6:婚前旅行?いいえ、ご挨拶に伺うだけです。
翌週、王立図書館に行く暇を取れなかったエミーリアは、結果として一週間ぶりにマティアスと顔を合わせることになった。
特に意図してそうなったわけではない。エミーリアも国王陛下の婚約者として、公爵令嬢としてなかなか多忙な日々を送っている。図書館に行く時間を作れなかっただけだ。
マティアスに会えない寂しさはあるけれど、エミーリアはほんの少しほっとしている。会うのがこのくらいの頻度なら、悪い噂なんて流れる心配もないだろう。
(ヘンリック様は気にしなくていいとおっしゃっていたけど、気をつけるに越したことはないと思うのよね……!)
噂というものは尾ひれがついてそのうち勝手に一人歩きしてしまうこともある。広まってしまってからは手遅れなのだ。
エミーリアを乗せた馬車が門をくぐり、しばらくして馬車が止まる。
そこには当然のようにマティアスが待っていて、馬車から降りるエミーリアに手を差し出した。
「ありがとうございます、陛下」
ふわりと微笑みながらエミーリアはマティアスの手を取る。
「エミーリア」
低く甘い声がエミーリアの名前を口にする。そのことに、エミーリア自身はまだちょっと慣れない。そわそわと落ち着かない気持ちにさせられるし、完璧な令嬢としての仮面が剥がれ落ちそうになる。
しかしいつまでも『あまり名前を呼ばないでほしい』なんてお願いができるはずもない。なんといっても二人は相思相愛の恋人なのだ。
エミーリアは跳ね上がる心臓を深呼吸で落ち着かせ、マティアスのエスコートで今日も歩くのだ。
案内されたのは温室だった。ここなら晩夏といえど暑すぎることもなく快適に過ごせるだろう。
運び込まれていたテーブルと椅子、そして既にお茶の準備は整っている。
(夏摘みのダージリンかしら? それならミルクはいらないわね)
そういえば、とマティアスが口を開いたのでエミーリアはティーカップを置いた。
「ハインツェルへ行く日程はそのままで平気か?」
「ええ、わたくしは大丈夫です」
しっかりと頷いて、エミーリアは今後の予定を思い浮かべた。
北都ハインツェル。
王都の北にあるその都市は、山に囲まれた土地だ。避暑地としても人気で、エミーリアとマティアスは避暑もかねてその都市を訪ねる予定だったのだ。しかしマティアスがあまりに多忙で予定が合わず、二度ほど延期になって、結局は避暑とは関係なくなってしまった。
北都ハインツェルに行くのはもちろんただの旅行などではない。
(ちょっとだけ婚前旅行……!? とか思ってしまったこともあったけど……!)
ハインツェルで療養している王太后……つまり、マティアスの母に会うために二人で訪ねるのだ。
「その、王太后様へのご挨拶に伺うのが遅くなってしまったのは……」
大丈夫でしょうか、とエミーリアが小さな声で呟く。
「母のことは気にしなくていい。あれこれ口を出してくる人ではないからな」
マティアスはきっぱりと言い切るが、エミーリアの不安は消えない。
なんといっても相手はマティアスの母。エミーリアの未来の姑である。出来ることならいい印象を持たれたいし、気に入られたい。
王太后であるナターリエは、王妃であった頃からあまり表舞台には現れなかったお人である。身体が弱く、公務のほとんどは先王やリンハルト公爵夫人が肩代わりしていたらしい。
エミーリアもマティアスの戴冠式の時に遠くからチラリとその顔を見たことがあるだけだ。
「王太后様はどんな方なんですか?」
事前に相手について調べておくのはエミーリアの癖である。それを知っているマティアスは素直に答えようとして、そして渋い顔になって黙り込んだ。
「へ、陛下?」
「なんというか……説明しにくい。変わった人だとしか」
「変わった方、ですか……?」
噂に聞く王太后とはまるで違う印象の言葉にエミーリアは首を傾げた。
「とにかく、あまり緊張することはない。母は本当に何か文句を言うような人ではないし……そもそもそれほど人に興味を持たないからな」
「そ、そうなんですか……?」
ますます王太后の人物像がぐにゃぐにゃになっていき、エミーリアは曖昧に相槌を打つしかなかった。
*
北都ハインツェルへはマティアスとエミーリア、そして近衛騎士であるヘンリックを含めた騎士が十人ほど。エミーリアの付き添いは公爵家からハンナが来たが、王城の女官であるテレーゼも同行している。
テレーゼはエミーリアとマティアスが結婚したのちは、エミーリア付きの女官になる予定の人だ。今回ハンナと共に行動することでエミーリアの癖や好みを効率よく引き継ごうという考えである。
そしてその道中の馬車はエミーリアとマティアス、そしてハンナとテレーゼとわかれることになった。
動く密室ともいえる馬車のなかで、エミーリアはマティアスと二人きりというわけだ。
(そ、そりゃ前よりは陛下と一緒にいても緊張しなくなったけど! でも長時間馬車の中で二人きりというのはわたくしの心臓が持つかどうか……!)
ただでさえ王太后ナターリエとの顔合わせを前にエミーリアは緊張しているのに。
(てっきりハンナも一緒かなと思っていたんだけど……!)
馬車は四人乗りのものだ。三人でもゆったりと乗れるくらいの大きさがある。しかしテレーゼも同行することになり、二人はあっさりとエミーリアをマティアスと一緒に押し込めて別の馬車に乗ったというわけだ。
「エミーリア? もしかして酔ったか?」
普段よりも口数の少ないエミーリアに、マティアスが心配するように声をかけてくれる。そんな些細なやさしさにも胸がきゅうっとなってしまう。
「だ、大丈夫です。わたくし、馬車で酔ったことはありませんから」
「だが長距離移動は慣れていないだろう」
「そうですね……我が家では王都の屋敷にいるのが普通になっているので、あまり領地には行きませんし……」
シュタルク公爵家の領地には兄のルドルフがいる。兄に会うのは彼が王都にやってきたときくらいで、エミーリアが領地に行くことはほとんどない。
「具合が悪くなったら素直に言ってくれ。余裕をもってスケジュールは組んでいる」
「ふふ、ありがとうございます」
でも、とエミーリアはマティアスを見る。
その目の下には少しクマができていることに、エミーリアはしっかり気づいていた。
「陛下こそ無理はなさらないでくださいね? わたくしのことは気にせず仮眠をとってくださってもいいんですよ?」
「……これは無理をしたというほどではなく、前倒しでできることをやっておいただけだ」
小さく言い訳を零すマティアスに、エミーリアはにっこりと微笑む。
(ヘンリック様に確認したらわかることですよ、陛下)
それを口に出さなかったのはエミーリアのせめてものやさしさだ。マティアスにも言いたいことが伝わったのか、叱られる前の子どものような顔をしている。
「……せっかく君とゆっくり話す時間がとれるのだから、仮眠に使ったらもったいないだろう?」
少し拗ねたような響きのあるマティアスの言葉に、エミーリアはうっ、と息を呑み込む。
「そっそういう言い方はずるいと思います……!」
一瞬で真っ赤になったエミーリアは、途端に激しく動き出した心臓を落ち着けるように胸元を押さえるのだった。




