいつでも来てちょうだいね」
「はい、ナターリエ様もたまには王都にいらしてくださいね」
「王都では病弱なふりをしなければいけないからちょっと面倒ね……」
ナターリエの病弱という情報は、先王によって広められたものらしい。プロポーズの言葉がナターリエから筆を奪わない、というものであった以上、先王はナターリエを無理に公務に参加させようとはしなかったらしい。
必要最低限の公務さえできればいい、とナターリエは身体が弱いということにして絵に没頭することを許したのだ。
その後押しをしたのが今のリンハルト公爵夫人――当時は姫君であった彼女が、王妃がやるべき公務を肩代わりしていた。結婚後も、協力できる範囲はかなり協力していたらしい。
(リンハルト公爵夫人が相手では……確かに瞬く間に外堀は埋められるでしょうね……)
「そういえば、ナターリエ様」
「何かしら」
「わたくしは、絵を描いてもいいと思うんです。先王陛下も一緒に、皆が揃った絵を」
叶えることのできなかった約束の話を持ち出されて、ナターリエは目を丸くした。
「だって、ありのままを描くだけが絵ではないと思うんです。ナターリエ様の望むものを、描きたいものを描いてもいいのではないでしょうか」
有り得たかもしれない可能性を絵にしても、誰も怒らない。見てみたかった未来を形にしても、いいのではないだろうか。
エミーリアの言葉に、ナターリエは「ふふ」と笑みを零した。
「……それなら、楽しみにしているわ」
何を、とは言われなかった。しかしエミーリアはしばし考えたあとで、答えを見つけて真っ赤になる。
「え、あ、あの、が……がんばります……?」
(こ、これで答えは合ってるかしら……!? で、でも授かりものともいうし、でもでもお母様もお祖母様も安産だったし子どもは三人だし、たぶんわたくしも大丈夫だと思うのだけど……!!)
しかしまずはとにかく結婚しなければ。その先の話はまだ早い。
真っ赤になるエミーリアにナターリエはくすくすと微笑ましそうに笑い、いつの間にか林檎のように赤くなった婚約者に、マティアスは不思議そうな顔をしていた。
帰りの馬車も当然マティアスと一緒だ。
赤くなった顔は少し落ち着いたものの、心臓はまだちょっとどくどくと忙しない。
「……そういえば、ナターリエ様はどうしてすぐお会いでなかったんですか?」
「母上はあの通り、どちらかというと画家としての気質のほうが強いんだ。好調だと人と会うことを忘れて絵を描き続けるし、不調だと意図的に人と会うのを避ける」
だからもともと、すぐに会えるとは思っていなかったんだ、とマティアスが苦笑する。
「ではわたくしが偶然お会いできたのは、本当に珍しいことだったんですね……」
人を避けてはいるものの、室内に閉じこもると描くものも似通ってくる。だからナターリエは庭に出ることはままあることらしく、フェルザー城の使用人たちはそんなナターリエに気を使って遭遇しないようにしたりもするのだとか。
「……変わっているだろう?」
「そうですか?マティアス様も似ているところがありますよ」
執務に没頭しがちなところとか、似ていると思う。くすりと笑ったエミーリアを引き寄せて、マティアスはその唇に口づける。
何が起きたのかわからず、エミーリアは瞬きをした。そのままマティアスの膝に乗せられて、ようやく「ひゃあ!?」と声をあげる。
「な、な、なんですか……!?」
なんの前触れもない口づけは果たして練習なのだろうか。いやこれはこれでそういう日常的なキスの練習なのだろうか。
マティアスは逃げようとするエミーリアの腰を抱き寄せて口を開く。
「気づいたんだが」
「は、はい!?」
「君に名前を呼ばれるとキスしたくなる」
「はいぃ!?」
マティアスの顔は真剣そのものだったが、エミーリアの頭の中は大混乱に陥っていた。
「だから、名前を呼ぶのは二人きりのときだけにしてほしい」
「そ、それはもちろんですけれど、その、おろしていただけると……!」
マティアスの膝に乗ったままどうして落ち着いて話ができるだろうか!
「馬車が動いているなか移動するのは危ないだろう?」
「ま、マティアス様が引き寄せて……あっ」
「……それは強請られていると解釈しても?」
つい名前を呼んでしまったと焦るエミーリアに、マティアスが少し意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ダッダメです無理です! し、心臓が……!」
ドキドキしすぎて壊れそうだ。先ほどからうまく息ができない。
うう、と唸りながら俯くエミーリアの頭を抱き寄せて、マティアスはくすくすと笑う。ちょうどマティアスの肩にエミーリアが頭を預けるような体勢だ。
「……早く春になるといい」
まだ秋も始まったばかり、冬すらきていないのに、マティアスはそんなことを呟く。
その言葉の真意を汲み取って、エミーリアはますます赤くなってマティアスの顔が見られなかった。
(……わたくしは、もう少し慣れるまで時間をかけないと心臓がもたないわ……)
冬が終わり、春を迎える頃。
エミーリアは、この国で一番しあわせな花嫁になる。




